▼東ティモールに散ったジャーナリスト

追悼 アグス・ムリアワン 「ディリで、また会おう」

        (月刊「アジアウェーブ」00年2月号掲載の元原稿)



東ティモールへの現地入りの前日、私はジャカルタのホテルで彼と同じ部屋にいた。九九年二月二四日の夜だった。荷物をリュックサックに詰めているときに、私が、

「いよいよ、明日から東ティモールだね。緊張してる?」

とたずねると、彼は、

「緊張よりも、すごく楽しみだよ。早く行きたい」と、初の東ティモールへの取材に胸を膨らませていた。

 翌日、東ティモールの中心都市ディリに到着すると、いきなりインドネシア国軍の乱射で死亡した大学生の葬儀がおこなわれていた。以後、私は合わせて4ヶ月に渡って、彼とともに東ティモールの殺戮と不条理を目の当たりにした。民兵組織に襲撃され、村を追われた避難民。容赦なく銃で殺害された子供。新婚間もない夫が殺害され、泣き続ける妻。

彼とずっと、いつも現場で取材を続けた。ビデオと写真の両方のカメラで、東ティモールの人々を撮り続けた。

バリ島出身の彼は、いつも、東ティモールの人たちの輪の中にすーっと、とけこんでいった。東ティモールの独立派ゲリラ「東ティモール民族解放軍」(ファリンテル)でさえ、彼ともうずっと前から親しいかのようなつきあい方だった。ファリンテルはこれまでインドネシア国軍と戦い続けてきたゲリラたちだ。当然、インドネシア人への警戒感はある。

だが、彼は違った。ファリンテルの活動拠点に行き、入口の検問で「アグスですけど…」と一言いうと、検問のゲリラはもちろん、トランシーバー越しにも司令官らは「アグスか、よく来た。さあ、中に入ってくれ」と、いつも歓迎してくれた。アグスの名前はゲリラたちの間ですぐに知れ渡っていた。

                                      
                   東ティモールの独立派ゲリラ「ファリンテル」の兵士たち(99年3月)

 そんな彼を、いつも私はうらやましく思っていた。私より二つ歳下の二六才だった彼は、女性にももてた。彼は180センチを超える長身で、以前ボディビルをやっていたという胸板はとても厚い。東ティモールにいる間でも、ホテルのジムで筋力トレーニングは欠かさなかった。そして、きれいな女性を街で見掛けると、いつも「おっ、美人だ」と、はしゃいだものだった。

私たちは、ずっと一緒に取材を続けた。二月二五日から、九月三日まで、のべ八〇日余りの東ティモールの日々を彼と一緒に過ごした。

だが、最後に私たちは別行動をとってしまう。しかも、それはなかば偶然の選択だった。

九月三日、ディリから七〇キロ東に離れた森の奥にあるファリンテルの拠点に、私たちは滞在していた。ファリンテルゲリラたちの投票を取材し終えて、いつディリに戻るかを考えていた。そろそろ、住民投票の開票結果が発表されるというころだった。

私はアグスに聞いた。

「俺はこれからディリに戻って、開票発表の取材をしようと思うけれど、アグスはどうする?」

彼は、少し考えた後、こう言った。

「僕は、ここに残ってファリンテルの取材の続きをするよ。特に、いま本に書こうと思っているゲリラ司令官たちのインタビューを片づけたい。司令官はいま、暇そうだから、ゆっくり話が聞ける。一週間ぐらい後にディリにもどって、バリに一度帰るよ」

彼は、アジアプレスのメンバーとしての取材以外にも、投票監視のNGO団体のメンバーと一緒に写真集をつくったり、ファリンテル司令官らの伝記を書くつもりだった。彼は「いまのうちに、個人的な取材を済ませたい」と思っていたのだろう。私と一緒にいる間は、どうしても私の通訳やアジアプレスとしての取材を優先させなければならない。

 そのころ、ディリ市内は徐々に混乱し始めていた。が、ファリンテル拠点はいつもどおり静かなままだった。私とアグスはあの時点で、東ティモールがよもや無政府状態にまで陥るとは、到底想像できなかった。

9月3日午後遅くになって、私はディリに戻ることにした。迎えに来た車に乗り込む直前、私はアグスに、

「よし、じゃあ気をつけて。ディリでまた会おう」というと、彼は、

「綿井さんこそ、気をつけて。ディリはだんだんやばくなってる。途中の民兵の検問でも気をつけて」

といって、短く握手をした。

いま思い出すと、彼との握手はその時以外、どうしても思い出せない。普段、私は海外の取材先では自然に誰とでも握手するものだが、身内どおしだと、そういう機会はありそうで、意外にない。日本語もかなり話す彼とは、いつも日本的なあいさつで済ましていた。

翌日、ディリで開票結果が発表された。その午後から、ディリは銃声が止まらなくなり、民兵の無法地帯となった。私が宿泊していたホテルも最後は民兵に包囲され、緊急脱出。国連現地本部へ避難した。

 写真左=脱出するため空港へ向かう各国の報道陣(99年9月5日 ディリ)

そのころディリで鳴り響く銃声は、ファリンテルの拠点までは、まだ届かなかっただろう。しかし、ファリンテル・キャンプではサテライトテレビを通じて、毎晩ポルトガル放送のニュースを見ることができた。アグスもずっとそれを見ていたはずだ。破壊され、混乱するディリの様子をテレビで見ながら、彼は何を思っていたのだろうか。

「もうディリからの車の迎えも来ない、当分脱出できない」と悟っていただろうか。いや、恐らく「この歴史に残る出来事を記録するんだ」と、むしろ覚悟を決めていたに違いない。

九月六日、最後の民間機でディリを脱出した私は東京に一時帰国した。混乱が激化する東ティモールからのニュースを見ながら、連絡が途絶えたアグスの身の心配をしたが、「アグスは大丈夫だ。東ティモールでいちばん安全な場所でファリンテルと一緒にいるんだから」と自分に言い聞かせていた。九月二〇日に多国籍軍が展開され、私は再び東ティモールに入るために二二日夕方のジャカルタ行きの飛行機に乗る予定だった。

ちょうどその日の朝、東京のアジアプレス事務所に来ると、留守番電話にアグスから、ゆっくりとした日本語でメッセージが残されていた。

「アグスですけど、いまバウカウ(東ティモール東部の街)にいます。……(以下、聞き取れない)。また電話します」

そのメッセージを、私は繰り返し聞いた。そして、手を叩いて喜んだ。アグスはファリンテル拠点を九月一六日に離れて、バウカウの教会施設に避難していたことが後にわかる。

だが、多国籍軍が展開されたとはいえ、オランダ人のジャーナリストが九月二一日に殺害された。当時は、まだインドネシア国軍も民兵もいる危うい状況だった。

一方で、「多国籍軍が初めてバウカウに陸路で到着した」というニュースも入った。東京事務所の野中章弘(アジアプレス代表)と電話で、「それは朗報だよ。もうすぐ、アグス君も多国籍軍と一緒にディリまで脱出できる」と、いよいよアグスの帰還が現実味を帯びたように思えた。

「もう少し、あと何日かでアグスはディリに戻ってくる。そして、また会える」。

そのはずだった…。

が、翌朝、すべては暗転する。

アグスの友人の女性から「アグスが死んだ」という一報を、電話で聞いた瞬間から、私は心臓の鼓動を抑えることが一日中できなかった。東京事務所へ電話で伝えようにも、声が出なかった。私は悲しみ以上に、

「俺はなぜ、ここにいる。ずっとアグスと一緒だったんじゃないのか」。

その問いかけだけが、頭の中を渦巻いていた。

一〇月中旬、アグスの遺体確認と現場検証のため、ようやく東ティモールに入ることができた。彼が民兵らに襲撃された現場は、バウカウから五〇キロ東の静かな丘を上る舗装道路の曲がり角だった。

                   

            写真上=アグスら8人が殺害された事件現場。川の中央に沈んでいるのが乗っていた車(99年10月 東ティモール東部ロウテム)

アグスら8人のカトリック教会関係者が乗った車は、9月25日夕方、避難民へ食糧や医薬品を届けて戻る途中、待ち伏せていた民兵に襲撃された。石で道を封鎖して、車を止めた民兵らは全員を射殺。遺体を車に押し込み、川へ落とした。民兵の供述によると、「独立派寄りの教会関係者を最初から狙っていた」という。

脇の川には、アグスら八人が乗っていたワゴン車がまだ沈んでいた。その川からは、アグスがいつも離さなかったビデオカメラや国連の記者証も見つかっている。

写真左下=アグスが使っていたビデオカメラ(事件現場の川から回収された)

写真右上=アグスらが殺害されたとき乗っていた車。現場の川から引き揚げられた直後(撮影 和田博幸)

彼の遺体は東部の小さなフイロロという村の教会施設の敷地に、埋葬されていた。同じく射殺された5人の修道女や神父と共に、遺体の上に盛られた土には、赤いブーゲンビリアの花が添えられている。

小さな木の墓標にインドネシア語で、黒マジックで記されていたのは、

「ワラタワン(ジャーナリスト) RI(インドネシア共和国)」。

彼が射殺された日は、九月二五日の夕方だ。偶然だが、初めて東ティモールの地を踏んでちょうど、7ヶ月目にあたる日だった。

彼の死に、私は憤りとある種の遣り切れなさを抱く。しかし、彼の死はまったくの無意味だったのだろうか。東ティモールが騒乱状態になったときもずっとバウカウに残り、アグスと最後の日々を過ごしたナシメント司教はこう語る。

「私がいちばん怖かったのは、インドネシア軍や民兵がジャーナリストたちを東ティモールから追い出そうとしていた時だ。ジャーナリストたちがみんな逃げてしまったら、ここで起きていることをだれが世界に伝えてくれるのか。そう思うと、本当に恐ろしかった。そんな時、アグス君を含めて5人のジャーナリストがこの地に残ってくれた。彼らの存在は恐怖におびえる市民たちに、大きな勇気と励みを与えてくれたのです」。

「次の取材はアチェだよ。アチェはひどい。東ティモール以上だ。毎日、毎日、人が殺されていく」。

八月ごろ、彼はよくインドネシア語の新聞を見ながら、つぶやいていた。

彼が即死だったかどうか、確かな情報はない。彼がどのように殺害されたのかも、証言は錯綜している。

しかし、もし即死でなかったのなら…、

あの大きな丸い目に焼きついた最期の光景は何だったのか。

雨期に入った東ティモールでは、いまアグスの墓も毎日のように濡れているに違いない。四半世紀に及ぶ混乱と殺戮で、東ティモールではこれまでに20万人以上の人があの地に眠ったという。

その東ティモールの人たちの魂と血が染み渡る大地の中で、アグスはいま何を思っているのだろうか。

故郷のバリでアグスの生還を待ち続けた家族のことか。

大学で知り合い、恐らく将来結婚するはずだったオーストラリア人の恋人のことか。

それとも…。

アグスよ。ゆっくりと休んでくれ。でも、これからも一緒に東ティモールを取材しような。(了)

                                
                               アグスの墓(00年12月 東ティモール東部フイロロ教会)