追悼 アグス・ムリアワン

「東ティモール最後の殺戮を記録したジャーナリスト」

            (月刊「マスコミ市民」01年4月号掲載の元原稿)

二〇〇〇年九月、苔のように山々を包みおおう草木が黄金色に輝いて、乾季の終わりを告げている。小さな島の四方を囲む、透き通った海に打ち寄せる穏やかな波と、小鳥のさえずりはいつも変わることがない。

 いま、アジアに新たな国が生まれようとしている。現在、国連の暫定統治下にある「東ティモール」は、「ティモール・ロロサエ」という名前の方がふさわしいだろう。「ロロサエ」とは、地元のことばで、「東」、「日が昇る場所」という意味だ。文字通り「日出ずる国」が、遅くとも二〇〇二年には、誕生する。

四〇〇年に及ぶポルトガルの植民地支配の後、七五年にインドネシアが軍事侵攻。独立運動の弾圧と虐殺の歴史を刻んだこの小さな「国」は、九九年八月の住民投票で独立が決まった。しかし、その後の独立反対派民兵とインドネシア国軍による破壊と虐殺行為で、騒乱状態に陥る。

九九年九月二五日、東ティモール東部の川沿いの路上で、何発かの銃弾が放たれた。夕闇迫る静かな丘に響いた銃声は、すぐに深い森の奥に吸い込まれて消えたに違いない。車に同乗していた神父や修道女、七人とともに、一人の若いインドネシア人ジャーナリストが、独立反対派民兵に殺害された。ナタやナイフでも刻まれた遺体は車に押し込められ、彼が片時も離さなかったビデオカメラも一緒に、川に投げ落とされた。

  
(写真上=アグスらが殺害された現場脇の川。川の中央に沈んでいるのが乗っていた車(99年10月 東ティモール東部ロウテム)

流れ出る自らの血を見て、死に際に彼は何かを叫んだのかもしれない。それとも、民兵が撃った凶弾はすぐさま彼の息の根を奪ったのか。彼の大きな丸い目に焼きついた最期の光景は、何だったのだろうか。

東ティモール最後の殺戮を記録したジャーナリスト、アグス・ムリアワン(当時二六歳)。彼は七三年八月、インドネシアのバリ島に生まれた。アグス(AGUS)の名前は、「八月(AUGUST)」から由来する、インドネシアではよくある名前だ。両親はともに中国系で、高校時代から日本に興味を抱き、九六年には、東京大学に一年間留学する。九八年のスハルト大統領退陣を巡る暴動から取材活動を始め、その後アジアプレスの一員となった。

亡くなるちょうど七ヶ月前の九九年二月二五日、私と彼は初めて東ティモールの地を踏む。それから九月まで、のべ三ヶ月に渡り、私は彼とともに、東ティモール各地をビデオカメラとスチールカメラの両方を手にして回った。彼は、ほかのインドネシア人と違って、東ティモールの人たちの間に、瞬く間にすーっと溶け込んでいく。アグスの名前は、東ティモールですぐに知れ渡った。身長一八〇センチを超える長身で、ボディビルで鍛え上げたという大柄な彼の後姿を、私はいつも懸命に追いながら取材していたのだと思う。

いつもいっしょだった。

しかし、それまでともに過ごした日々のすべてを、キーボードの「全文消去」キーで一叩きするかのように、私たちは東ティモールの森の中で別れることとなる。

九月三日、私は東ティモール独立の是非を問う住民投票の開票発表取材のため、中心都市ディリに戻り、彼は一人で東ティモール山奥の独立派ゲリラ拠点に残ることになった。

「僕はもう少し、ここに残りたい。でも、一週間後ぐらい後にバリにいったん帰るよ」

私は彼と短く握手をして、言った。

「よし、じゃあ気をつけて。ディリでまた会おう」

九月三日夕方、それが私と彼との最後の会話だった。


写真上=取材・インタビュー中の筆者とアグス(99年8月 ディリ)

翌日の開票発表は、独立支持が八割近くを占めた。インドネシアの東ティモール支配はついに終結することが決まったはずだった。しかし、東ティモール最後の殺戮は、まさにこの日から始まる。中心都市ディリでは、銃声が止まなくなる。街のあちこちから煙があがり、独立反対派民兵が武器を手に街を制圧し、無政府状態に陥った。国連のスタッフや報道陣も次々と脱出し、七日にはついに「戒厳令」が発令された。しかし、それでも民兵の破壊・放火は止まらず、インドネシア国軍もそれに加担しつづけた。

東ティモール全土が混乱に陥ったが、森の奥地にある独立派ゲリラ拠点だけは、民兵もインドネシア国軍も攻撃することはできなかった。そこが東ティモールで唯一安全な場所だったかもしれない。村を追われた人たちが、続々と避難してくる様子が、彼の撮った映像に記録されている。このころから、彼は克明な日記をつけ始めている。

「状況はだんだんはっきりしなくなってきた。ゲリラ司令官は、国際部隊の介入があることを信じている」(九月七日)

                   

                   
写真上=アグスと親しかった、独立派ゲリラのファルル司令官(左)

「川でエビを捕った。きょうのラジオニュースでは、まだ国際部隊がいつ東ティモールに入るのか、はっきりしない」(九月一三日)

 日が経つに連れて、アグスは森を離れることを考えるようになった。ラジオから伝わる東ティモール各地の混乱状況を、自分の目で見てみたいと思ったのだろうか。彼は一六日に森を出て、東部の街バウカウへ教会関係者の車で入る。

そして彼は、医薬品や食糧を住民に配る教会関係者らとともに、精力的にあちこちの村を回った。彼の撮影映像に映し出されたのは、家財道具を手にして、街にあふれ出る避難民、柱だけが黒く墓標のように残る家々、そして、修道女の手を取りながら、涙ながらにすがる老女…。「この場所は本当に住民と一緒に死体の街になるだろう」(九月一九日)と、彼は日記に記している。

九月二〇日、ついに東ティモールに多国籍軍が展開した。予想された民兵らの抵抗もほとんどなく、治安は急速に回復する。だが、アグスのいる東部の地域は違った。それまで駐屯していたインドネシア国軍部隊と地元の民兵組織が、撤退間際に、住民を次々と虐殺していったのだ。アグスの九月二一日の撮影映像には、惨殺された東ティモール人の遺体と、泣き叫ぶ家族の姿が、何人も記録されている。


写真上=夫をインドネシア軍兵士に殺害され、泣き叫ぶ妻(99年9月21日 アグス撮影映像から)

アグスに同行して通訳を務めた東ティモール人の青年、アルイスさん(二二歳)によると、アグスは悲しみに暮れる遺族の取材が終わった後に、打ちひしがれながらも、こう話したという。

「かれらは、インドネシア軍に動物のように殺された。これは絶対に許せない。ぼくはインドネシア人だが、心の中は東ティモールの人たちと同じです」

殺戮を目の当たりにしたアグスは、その後さらに取材を続ける。

しかし、亡くなる前日の九月二四日には、バリ島に住む父親に、「国連の飛行機を待っている。できれば早く、バリにいったん帰りたい」と、衛星電話で伝えた。その日の日記には、「何もすることができない」と書き残している。

その翌日、東部の村を教会関係者らと訪問し終わった彼の撮影ビデオテープは、殺害されるおよそ一五分前の時点で止まっている。殺害現場の川から引き揚げられた彼のビデオカメラに残っていたテープの最後の映像は、放火された村役場施設だった。映し出されたその白い壁には、黒い墨のような文字がインドネシア語で書かれている。


写真上=アグス最後の撮影場所「血はいつまでも流れつづける」(99年9月25日 アグス撮影映像から)

「DARAH AKAN TETAP MENGALIR」(血は、いつまでも流れつづける)

インドネシア国軍か民兵が、撤退間際に書きなぐったその落書きは、東ティモールへの、一つのメッセージだったのかもしれない。

 おびただしい血が、確かに流れた。ポルトガル植民地支配、そして続くインドネシアの侵攻・占領によって流された東ティモールの人たちの血が、この小さな島の大地の隅々まで、広く奥深く染み渡っているはずだ。インドネシア侵攻後だけでも、二〇万人が犠牲になったといわれる。

しかし、たった一人で勇敢に挑みつづけたジャーナリスト、アグス・ムリアワンの最期は、そのまま東ティモールの長い殺戮と不条理の終焉を告げる瞬間だった。東ティモールを愛した彼は、それを自らの命と引き換えに見届けたのかもしれない。そしていま、東ティモールは悲願の独立を目の前にしている。

 
写真上=アグスの事件を裁く東ティモールの「重罪特別法廷」の様子(01年7月 ディリ高等裁判所)

 アグスが亡くなって一年が過ぎた〇〇年一二月十一日、私は、彼が撮った最後の映像の場所を発見した。殺害現場から一キロも離れていない道路脇に、いまも廃墟のままで、その村役場の建物がたたずんでいる。しかし、壁の落書きは、雨季の雨粒ですでに流されていた。血がこれ以上流れつづけないことを祈るかのように、その文字は跡形もなく、ひっそりと姿を消していた。(了)