以下、共同通信から全国の加盟新聞社に配信した記事です。
(一部引用は構いませんが、全文転載・転送はできませんのでご了承ください)

▼綿井健陽のバグダッド報告(2006年3月19日配信)

希望描けず、沈む街/イラク人同士の対立に困惑

 イラク戦争開戦から三年を迎えるバグダッドの街は今、奇妙な静けさと緊張に包まれている。米軍侵攻から一年後の二○○四年春ごろまでは、あちこちで頻繁に銃声や爆音が鳴り響いていたが、それらが聞こえてくる回数は減った。ロケット弾や迫撃砲の発射音もほとんど聞こえない。武装勢力の抵抗手段は今や、迫撃砲のような武器ではなく、自動車爆弾や自爆攻撃が主流になっている。標的も米軍だけでなく、米軍に協力するイラク軍や警察、さらには市民をも狙った無差別的なものになりつつある。そして「内戦」「報復合戦」とも称されるイラク人同士の新たな対立が、この国の内部に闇を広げている。

 イラク連邦議会が三月十六日からようやく開催されたが、バグダッドの街は人通りも少なく、「外出禁止令」が出されているかのような雰囲気だ。イラク軍や警察、米軍の車両だけが、わが物顔でスピードを上げ、路上を往来する。大通りでは数人の子どもたちがサッカーに興じている姿も見たが、弾んだ歓声は聞こえて来なかった。頻繁に聞こえてくるのは、警察車両のサイレンだ。

 「最近は外でサッカーをする子どもたちの数も少なくなった。外出する大人も減った。街全体の雰囲気が沈んでいるよ」とタクシー運転手のムスタファ・ムニエムさん(35)は話す。彼は毎日午前八時から車を走らせるが、一日十人程度の客がやっと。一年前の「半分以下」だ。午後二時には早くも仕事を終えて、二時間以上も並ぶガソリンスタンドの給油の列に加わる。その後は市場で食料品を買い、日暮れまでには必ず家に戻る毎日だという。

「妻を外出させたくないので、私が代わりに買い物をする。もうすぐ小学生になる六歳の息子も外では遊ばせない。家の中でテレビを見させておくしかない」。彼のおいは昨年、外で遊んでいて何者かに誘拐された。身代金約五千ドルで何とか解放されたという。
「子どもたちはいつも『外に行きたい』と言うが、家族で外食をしたことさえ、この半年ほどは一度もない。日に日に状況は悪くなる。この三年間で得たものは何もない。いったいどこに米国の言う自由や人権があるのか。フセイン政権の方がまだましだった」。ムニエムさんはそう嘆く。

彼を含めて多くの市民たちが「スンニ派とシーア派の対立なんて、以前はなかった」と話す。今でも「市民同士が憎しみあっているわけではない。この一年間の権力抗争に宗派が利用された」と付け加える。三年前、バグダッドで一人の市民が現在の状況を予言するかのようにつぶやいた言葉を思い出す。「あなたはこれから『別の戦争』を見ることになるかもしれない」

「イラクの自由作戦」と名づけられた空爆から始まったイラク戦争は、この三年間に、フセイン体制崩壊、米軍の占領と弾圧、そして宗派抗争をもたらした。超大国の「国家暴力」は、イラク国内に新たな暴力と対立構造を生み出し、拡散させただけだったのではないか。

連邦議会が開かれた十六日、米軍はイラク中部の街サマラで大規模攻撃を始めた。三年前、トマホークミサイルが立て続けに撃ち込まれ、オレンジ色の炎が大きく燃え上がった旧大統領宮殿の上空では今、米軍のブラックホーク・ヘリコプターの連隊が爆音を立てている。その宮殿のちょうど向こう側に夕日が落ちると、依然として続く停電の中で、大型発電機の鈍いうねりが闇に響く。

 「圧制からの解放」「民主化プロセス」。さまざまな言葉やスローガンがイラク市民の前に掲げられたが、実体がないまま通り過ぎ、消えていった。この国に今、いったいどんな「自由や希望」が描けるというのだろうか。バグダッドの街は静かに息を潜めて、嗚咽をこらえているかのようだ。(バグダッドにて)

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▼現地報告「嘆きのバグダッド」3回続きの(上) 2006年3月29日配信

権限不明の警備が増える 軍、民間会社入り乱れ
ジャーナリスト・綿井健陽 


 開戦から一年目の二〇〇四年三月ごろまでは、バグダッド国際空港から市内中心部へは車で約三十分程度で、通常、途中に検問はなかった。
 ところが、今回、バグダッド入りした際は、途中三カ所の検問と道路封鎖が一カ所、それに伴う渋滞もあり、一時間かかった。その間に見た武器を持つ男たちはイラク警察のほかに、内務省の治安部隊、民間軍事会社(PMC)のスタッフ、そして私服で自動小銃を構える、一見した限りでは所属不明の男たちだった。
 二年前と比べ、バグダッドの街では米軍の存在感が薄らいでいる。以前のように装甲車を連ねて巡回する光景はまず見られない。代わりに今は、イラク警察の車両がサイレンを鳴らしながら頻繁に移動を繰り返す。
 「もう半年近く米軍の姿を自宅周辺では見ていない。見かけるのは、パトロールのイラク軍兵士と、あちこちの道路に監視所を築いて警戒しているマハディ軍(シーア派指導者サドル師の民兵組織)のメンバーたちだ」。バグダッド北東部のシーア派地区サドルシティーで暮らすファーク・ナーマさん(36)はそう語る。「昨年あたりまでは、何か起きれば米軍がすぐに展開したが、今、彼らはまずやって来ない。イラク警察と軍の兵士、そして民兵たちが、さまざまな武器を持って集まってくる。だれが、どんな権限で警備をしているのか分からず、住民は混乱している」
 「グリーンゾーン」と呼ばれる米軍の管理区域は昨年まで、たびたび武装グループのロケット弾や迫撃砲攻撃にさらされたが、最近は、そのような攻撃は減っている。
 同区域内の警備もPMCに委託している場所が多い。現在イラク全土で二万人以上が働き、約十三万の米軍に次ぐ規模といわれるPMCのほとんどは米国か英国の会社だが、スタッフは多国籍化し、現場で警備に当たるのはイラク人が圧倒的に多くなった。
 大手PMCが受注した警備を別のPMCに下請けにだすケースも増えている。米国系PMCのスタッフで、「ロリンズ」と名乗った米国人男性はフロリダ州出身の元空軍兵。グリーンゾーンの入り口ゲート付近で、私服姿で右肩に自動小銃、腰には短銃を携えていた。
 「このゲート警備で外国人はおれだけだ。二十人近くいるスタッフは別のPMCのスタッフで、すべてイラク人。元イラク警察官や兵士だった連中も多い」と彼は話したが、写真撮影やイラク人スタッフへの取材は一切認めなかった。バグダッドでは、こうした施設の入り口、検問所などが自爆攻撃や自動車爆弾の標的となるため、特に警戒度が高い。その最も危険な「最前線」にイラク人が立たされている。
 イラク人武装グループは現在、いくつにも分派し、互いに攻撃と報復を繰り返しているといわれる。多種多様な組織が自己防衛のため、入り乱れて武装していることにより、爆弾攻撃などで狙われる場所が分散、無差別化し、治安の悪化に拍車をかけている。その中で最も犠牲を強いられているのが「街を歩くだけでも怖い」と嘆く丸腰の一般市民たちだ。

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▼現地報告「嘆きのバグダッド」3回続きの(中)

宗派の違いが殺害理由に 「内」に向かう怒り 
ジャーナリスト・綿井健陽 


 「バグダッドでは米軍に捕まった方がまだましだ。米軍なら拘束されても何とか所在を確認できる。しかし、イラク人の治安部隊に拘束されたら、数日後には街のどこかで遺体で見つかるだろう」
 スンニ派の弁護士アドナン・カーレドさん(33)は街を支配する「恐怖」をそう語った。これまで八年間弁護士として活動してきたが、フセイン政権時代を含めても、今のイラクの人権状況は「最悪だ」という。
 「イラクでは、法や人権なんて紙切れ以下。もはや弁護士が手出しできるような状態ではない。今のイラクは、武器を持った者同士が銃撃戦などで正面衝突することはまれ。闇の中で人が連れ去られ、闇の中で殺される。『闇の中の内戦』のような状況だ」
 アドナンさんの話によると、開戦から一年目の二〇〇四年春ごろまでは、米軍による不当な拘束に対して、家族の面会や釈放を求めたりするのが弁護士の主な仕事だった。
 ところが、〇五年一月の国民議会選挙以降、内務省管轄の警察・治安部隊に、イランと関係の深いシーア派政党「イラク・イスラム革命最高評議会」(SCIRI)の民兵組織「バドル旅団」が加わり、スンニ派住民の拘束や虐殺を行うようになったという。
 電気ショックなど明らかな拷問の跡が残る遺体がバグダッドの路上などで相次いで発見されているが、イラク警察は捜査さえ行わない。人権団体や弁護士が乗り出して調査を求めると、彼らも危険にさらされる。
 「夫が何者かに連れ去られても、妻が警察や弁護士に相談するケースが減っている。それをすると、夫が生きて帰って来る可能性がより低くなるからだ。携帯電話か手紙で、犯行グループが家族に接触してくるのを待って、身代金を支払うという『自力解決』が最良の方法になりつつある」。アドナンさんはそう嘆く。
 身代金の相場は一般市民でも五千ドル前後、弁護士、医師、大学教授ら裕福とみられた人の場合は二万五千ドルにまではね上がるという。
 フセイン政権下ではスンニ派が重用され、シーア派は弾圧を受けたが、少なくともバグダッドでは住民同士の対立はほとんどなかった。昨年までは両派が混在して住むことが一般的だったが、シーア派が多い地区はスンニ派住民を追い出し、スンニ派が多い地域ではシーア派住民を追い出す動きが始まっている。
 アドナンさんは言う。
 「だれがスンニ派で、だれがシーア派かなんて、以前は全く知らなかったし、気にもとめなかった。イスラムは一つだと教えられてきた。それが今では、知らない者同士では相手がどの宗派なのかを非常に気にする」
 「シーア派とスンニ派の住民同士が憎み合っているわけではないが、この三年間の占領体制の中で、解消されない人々の不満の矛先が、当初の米軍からイラクの内側に向かっていった。両宗派の武装グループと警察・治安部隊が、お互いを殺す理由に宗派の違いを持ち出している」。アドナンさんは「市民が分断されつつある」と懸念を強めていた。
 旧ソ連軍撤退後に民族間抗争が泥沼化したアフガニスタンのような道を、今後のイラクはたどるのだろうか。今、バグダッドでは、イラク人同士の「闇の中の内戦」に巻き込まれる恐怖に市民のだれもがおびえている。


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▼現地報告「嘆きのバグダッド」3回続きの(下)

襲撃される病院、薬も不足 危機にさらされる医療 
ジャーナリスト・綿井健陽 

 バグダッド南部にあるヤルムーク総合病院は、さながら軍事施設のようなものものしさだ。敷地の四方に監視小屋が設置され、正面入り口周辺では十数人のイラク人警官が自動小銃を構えている。病院内にも三十人以上の警備員が短銃を携えて各病棟の警備にあたる。
 ハゼム・サージド医師(49)は「武装グループが発砲したり、入り口から押し入って来ることもある。病院でさえも襲撃の標的になっている。政府の治安部隊も信用できない」と話す。
 三月二十日の夜、治安部隊員が爆弾攻撃で負傷して運ばれてきた時は、入り口から許可なく入ってきた隊員数人が医師と看護師に暴行した。翌日、医師たちは抗議の意思を示すために病棟を閉鎖。その後、病院は業務を再開したが、一部の医師たちは現在も出勤を拒否、国外への脱出を検討しているという。
 病院が襲撃される理由は、患者によって公平な医療が行われていないのではと、武装グループから疑われ、「イラク治安部隊や米軍に協力している」と一方的に敵視されているためのようだ。ハゼム医師は「この国では医療活動の安全さえ保証されていない」と嘆く。
 バグダッド市内の「子ども福祉教育病院」の診察室前では、子どもたちの列が途切れることがない。小児がん病棟には、多数の白血病の子どもたちがベッドに横たわっている。
 イラクでは一九九一年の湾岸戦争以降、劣化ウラン弾の影響とみられるがんや白血病患者が急増した。同病棟のサルマ・ハッダード医師は「過去一年間の新たな白血病・がん患者は、この病院だけでも約三百人。患者は増える一方なのに、薬が追いつかない」と訴える。「保健省からの医薬品供給は当てにならない。日本を含む外国の非政府組織(NGO)からの医薬品提供に頼っているが、それでも足りない」という。
 イラクの医療支援を続ける「日本国際ボランティアセンター」(JVC)は、ヨルダンを活動拠点とし、抗がん剤などの医薬品をバグダッドに送り届けている。JVCの原文次郎さん(42)は「保健省が管理する医薬品がひそかに闇市場に流れている例が多いようだ」と指摘する。
 原さんによると、保健省から病院に届く薬は病院が必要とする薬の三割程度にすぎず、残りをNGOの支援が補ってきた。しかし、二〇〇四年六月の主権移譲後は、保健省の権限だけは強まり、NGOから病院への直接寄付は原則禁止され、保健省から各病院に配られることになった。
 その結果について原さんは次のように話す。
 「薬をめぐる官僚の汚職が横行し、病院にはなかなか薬が届かない。輸入される医薬品の品質検査も保健省が義務付けるようになったが、検査体制の不備で半年近くかかることもある。病院に届くころにはその医薬品は使用期限切れ。せっかくの支援も有効に生かされない」
 誘拐や殺人事件が相次ぎ、バグダッドの街からは一般の外国人の姿はほぼ消えた。現在のイラクは国外の監視の目が全く届かず、かろうじて軍や武装勢力などとの「力の均衡」が保たれている地域以外は、武器があふれる「無法地帯」と化している。
 その中でバグダッド市内の病院には毎日、爆弾や銃撃の負傷者、さまざまな病人、そして遺体が運ばれてくる。十分な医療が施せない中、医師や看護師の無力感は募る一方だ。