【共同通信から全国の加盟新聞社に配信】2007年3月19日
▼「開戦4年 内戦状態の首都ルポ」綿井健陽
恐怖の牢獄と化した街 宗派対立で社会崩壊進む
米軍ヘリが爆音を響かせて低空を旋回している。地上ではイラク軍兵士や警官が路上検問に立ち、米軍装甲車が長い車列をつくって走る。装甲車の上からは、サングラスをかけた若い米兵が顔だけをわずかにのぞかせていた。
二月中旬から始まった米軍とイラク軍による武装勢力掃討作戦によって、バグダッドの街の緊張は一層高まっている。
イラク戦争開戦から四年を迎えたバグダッドは、街全体がコンクリートブロックと鉄条網に囲まれた「牢獄(ろうごく)」のようだ。もはやこの街には武器による「恐怖」か、武器によってかろうじて保たれる「治安」のどちらかしか存在しない。
そのはざまで市民が犠牲になる毎日が続く。
「今起きているのはシーア派による『スンニ派狩り』よ」。スンニ派の女性記者、カリマ・アルジュブリさん(41)は憤る。
彼女は女性への人権侵害を取材、二〇〇五年十一月には女性刑務所の実態を地元週刊誌に署名記事で告発して話題をよんだ。
「昨年五月の正式政府発足以来、スンニ派の女性たちが理由もなく次々と逮捕・拘束された。バグダッドにある二つの女性刑務所に収容されているのはほとんどがスンニ派女性。刑務所内でシーア派の兵士たちから暴行を受けるケースが後を絶たない」
彼女には「書くのをやめろ。さもなければ殺す」という脅迫状が自宅に頻繁に届くようになり、息を潜めるように暮らしている。
シーア派主体のマリキ政権では省庁幹部の多くがシーア派で占められ、軍や警察はもちろん、いくつかの政府系病院もシーア派民兵組織の支配下にある。
「スンニ派の患者は病院で治療さえ受けられない。途中の道が危なく、子どもたちを学校にも行かせられない。スンニ派の人たちは手足を縛られ、口もふさがれているような状態だ」とカリマ記者は話す。
いわれのない「テロリスト容疑」でスンニ派住民が軍や警察に逮捕・拘束される一方で、シーア派住民が集まる地域ではスンニ派武装組織によるとみられる自爆、車爆弾による無差別攻撃で多くのシーア派住民も犠牲になっている。
バグダッド大学のカーリド・アルアーニ教授(政治学)は嘆く。
「宗派対立はまるでがん細胞のよう。気付かないうちに少しずつ大きくなり、体中に転移した。イラク人は自らの身を破壊している。シーア派とスンニ派が互いに助け合って築き上げてきたイラク社会そのものが明らかに崩壊しようとしている。たとえ米軍が撤退しても、子どもたちの世代まで対立は引き継がれるだろう」
三月十六日。イスラム教の休日の金曜日であるこの日は、車爆弾防止のため午後三時まで市内は全面車両通行禁止となった。その間だけは街にもつかの間の静寂が訪れた。大通りは「歩行者天国」。子どもたちがサッカーを楽しみ、その脇を礼拝に向かう人たちが家族連れで通り過ぎる。しかし、人々がモスクで祈りをささげた後、車が走り始めると再び街は緊張に包まれた。
まだ空が明るい午後五時には、市民の多くは家路を急ぐ。午後八時から翌朝六時までは毎日、市内は車両通行全面禁止。実質的には「外出禁止令」で人影は消える。
そこからバグダッドの長い夜が始まる。開戦から四年、今も市民は停電に悩まされ続けている。出口の見えない暗闇。窓の外では、時おり得体(えたい)の知れない轟音(ごうおん)と銃声が夜空にこだましている。
【写真説明】バグダッド市内で作戦を展開する米兵たち=19日(撮影・綿井健陽)
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【共同通信から全国の加盟新聞社に配信】2007年4月6日
▼連載「見えない出口 バグダッド陥落から4年<上>」綿井健陽
米軍への評価は複雑 重く長い戦火の日常
一日が重く、長い。
二〇〇三年三月、ヨルダン国境を越えて初めてイラク入りした時は、四月九日のバグダッド陥落まで、あわただしく市内を動き回る日々が続いた。しかし、四年後の今は、ホテルの敷地外に出る取材は危険が大きく、機会は限られる。歯がゆく、時間が長く感じる。
「日本政府に心から感謝するよ。軍隊(自衛隊)をサマワから撤退させてくれてありがとう」
バグダッドのパレスチナホテル周辺を警備するイラク軍兵士のアフマド・ハラフさん(35)は笑顔で言った。皮肉を込めた言葉には「外国軍の存在」に対する彼の実感があった。
〇五年ごろまで、同ホテル周辺には多数の外国メディアや米国の民間軍事会社が拠点を構えていた。米軍の管理区域でもあり、ロケット弾や迫撃砲の攻撃に度々さらされたが、昨年後半にイラク軍に警備が移管され、米兵の姿が消えた。今では外国人の出入りも少なく、武装組織の「標的」ではもはやなくなった。
ハラフさんは言う。「米兵がいなくなって、ここは安全になった。外国の軍隊はいらない。イラク軍だけで十分だ。米軍はすぐに出て行ってほしい。彼らと一緒に行動すると余計に狙われる。米兵と一緒の作戦は市民も怖がる」
米議会でのイラク駐留軍撤退をめぐる議論は、バグダッドでも新聞やテレビが大きく報じたが、市民の反応は複雑だ。車のオイルを売るキリスト教徒のカーレド・タルハさん(27)は言う。「米軍が撤退することには不安を感じる。今の状況では、もっと治安が悪化する。この対立を誰が止められるというんだ。米軍は好きではないが、イラク軍や警察の方が信頼できない」
イスラム教シーア派が台頭する中、スンニ派のラード・アルバドゥリさん(51)も「家宅捜索や尋問を受ける時は米軍が一緒ならまだまし。イラク軍や警察だけだと理由もなく逮捕され、やがて殺される」と話す。
「外国軍不要」を訴えたイラク軍兵士のハラフさんはこれに反論する。「普通の市民は実態を知らない。従軍取材の記者が一緒の時だけ米軍はあたかもイラク兵や市民に親切に接しているかのようにふるまう。それ以外の時はイラク人の悪口ばかり。最も危険な場所にはいつもイラク兵だけを行かせる」
二月中旬から米軍とイラク軍は武装組織掃討作戦を展開、両軍兵士が行動をともにする機会が多くなっているが、ハラフさんは「米軍はイラク人を守るために駐留しているわけではない」と言い切った。
バグダッドの市民の間には相反する思いが深く渦巻いている。「米軍が駐留を続けることによる治安か、イラク軍や警察だけによって守られる治安か」。そのどちらにも大きな不安が伴う中で、この四年間いかなる措置をとっても実際の治安は悪化する一方だった。米軍の進退はイラク人にとっても「去るも地獄、残るも地獄」の選択となっているように見える。
【写真説明】3月17日、厳戒態勢の中、検問で車を入念にチェックするイラク軍兵士たち=バグダッド市内(撮影・綿井健陽)
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▼連載「見えない出口 バグダッド陥落から4年<中>」綿井健陽
学校から帰れる「喜び」 子どもも望む治安、電気
イスラム教徒の休日の金曜日だけは毎週、一般車両通行禁止令が出され、バグダッドの街には穏やかな雰囲気が流れる。だが、路上に米軍装甲車の車列が現れると空気は一変する。
自動小銃の銃口を外に向け、米兵は常に臨戦態勢だ。装甲車がゆっくりと通り抜ける中、路上で遊ぶ子どもたちは遠巻きに無言でじっと彼らを眺めていた。三月二十三日の光景だった。
四年前ならば米兵も子どもには手を振った。子どもの側も珍しげに手を振り返し、米兵に近寄ることがあった。だが、今では緊張の「顔合わせ」の瞬間だ。会話や笑顔は見られない。
バグダッドの子どもたちは「戦火の日常」で何を思っているのか。
「米軍は子どもたちを殺す。家を壊す。そして、イラクからずっと出て行かない」。九歳のアジズ君は大人顔負けに激しく米軍を非難した。その一方で「イラクの警察官も泥棒だ。誰もイラク人を守れない」と言った。
大人たちの多くがアラビア語で「アマン」(治安)という言葉を口にするが、子どももまた、そのアマンを何よりも気にかけている。
「欲しいものは平和とパソコン。インターネットをやってみたい。毎日たくさんの人が殺されているから、学校が終わって無事に家に帰るとほっとする。親が外で遊ばせてくれないので、友だちの家でコンピューターゲームをする。将来は医者になってイラクの人たちを救いたい。今、医者が狙われてイラクからどんどん脱出しているから」。十五歳のハイダル君はそう話す。
「路上で野菜を売っているお父さんの手伝いをしている時がいちばん楽しい。『ここは危ないから来るな』と言われるけれど、お父さんがいつも疲れているので、僕が手伝って楽にさせてあげたい」。十歳のダルガム君だ。彼の親せきはこの一週間の間に二人も路上で殺されていた。
少女たちの願いには日本の少女とさほど変わらないものもあった。
「バービー人形がほしい。学校でいい成績を取ればお父さんが買ってくれると言ったので、がんばって勉強している」と十二歳のマナールさん。「学校の後は、掃除や洗濯などお母さんの手伝いを毎日する。将来は航空機の客室乗務員になって世界中を回りたい」
悲しい記憶を抱える少女にも会った。十五歳の中学三年生レアンさんだった。
「今年一月、学校の裏で自動車が爆発して、一番の友だちが死んだ。同じクラスで、姉妹のようにいつも一緒だった。亡くなる三日前に彼女の誕生日を一緒に祝った写真を今も毎日見ている」
学校から家に無事帰れれば「それだけでうれしい」という彼女が今欲しいものは治安。そして「夜、勉強するための電気」だった。
将来の夢をたずねるとけなげに言った。「イラク政府の中で働きたい。この国を立て直すことができるのは女性だと思う」
【写真説明】3月16日、団地の鉄柵から外を見る子どもたち。敷地内だけが「安全」な遊び場だ=バグダッド市内(撮影・綿井健陽)
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▼連載「見えない出口 バグダッド陥落から4年<下>」綿井健陽
遺体が「証言」する惨劇 「安全なのは墓地だけ」
イラク中部にあるイスラム教シーア派の聖地ナジャフの広大な墓地で、遺体の埋葬を毎日行うアリ・バクルさん(22)にバグダッド市内で会った。
彼は十五歳の時から父親の仕事を手伝う形でこの仕事を始めた。毎朝六時半には墓地に向かう。イスラム教徒の休日の金曜日、その前日の木曜日の午後に最も多くの人が墓地を訪れるという。
まだ少年の面影を残す彼は、最近、墓地の入り口付近から聞こえてくる遺族の強烈な叫び声や泣き声の中にある言葉で、遺体の死因が推測できるようになった。
「スンニ派をののしったり、政府を非難しているときは爆弾テロなどによる死者。病気や事故などの死は、遺族が冷静であることが多い」
フセイン政権時代、墓地には一日二十体ほどの遺体が埋葬されたが、ほとんどは事故か病気による死だった。だが、政権崩壊後は銃や爆弾の犠牲者が激増。宗派対立が激化した過去一年あまりでは多いときで一日百体近くの遺体が運ばれるという。
「爆弾テロに巻き込まれた遺体の多くはバラバラになっている。遺族がビニール袋に入れて持って来て白い布で覆い、土の中に埋める。最近はドリルや電気ショックを使った拷問のあとがある遺体も目立つ。遺族も正視できない遺体も多い」
今年一月下旬、イラク軍と米軍がナジャフ近郊へ大規模な攻撃を仕掛けた。イラク治安当局は「武装勢力二百五十人を殺害」と発表したが、彼はその攻撃に巻き込まれた四十人以上の子どもや赤ん坊を墓地に埋葬したという。
「いつも武装組織による爆弾テロばかりをメディアは伝えるけど、墓地に運ばれる遺体には、遺族の証言などから米軍に殺されたケースも依然として多い。イラク南部から運ばれる遺体も多く、英軍に殺された遺体もかなりあるはずだ」
一つの遺体を埋葬する度に一万ディナール(約九百円)ほどの報酬がもらえるが、毎日、胸中は揺れている。
「だれかが遺体を埋葬しなければならないと思い、神の教えの下で淡々とやってきた。でも、最近の遺族の叫び声や泣き声を聞いていると、時々耐えられなくなる」
悪夢にもうなされるという。「埋葬したはずの遺体の顔が目の前に現れる。私自身が土の中に埋められてもがき苦しんでいることもある」
アリさんはフセイン政権崩壊後の四年間を振り返って言った。「イラク人が得たものは銃声、爆音、そして多くの人々の死だけだった。もしかすると、死者が眠る墓地だけがイラクでは安全な場所かもしれない」
毎晩一人で食事をするバグダッドのレストランのスタッフがある夜、私に嘆くように話しかけてきた。
「だれもが解決方法を探しているがだれも見つけられない。なぜこんなにもイラクの中と外とでは世界が違うんでしょうか」。返す言葉がなく、ただ黙って耳を傾けるしかなかった。
【写真説明】イスラム教の休日の金曜日、車両通行止めになったバグダッドの大通りを手をつないで歩く家族連れ=3月23日(撮影・綿井健陽)
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