「まだちょっとだけなのに、もうこんなにびしょびしょだよー」
「すごいすごい、こんなの初めてー」
「あぁ!もうガマンできないよぉ、お願い、外に。ねぇ外にぃー」
「外は危ないから中の方がいいぞ」
「ああ、凄い凄い〜こんなにこんなに!」
「なにやってるんですか!青少年保護法によりタイ━━━━||Φ|(|´|Д|`|)|Φ||━━━━ホ!!します!」
「何って?台風見てるだけなんだけど何か?」
「・・・」
「・・・」
「わ、わざとですね、ハメましたね!アイコンも
こんなのですし」
「勝手に嵌っておいて何言ってるのよ」
「アイゴーーーー!!謝罪と賠償を要求します・・・・・」
「ふふふ〜たまには読者サービスしないとね〜決してせっかく作ってあるアイコンが無駄にならないようにしたわけじゃないわよ」
「(どっちにせよ、確信犯だろう・・・)」
「さって第4回ね〜今回は時間かかったわね〜」
「美味しんぼの作者はオーストラリア万歳野郎みたいで、随分オーストラリアで話を作ってるんでな、その辺の話をネタにしたいと思って調べてたんだが・・・」
「オーストラリアの話ってたくさんなかった?」
「ああ、オーストラリアで究極vs至高のメニューの対決までしてるしな、たくさんありすぎて調べるのに手間取った」
「その割には最近の話には出てないわね」
「その辺もおいおいわかるだろう・・・まずはこれだ!」
美味しんぼ 40巻:4.オーストラリアン・ドリーム(3) より
何を展示してあったかというと、第二次世界大戦中の日本軍によるブルームの爆撃の記録だ。
日本軍は、ノーザン・テリトリーのダーウィンも爆撃して、壊滅的な損害を与えた。
シドニーもそうだ。シドニー湾に日本の特殊潜航艇が侵入して攻撃し、多くのオーストラリア人を殺し、自らも果てた。
「そうだな、シドニー湾の攻撃もホントの話だ」
「それでこれがどうしたの?」
「なぜか、その後の巻でまた同じ話をしているんだが・・・」
「同じ話?なんでまた?」
「ネタが無くなったのか、反響が大きかったか・・・」
「意外と非難囂々だったのかもねー」
「わからないがな、後の方が詳しくやってる・・・」
美味しんぼ 59巻:対決再開!オーストラリア<4>より
魚雷はアメリカの軍艦を外れて、近くに停泊していた軍用船に命中して乗っていたオーストラリア人19人と、イギリス人ふたりが死んだのよ。
「ふーん、オーストラリア人19人とイギリス人2人ね〜」
「この攻撃で日本人は6名戦死しているんだが、それはいいのかな?」
「あら?なんだ?一般人が巻き込まれたかと思ったら、死んでるのは軍人じゃないの」
「たしかに美味しんぼの話だけを見るとオーストラリアの一般人が死んでるように見えるな」
「よく見ると軍用船って書いてあるわね、まあ軍用船に乗っているなら軍人か・・・」
「水兵と書かないところが、なんとなく誤読を狙ってる気がするがな」
「ところでイギリス人2名はどうしたの?」
「それか・・・いろんなサイトを調べたんだがイギリス人2名の話は載ってないんだがな・・・」
「カリーの脳内ソースじゃない?」
「まあ、似たようなもんなんだが・・・」
「え?」
「その話はあとでやるとして、この攻撃は米豪分断作戦の一環だな」
「この近くのガダルカナル島は日米大激戦の島だからね」
「ソロモン海戦の話だな・・・」
「位置的にはオーストラリアの北東・・・この区域が日本とアメリカ双方が死力を尽くして戦う事になる海域です。もっとも・・・、アメリカはドイツとも戦っているので必死だったのは日本だけとも言えるかもしれませんが・・・」
「なぜローマ字・・・」
「ん?なんとなくかっこいいから〜」
「まあいいが、その神風特攻隊の前身になったのがシドニーを攻撃した小型潜水艦だな」
これを見てくれ」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia) 』
特別攻撃隊(とくべつこうげきたい)とは、太平洋戦争末期に大日本帝国が編成した特攻作戦を実行する為の部隊。特攻隊(とっこうたい)と略す場合が多い。
アメリカ軍の戦艦ミズーリに特攻する日本の零式艦上戦闘機特攻作戦とは、敵国艦船等に爆弾を抱えた軍用機や小形舟艇(震洋)、小型潜水艇(回天通称:人間魚雷)を体当たりさせる事で敵艦船の撃滅を狙う作戦である。特別攻撃隊のうち、海軍機からなる特攻攻撃を特に神風特別攻撃隊(かみかぜとくべつこうげきたい)(神風特攻隊(かみかぜとっこうたい・しんぷうとっこうたい))と呼び、連合軍からはカミカゼといわれ恐れられた。
「なにこれ、いい話じゃないの、海の特攻と言うのも存在したのね」
「日本はアメリカの歴史を知っていて、インディアンやハワイ諸島と対してどのようなことをしてきたか知っていた、だからこそ必死の抵抗をしたんだ」
「なによ、結果的に今の日本は経済大国じゃないのよ」
「日本が経済大国になれたのは運がよかったこともあるだろうな、米ソの冷戦が始まらなければどうなってたかわからん」
「いいじゃない、結果よければすべて良し〜」
「そんなに単純な・・・
まあ、このシドニー湾での攻撃はオーストラリアでも賞賛しているくらいだからな」
6月9日、シドニー要港司令官ムアーヘッド・グルード海軍少将は2隻の特殊潜航艇から収容した四人の日本兵士の遺体を、海軍葬をもって弔うとともにその嚇々たる武勲と忠勇義烈の精神を褒め称える声明を発表した。葬儀にはグルード少将のほか海軍士官、スイス総領事などが参列し、日本国旗に包まれた棺に、二列に整列した海軍儀杖隊が「敬礼」「捧げ銃」を行い弔銃を発射した。
この海軍葬に対してオーストラリア国内では批判の声があがったが、グルード少将は次のように述べて批判をしりぞけた。 「あの鉄の棺桶のようなもので出撃するには最高度の勇気を必要とする。彼等の持っている勇気は、いずれの国民の特質でも、伝統でも、遺産でもない。(中略)これらの勇士は最高の愛国者である。オーストラリア人の幾人が、日本の勇士の千分の一の覚悟を持っているだろうか」
8月13日、四人の勇士の遺骨は戦時交換船「カンタベリー号」で東アフリカのロレンソマルケスへ運ばれ、「鎌倉丸」に移乗して10月9日に横浜港へ到着した。
「オーストラリア人と言ってもイギリス人だけどな」
「へ?そうなの?」
「現在のオーストラリアでも約8割がイギリス系オーストラリア人だよ」
「そういえば、今でもオーストラリアの元首は『英女王エリザベス2世』よね」
「そうだ、オーストラリアというところはイギリスの文化を深く受けたところだよ」
「もしかして、本家でやってた敵はすごい!その敵に勝った俺らはもっとすごい!という思考パターン?」
「そういうことだな、そういうことをしていながら日本人を猿と同類と考えてたのはイギリスらしいがな・・・
アーロン収容所 中公文庫会田 雄次 (著)
イギリスの女兵士はなぜ日本軍捕虜の面前で全裸のまま平気でいられるのか、彼らはなぜ捕虜に家畜同様の食物を与えて平然としていられるのか。
ビルマ英軍収容所に強制労働の日々を送った歴史家の鋭利な筆はたえず読者を驚かせ、微苦笑させながら、西欧という怪物の正体を暴露してゆく。激しい怒りとユーモアの見事な結合と、強烈な事実をもつ説得力のまえに、読者の西欧観は再出発をよぎなくされよう。
一部抜粋
その日、私は部屋に入り掃除をしようとしておどろいた。一人の女が全裸で鏡の前に立って髪をすいていたからである。ドアの音にうしろをふりむいたが、日本兵であることを知るとそのまま何事もなかったかのようにまた髪をくしけずりはじめた。部屋には二、三の女がいて、寝台に横になりながら「ライフ」か何かを読んでいる。なんの変化も起こらない。私はそのまま部屋を掃除し、床をふいた。裸の女は髪をすき終わると下着をつけ、そのまま寝台に横になってタバコを吸いはじめた。
入ってきたのがもし白人だったら、女たちはかなきり声をあげ大変な騒ぎになったこと思 われる。しかし日本人だったので、彼女らはまったくその存在を無視していたのである。
もちろん、相手がビルマ人やインド人であったとしてもおなじことだろう。そのくせイギリス兵には、はにかんだりニコニコしたりでむやみと愛嬌がよい。彼女たちからすれば、植民地人や有色人はあきらかに「人間」ではないのである。それは家畜にひとしいものだからそれに対し人間に対するような感覚を持つ必要はないのだ。
はじめてイギリス兵に接したころ、私たちはなんという尊大傲慢な人種だろうとおどろいた。なぜこのようにむりに威張らねばならないのかと思ったのだが、それは間違いであった。かれらはむりに威張っているのではない。東洋人に対するかれらの絶対的な優越感は、まったく自然なもので、努力しているのではない。女兵士が私たちをつかうとき、足やあごで指図するのも、タバコをあたえるのに床に投げるのも、まったく自然な、ほんとうに空気を吸うようななだらかなやり方なのである。
「まあ、シドニー湾の攻撃自体はカリーの思考パターンでも問題ないらしい」
「オーストラリア人が賞賛してくれるくらいだものね」
「問題は次の話なんだが・・・」
美味しんぼ 59巻:2.対決再開!オーストラリア(4)より
オーストラリアと日本は、アジアの他の地域でも戦って、大勢の兵士が捕虜になった。
そのオーストラリア人捕虜を日本人は虐待したのよ
オーストラリア軍がアジア太平洋地域に派遣した兵士の3分の1にあたる8301人もが日本軍の捕虜として命を失ったわ。
比較のために言うと、オーストラリア軍はヨーロッパでも戦ったけどドイツ軍とイタリア軍の捕虜になった8184人の兵士のうちで死んだのは265人だけ。
「自虐史観で歴史を見ている人はこれでころっと信じるだろうな・・・
ちなみに捕虜虐待の話は他にやってて・・・」
私の兄、ジャックは、戦闘中に負傷して、日本軍の捕虜になったが、その捕虜収容所での扱いは非人道的だった。
条約で捕虜に強制労働をさせたり虐待をしてはいけないことになってたのに、日本軍はまもらなかったのだ。
ジャックは正義感の強い男で、仲間の兵士は日本兵に殴られているのを見て抗議した。それでジャックの運命は決まった。
翌朝、ジャックは日本兵に首を落とされ死んだのです
「抗議活動によって死刑にしたという資料でもあったのかな?それを言ったらこんな資料もある・・・」
「あらあら、抗議活動に参加しても処刑されてないわね」
「だいたい『条約で捕虜に強制労働をさせたり虐待をしてはいけないことになってた・・・』
「捕虜に関することならジュネーブ条約じゃなくって?」
「だとしたらカリーはジュネーブ条約を読んだこと無いな、ジュネーブ条約は『武力紛争下で救護のために働く人や施設を攻撃しないという国際的な約束』のことで、現在のジュネーブ条約を見ても捕虜の強制労働については認められているぞ」
捕虜の待遇に関する千九百四十九年八月十二日のジュネーヴ条約(第三条約)
第三部 捕虜の労働
第五十条〔承認された労働〕 捕虜に対しては、収容所の管理、営繕又は維持に関連する労働の外、次の種類に含まれる労働に限り、これに従事することを強制することができる。
*くわしくは内容参照のこと
「まったく・・・捕虜を労働させてはいけないなんてバカなこと言い出したのは誰よ?」
「捕虜に対してタダ飯食わせろと言ってるわけだからな・・・おかしな話だ」
「よく調べもせずに書いてられるわね」
「ふむ、『派遣した兵士の3分の1にあたる8301人もが・・・』という数字を見ると元は東京裁判のデータを参考にしているみたいだな」
「へーあの東京裁判をねぇー」
「東京裁判はニュルンベルグ裁判と同じ魔女裁判だ。世界の多くの人がそんなもん認めてないぞ」
参考資料 : アメリカ合衆国ダグラス=マッカーサー元帥
昭和25年(1950年)10月にウェーク島でトルーマンン大統領と会談中の会話
「東京裁判は誤りだった」
参考資料 : 日本糾弾の急先鋒であった首席検事キーナン。東京裁判から数年後の発言
「東京裁判はいくつかの重大な誤判を含むのみならず、全体として、復讐の感情に駆られた、公正ならざる裁判だった」
参考資料 : マクホン・ボール(メルボルン大学教授)
「(東京裁判を)もう一度傍聴したら、必ず病気になる」
参考資料 : 元ドイツ大使・大島浩被告のアメリカ人弁護人オーエン・カニンガム
「東京裁判は、報復とその宣伝にすぎぬ」
参考資料 : ドイツ系アメリカ人 C・A・ウィロビー(GHQ 参謀第二部長) 『The Tokyo Trial and Beyond』より
「この裁判は歴史上最悪の偽善であった。こんな裁判が行われたので、息子には軍人になることを禁ずる」
※ 歴史上最悪の偽善はニュルンベルグ裁判である。東京裁判はその次である。
参考資料 : ウィリアム・O・ダグラス(米国最高裁判事)
「国際軍事裁判所は政治的権力の道具以外の何ものでも無かった」
参考資料 : オランダ レーリング判事
「我々は戦争法規を擁護する為に裁判をしているはずだったのに、連合国が戦争法規を徹底的に踏みにじった事を、毎日見せつけられていたのだから、それは酷いものだった。
もちろん、勝者と敗者を一緒に裁く事は不可能だった。東條が東京裁判は勝者による復讐劇だと言ったのはまさに正しかった」
参考資料 : パール判事(インド人)
「日本は国際法に照らし、全被告は無罪である」
参考資料 : 英国枢密院顧問官国際法権威ハンキー卿 『戦犯裁判の錯誤』より
裁判官パール氏の主張が絶対に正しいことを、「私は全然疑わない」
参考資料 : 英法曹界重鎮FJPビール 『野蛮への接近』
「東京裁判は戦勝者が敗戦者に加えた野蛮な行為にほかならない。」
参考資料 : オーストラリア 東京裁判ウェッブ裁判長
「東京裁判は誤りであった」
「まあいいんじゃない?東京裁判を認めてない人は戦勝国のアメリカ人にも多くいるしね」
「あとは『逆転極東裁判』を見てもらうとして・・・」
「ってそれは”従軍慰安婦問題検証編”でしょ?面白かったけどそれ違うでしょ・・・」
「おっと、間違えた・・・『逆転東京裁判』こっちのページを・・・」
「ぉい、そんなページ無いじゃない・・・」
「大丈夫だ!誰かが作ってくれる!」
「げげ!丸投げじゃないの、どっかの政治家じゃないんだから・・・」
「どっかの政治家というとこんなのか?」
「あれはどちらかというと、小泉内閣の官僚の未納問題が発覚したときの対応の問題だと思うがな・・・」
「あの時、自分の納付状況を調べて、自分も未納があることを確認して、年金の切り替えの複雑さとその対応案をセットにして出せば良かったのよ」
「ふむ、そんな大変な作業ではないと思うがな・・・」
「それなのにただ面白いから未納3兄弟とか言ってさんざん煽った結果があれじゃ出来の悪いコントだわ」
「そうだな、さて話を戻すぞ・・・資料を見てもわかるとおりオーストラリアの人もそんなもん認めてないな」
「ま、当然よね、そんなの認めたら戦勝国になったら罪が裁かれないということになるわよね」
「だいたい、ソ連に比べれば8301人なんて全然少ないじゃない」
「それは本家でやったな・・・」
「スターリングラード第6軍は30万の歩兵がいた。
事実上の全滅だ。
戦後、10万人のうち、何人が帰って来たか知っているか?」
「さあ?」
「7千人だ。
「アメリカと比べたら?あ、そのころのアメリカは捕虜すら取らなかったんだっけ?」
「これも本家でやってたが一応紹介しておこう」
日米開戦後、彼は軍の技術顧問として南太平洋で戦闘任務についた。
この間の日記の邦訳版が昭和49年新潮社から新庄哲夫氏の訳で出版されたが現在絶版になっているものを訳者の了解を得て正論に抜粋を載せたものです。
・・・・・・・・・・・・・リンドバーグ日記の抜粋・・・・・・・・・・
*各地の太平洋戦線で日本人捕虜の数が欧州戦線に比し異常に少ないのは捕虜にしたければいくらでも捕虜に出来るが、米兵が捕虜を取りたがらないから。手を上げて投降してきても皆殺しにするから。
*あるところでは2000人ほど捕虜にしたが本部に引きたてられたのはたった100か200だった。残りのの連中にはちょっとした出来事があった。それを知った戦友は投降したがらないだろう。
*捕虜を取らないことを自慢する部隊がいる。
*将校連は尋問の為捕虜を欲しがる。捕虜1名に付きシドニーへの2週間の休暇を出すとお触れが出た途端に持て余すほどの捕虜が手に入る。懸賞を取り消すと一人も手に入らなくなり、つかまらなかったと嘯くだけ。
*一旦捕虜にしても英語が分かる者は尋問のため連行され、出来ない者は捕虜にされなかった、即ち殺された。
*ニューギニアでは二千人ほどの日本兵捕虜に機関銃が乱射された。オーストラリア兵のパイロットたちは飛行機で日本人捕虜を飛行機で運ぶ途中機上から山中に突き落とし、ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告。ある日本軍の野戦病院をある部隊が通過したら生存者は一人もいなかった。
*2年以上実戦に参加した経験がない兵が帰国前にせめて一人くらい日本兵を殺したいと希望し、偵察任務に誘われたが撃つべき日本兵を見つけられず捕虜一人だけ得た。捕虜は殺せないと嫌がるくだんの兵の面前で軍曹がナイフで首を切り裂く手本を示した。
*爆弾で出来た穴の中に皆四肢バラバラの状態の日本兵の死体を投げ込みその後でトラック1台分の残飯や廃物を投げ込む。
*捕虜にしたがらない理由は殺す楽しみもさる事ながらお土産を取る目的。
*日本人を動物以下に取扱いそれが大目に見られている。我々は文明のために戦っているのだと主張しているが、太平洋戦線を見れば見るほど、文明人を主張せねばならない理由がなくなるように思える。事実この点に関する成績が日本人のそれより遥かに高いという確信は持てないのだ。
*リンドバーグはドイツ降伏後ナチスによる集団虐殺現場を見学した時の日記で「どこかで見たような感じ、そう南太平洋だ。爆撃後の穴に日本兵の遺体が腐りかけ、その上から残飯が投げ捨てられ、待機室やテントにまだ生新しい日本兵の頭蓋骨が飾り付けられているのを見たときだ。ドイツはユダヤ人の扱いで人間性を汚したと主張する我々アメリカ人が、日本人の扱い方で同じようなことをしでかしたのだ」と。
米軍の残虐行為:リンドバーグの衝撃証言
14.1.10/7.18改定
以下は正論00年5月号で紹介された「リンドバーグの衝撃証言」の抜粋です。
チャールズ・リンドバーグ(1902はニューヨーク・パリ単独飛行や息子の誘拐・殺害事件で有名なあの彼です。
金歯、軍刀はもとより、大腿骨を持ち帰りそれでペン・ホルダーとかペーパーナイフを造 る、耳や鼻を切り取り面白半分に見せびらかすか乾燥させて持ちかえる、中には頭蓋骨まで持ちかえる者もいる。 「はっきり言って、日本軍よりよっぽど連合軍の方が惨いと思うぞ」
「もう大丈夫よ、アメリカには自浄能力があるから同じ失敗は2度と繰り返さないわ」
「そうか?その割にはイラクで同じようなことしてるが・・・」
ブッシュ大統領は「ごく少数の人間の行為だ」としているが、米軍の内部報告書が「組織的虐待」との見方を示したことで、波紋はさらに広がりそうだ。
アントニオ・タグバ少将がまとめた報告書によると、バグダッド郊外のアルグレイブ刑務所では特に昨年10月から12月にかけ、多数の「サディスト的な犯罪的虐待」があった。具体例として、裸にして冷水を浴びせる、ほうきの柄などで性的暴行を加える、性的行為を強要する、軍用犬をけしかけるなどをあげた。
虐待にかかわった兵士らは中央情報局(CIA)や軍情報機関から収監者が尋問に協力するよう虐待を奨励されたと証言した。ある兵士は1月、家族への手紙で「(拘束者を)独房に入れ、裸にし、3日間、トイレへ行かせず換気もするな、と軍情報機関から指示された」と書いていた。
刑務所の管理責任者だった准将はすでに停職処分を受けたが、同少将はほかにも軍情報機関の幹部2人の懲戒を勧告している。(読売新聞)
[5月3日1時9分更新]
「今回も米軍内部からの告発だそうだから自浄能力が働いたといくことだが・・・」
「そ、そうよね、ははは・・・USA・USA・USA」
「必死だな」
「なによー!」
「まあ、たかだか50年で中の人が変わるわけはないからな、そういうバカな奴がいるだろうさ」
「それを言ったら日本人の中の人だってバカな奴はいるじゃない?」
「まあ、いただろうが・・・
『第二次ソフィア先生の補習授業』でもやったが、第1次世界大戦時の捕虜への優遇っぷりは普通じゃない」
「まあ、あきらかに客人として向かえてるしねぇ、そんな日本が30年もたってない第2次世界大戦で捕虜虐待とは不思議な話よね〜」
「それで色々調べていくと1942年以降の終戦間際が問題になってくるんだ」
「ほほー」
「たまたま、そのページで実際に捕虜虐待の罪で処刑された人が載ってたんだけど・・・
オーストラリアと太平洋戦争より
片山日出男中尉:暗号長として勤務し、飛行士処刑の罪でモロタイ島法廷で死刑判決をうけ、銃殺された。妻にあてた長大な日記を残す。クリスチャン。
高橋豊治少尉:片山より4才若いクリスチャンで、飛行士の処刑に加わり、同じ日に銃殺された。主人公の田中の性格は、高橋に近いといわれる。
「注意してほしいのは共にクリスチャンと言うことだな」
「ふーん、日本人でクリスチャンなんて珍しいんじゃない?」
「現在の日本でもキリスト教の布教率は0.7%ほどだそうだな」
「あらあら、珍しいクリスチャンがたまたま二人いたのね」
「ちなみに韓国のキリスト教布教率は50%・・・」
「あはは〜っということは・・・
「また、お前らかーーーーーー!!!!!!!!(#゚Д゚)ゴルァ!!」
っということだな」
「実際に東京裁判でも捕虜虐待した罪で死刑になってる朝鮮人はたくさんいるしね」
「それを擁護する様なサイトもあるがな・・・
年表でたどる韓国・朝鮮人BC級戦犯の歴史TIME CHART(1941-1998)
1942(昭和17)年8月朝鮮人軍属南方(タイ・マレー・ジャワ)の捕虜収容所に配属
日本軍は南方で、泰緬(タイメン)鉄道や軍用道路・飛行場を建設中だった。
捕虜の強制労働は国際条約で禁止されていたが日本軍は、連合国(英米豪蘭)の捕虜を苛酷な建設現場にかりたてた。
食糧・医薬品も不足しており多くの捕虜が伝染病などで亡くなった。
これらの捕虜の日常の世話をするのが朝鮮人捕虜監視員の仕事だった。
「『終戦間際に捕虜監視役を押しつけて虐待の罪を着せたニダ!謝罪と賠償を・・・(以下略)』ってことらしい」
「・・・思いっきり『強制労働は国際条約で禁止』って書いてあるわね・・・」
「いろんな左系のサイトにいくと、よく使われているセリフだが・・・
「その程度のサイトと言うことね」
「さっきも言ったがジュネーブ条約でも労働を強制できるぞ」
「いろんなサイトに書いてあるからそうだと思っちゃうんじゃない?ちゃんと調べてみないとね〜」
「ほかにも泰緬鉄道の話も出てきているが・・・
後にオランダKLM航空東京支社長になった元捕虜氏は「体重が半分になるほどひどい作業だったが、最もこたえたのは白人が有色人種に使われたという屈辱感だった」と語っている。
英国人もまた、これを屈辱ととらえた。それを端的に言葉にしたのが歴史学者、ジャン・ピエール・レーマンだ。「日本をその手でたたきのめしたのは米国であって、戦争中にさんざん屈辱を受け、さらに植民地を失った英国など欧州諸国は何もできなかった」(「日本と西欧」)。ここでいう屈辱とはいうまでもなく白人種が黄色人種の捕虜になり、使役に使われたことを意味する。 「そのフラストレーションが現在の欧州諸国の対日感情を形作っている」。平たくいえば、英国、オランダなどでの捕虜虐待謝罪要求である。
「しかも白人種が黄色人種の捕虜になったのが屈辱で謝罪賠償を要求してるとはな・・・」
この結果、350年の長きにわたって、インドネシアを支配してきた30万人のオランダ人のうち、軍人4万人と民間人9万人が抑留所に収容されることになったのです。
彼らを収容した施設は、かつてオランダ人自身がインドネシア人従業員のために作った宿舎をそのまま利用することが多くありました。この皮肉な運命に、オランダ人抑留者たちは口々に 「われわれ自身がここに入ることになると前もって分かっていたら、こんなにひどくて不潔な建物にはしておかなかった。」と語り、今まで奴隷同然に扱ってきたインドネシア人用の宿舎に入れられた、そのこと自体が、我慢のならない屈辱であったといいます。つまり、自分たちがされたのなら屈辱でしかないことを、現地人には平気でしてきたという矛盾が、この台詞によく表れています。
「それを自分たちが使うのは我慢のならない屈辱だそうだ・・・」
「自分たちのことは謝罪賠償を要求してるわけ?まるで半島並みね・・・」
「その半島だが、上の怪しいサイトでも『1942(昭和17)年8月朝鮮人軍属南方(タイ・マレー・ジャワ)の捕虜収容所に配属』と書いてあるように1942年に多くの朝鮮人が捕虜監視役として派遣された」
「でもオーストラリアの方は6月じゃなかった?」
「1年も2年もずれているわけじゃないんだ十分あり得ることだろ?捕虜監視役として朝鮮人が派遣されていたのは間違いないしな」
「これを見た人は、まずそう思うだろうが、これはホントの話だ」
「『いかなる時でも唐辛子粉を食事に際し好きなだけ使わすこと。』とか・・・さすが半島斜め上を逝ってるわね・・・」
「こんな状況じゃ、前線では使えなかっただろうな」
「これだもの捕虜収容所などの後方支援に回されるわけよね」
「白人苛めだけならまだしも、占領地で民間人に対してもやってるからな・・・」
「ベトナム戦争の時も好き勝手やってたしな」
私の村は地獄になった より
虐殺を隠れて見ていた老人の話では、韓国兵は女性や子供を井戸に落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだという。チャウは、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬った。
「殺されたのは女や子供ばかりだ。共産主義者なんかであるわけがない」と、チャウは言う。 「韓国人は人間じゃない。目の前に現れたら、首を切り落としてやる」
ベトナムで虐殺行為を犯したのは、韓国軍だけではない。アンリン郡から海岸沿いに北へ向かえば、68年に米軍部隊が500人以上の村人を虐殺したクアンガイ省ソンミ村がある。
それでも戦争体験をもつフーイェン省の村人の間では、米兵の評判は必ずしも悪くない。地方公務員のファム・トゥ・サン(47)は66年のテト(旧正月)のとき、米兵と一緒に遊んだりチューインガムやキャンディーをもらったことを今も覚えている。
だが米軍はこの年、フーイェンから引き揚げ、代わって韓国軍がやって来た。それから「67年のテトを迎えるまで、韓国軍は殺戮を続けていた」と、サンは語る。「韓国兵に会ったら、死に出会ったも同然だった」と、今は地元の退役軍人会の会長を務めているチャムも言う。
アンリン郡の村人によれば、韓国軍はとりわけ女性にとって恐怖の的だった。韓国兵は残忍なやり方で女性をレイプしてから、殺すケースが多かったからだ。
こうした残虐行為が明るみに出てきたことに、ベトナム政府は神経をとがらせている。
虐殺があったこと自体は、政府首脳も承知している。だがベトナム当局は、虐殺事件の報告書が国内で発表されることは望んでいない。友好関係にある韓国政府はもちろん、ベトナムに莫大な投資を行っている大宇や現代、三星といった韓国財閥の不興を買うことを心配しているからだ。
ニューズウィーク日本版 2000年4月12日号 P.24
「あとはルクスお姉さんの補習授業2にたくさんあるからそっちを見てもらうとして・・・」
「まったく、こんな奴らを使ってた当時の日本人に同情するわ」
「一応、オーストラリア兵を虐待したという片山日出男中尉の名誉のために資料を紹介しておくが・・・」
「どうやらそのようだな、『おいらは知らないニダよ、他の誰かニダ<丶`∀´>謝罪と補償を要求しる』と言ったかどうかは知らないが、その可能性もあると言うことだ」
「もしかして他にも?」
「あったかもしれないな、もともと捕虜を殺すという文化は古来日本には無いものだからな」
「そうなの?」
「日本は同一民族による権力闘争のほうがはるかに多かった。ルクスは将棋を知ってるか?」
「将棋?チェスの日本版よね?たしかチェスト違って取ったコマを使えるんじゃなかった?」
「これは捕虜虐待の思想ではないのか?とGHQの将校が将棋に目をつけ、プロ棋士を本部に呼び寄せたことがあった。」
「へーそんなことがあったの?」
「その時、交渉に当たったのが升田幸三という豪放磊落な棋士なんだが、どうもGHQは将棋のなかに危険思想が含まれていると感じていたようで、場合によっては将棋を禁止することも検討していたようだ、その時の逸話をちょっと紹介しよう・・・
『将棋はチェスと違い、取った駒を自分の兵として再び使う。これこそ捕虜虐待の思想ではないのか』」
「!!!」
「『チェスこそ取った駒は殺したままでいる。それこそ捕虜虐待ではないか。だが日本の将棋は、捕虜を絶対に殺しはしない。再び将校となって働いてもらうのだ。あなたは先ほど「兵として再び使う」と言ったが、それは違う。将校を歩兵として使うことは、日本将棋ではしない。元の官位のまま、将校は将校として、飛車は飛車として遇するのである』」
「『そんなの詭弁ニダーーー!!』」
「(ニダっておい!)」
「『違う。昔、楠木正茂という将軍は、敵兵が川に落ちるのを見て、これを救った。本来は殺すべきはずである敵兵を、救ったのだ。救われた兵は感激し、正茂の部下となって大いに働いた。これこそ、日本の精神である』」
「『何を言ってるかチョッパリは!日本では庶民にまで将棋をやらせていると聞いた。それは、武道と同じく、戦いの準備をさせているのではないのか』」
「(チョッパリっておい)『武道の『武』とは、矛を止めると書く。力を外へ向けるのではなく、己を磨くためにあるにすぎない。また日本人は、庶民と言えども本も読めば文字も書く。将棋を指すのも教養の一環である。それよりもお伺いしたいことがある。チェスでは王様を助けるために、女王を犠牲にすることもある。女を楯に助かるとはどういうわけなのか、お答えいただきたい』
「っとこんな話があったそうです・・・」
「いきなり何やってるのよあんたらわ・・・」
「最初はソフィア大尉
頼んでたんだが、急に具合が悪くなったそうで、急遽代役を頼んだんだ」
「急に具合が悪くなったね・・・どっかで毒入りスープでも飲んだのかしらね〜」
「なんですか、その目は!私が下剤入りカレーを食べさせたみたいじゃないですか!」
「私は下剤ともカレーとも言ってないわよ!?」
「・・・」
「・・・」
アイゴーーーー!!誘導尋問です!謝罪と賠償を要求します・・・・・」
「あの人もこっちではすっかり韓国人だな・・・」
「本家から謝罪と賠償を要求されなければいいけどね〜」
「変なこと言うなよ・・・さてそれじゃあ、最後に捕虜についてこんな資料もある・・・」
元捕虜が収容所跡を訪問 大分県の日鉱金属製錬所 [ 04月15日 10時57分 ] 共同通信
第二次大戦中、日本の捕虜となった元オーストラリア兵ジャック・ブーンさん(87)が15日、当時収容されていた大分県佐賀関町の日鉱金属佐賀関製錬所を訪れ、収容所跡を見学する。
ブーンさんは1944年9月から翌年6月まで同製錬所内の収容所で約200人と鉱石運搬などの作業に従事。同収容所では職員が捕虜を買い出しに連れ出すなど自由な雰囲気があったという。
この日、ブーンさんは家族ら5人と同製錬所を訪れ、収容所元職員の三河春海さん(81)=同県国東町=と59年ぶりに再会。ブーンさんは当時の日記に「みんないい人ばかり」と記しており、2年前来日した戦友の紀行文を雑誌で読み今回の訪問を決意したという。
元捕虜との親善活動を進める「捕虜調査研究会」によると、当時、日本にいた捕虜は約3万5000人で、うち約3600人が強制労働による病気などで死亡した。同製錬所の収容所では3人が病死しているが、捕虜虐待を禁じる国際条約を守った数少ない施設だったという。
「ああ、そうだな・・・
「しかも強制労働って・・・」
「ところがこれが!」
元捕虜が収容所跡を訪問 大分県の日鉱金属 [ 04月15日 11時20分 ] 共同通信
第二次大戦中、日本の捕虜となった元オーストラリア兵ジャック・ブーンさん(87)が15日、当時収容されていた大分県佐賀関町の日鉱金属佐賀関製錬所を訪れ、収容所跡を見学した。
ブーンさんは1944年9月から翌年6月まで同製錬所内の収容所で約200人と鉱石運搬などの作業に従事。同収容所では職員が捕虜を買い出しに連れ出すなど自由な雰囲気があったという。
この日、ブーンさんは家族ら5人と同製錬所を訪れ、収容所元職員の三河春海さん(81)=同県国東町=と59年ぶりに再会。「収容所では食料が不足し、みんなで助け合った。職員の家で酒までごちそうになったことが忘れられない。かねてお礼を言いたいと思っていた」と話した。
ブーンさんは当時の日記に「みんないい人ばかり」と記しており、2年前来日した戦友の紀行文を雑誌で読み今回の訪問を決意したという。
元捕虜との親善活動を進める「捕虜調査研究会」によると、当時、日本にいた捕虜は約3万5000人で、うち約3600人が強制労働による病気などで死亡した。
「あら?短くなってない?」
「わずか20分で変更されてしまっている・・・」
「何やってるのよ共同通信は!?」
「共同通信の中の人もかなりアカい人がたくさんいるみたいだからな、さらに・・・
元捕虜が収容所跡を訪問 [18:20]
第二次世界大戦中に日本の捕虜となった元オーストラリア兵が15日、59年振りに収容所があった佐賀関町を訪問しました。
佐賀関町を訪れたのは、3人の元オーストラリア兵とその家族や支援者です。
3人のうちジャック・ブーンさん87歳が昭和19年9月から9ヶ月間日鉱金属佐賀関製錬所にあった捕虜収容所に収容されていました。
ジャック・ブーンさんらは、佐賀関町の二宮町長を表敬訪問したあと、製錬所の敷地内で、現在は製品の置き場になっている収容所跡地を見学しました。
佐賀関製錬所には、当時およそ200人のオーストラリア兵が収容され作業に従事していました。
収容所には、食堂や大きな共同浴場が備えられるなど他の収容所に比べて雰囲気や環境がよく、死者も出なかったということです。
この場に立ったジャック・ブーンさんは、職員から酒や餅をもらった当時の記憶がよみがえったようでした。
今回の訪問を支援した連合軍捕虜調査研究会によりますと、当時日本にいた捕虜は3万5千人で、そのうち3600人が病気や飢えで亡くなっています。
研究会では、過去を認識して苦い歴史を繰り返さないようにしてほしいと話していました。
「これが最終稿だと思うんだが・・・」
「最初の記事と全然違うじゃないの」
「何で変えたかは知らないが」
「どっかから抗議でも入ったのかしらねー」
「まあ、そう考えるのが普通だな」
「最後と最初の記事を比べると、どう見ても改悪しているようにしか見えないわね」
「これが世に言う情報操作だな、捕虜の死亡者数が多いが、それは飢えや病気が原因だと言うことだ・・・」
「そうね〜」
「ジュネーブ条約だって日本しか守ってなかったという資料もある」
そのジュネーブ条約に関して高山正之氏(帝京大学教授)が面白い指摘をしている。
同条約を 「旧日本軍以外の軍隊が過去に1度でも守ったとは寡聞にして知らない」というのである。
1例だけ紹介すると、先の大戦後マッカーサーは降伏した日本兵をPOWと呼ばず
JSP(Japanese Surrendered Personnel=降伏日本軍人)と命名したという。
「JSPにすれば『日本軍指揮官が軍紀、及び給養の責任を負う』ことになって、せこい話だが、経済的な負担を免れるからだ。だから日本兵は自分たちで捕虜収容所を建て、畑を耕して飢えをしのいだ・・・中には人も住まないレンパン島に収容というか放置され、食糧もないまま1千人余が餓死したケースもあった」
だが、日本軍は決してそんなせこいまねはしなかった。
コレヒドールで7万の米兵が、バンドンでは8万のオランダ兵が白旗を掲げたが、
「いきなり大量の捕虜を抱えた日本軍は貧しい補給の中から、それでも何とか良好な給養を心掛けてきた」。
事実、内地の収容所の例だが、日本は終戦直前でさえ「1人当り570グラムの米麦給与」していた。
それは当時の日本国民成年男子に対する配給量の2倍に当たる。
*その他参考サイト日本再生ニュース より
ジュネーブ条約といえば、日本の戦後補償問題でも度々持ち出されるが、内容は戦時捕虜(POW)は不当な尋問や拷問から保護され、良好な給養(食事)や収容施設が保証されるというもの。
日本戦略研究所【ジュネーブ条約と捕虜待遇】旧日本軍以外、どこが守った?
2002/02/12 (産経新聞朝刊)より 「・・・」
「ん?どうしたの?」
「いや、つくづくどっかで聞いたことある話だと思ってな・・・」
「ホントどっかで聞いたことある話よねー」
「まったく調べれば調べるほど枢軸国の方が人道的じゃないか!」
「負けたことが罪なのよー」
「くそ!イタ公さえ!イタ公さえ!いなければ!」
「ドイツはそうかもしれないけど、日本は違うわよ」
「なぬ?」
「日本が負けたのはあの国と併合したからよ」
「それはもしかしてあの国のあの法則のことを言ってるのか?
「何言ってるのよー状況証拠だけなら腐るほどあるわよ」
「それに関しては諸説あるみたいだが、1000年以上も前の神話に登場するような時代の話をされてもなー」
「じゃあベトナム戦争はどうなのよ?」
「たしかにベトナム戦争も最強国だったアメリカが韓国と組んで失敗してるけどな・・・」
「っということで日本が負けたのはあの国のせいなのよ!」
「じゃあ今度はやるときはイタ公、韓国抜きと言うことで・・・
それじゃあ切りもいいしこの辺で・・・」
「あれ?
「ああ、それか・・・」
「これはあきらかにジュネーブ条約違反じゃないの?」
「それも他の巻でくわしくやってるんだが・・・」
「むう、これホントの話か?」
「私に聞かれても知らないわよ!」
「『日本は謝罪しる!<丶`∀´>ニダ』と言ってるようなサイトも探したけど、こんな話どこにもないぞ」
「また、アサヒとかじゃないの?」
「一応、2.対決再開!オーストラリア(4)の方には作画資料が書いてあったんだが・・・」
「なんだ、それ調べればいいじゃないの」
「だがこれ・・・
「日本人の誇り」(雁屋 哲・著/飛鳥新社・刊)
なんだな・・・」
「・・・」
「・・・」
「・・・」
「・・・」
「えっと・・・自分で書いた本をソースにしてるわけ!?」
「そういうことだな・・・」
「まさかー、同姓同名の人じゃないの?」
「どうやら美味しんぼの原作者の雁屋氏で間違いない」
「そ、そんなの脳内ソースと変わらないじゃない!」
「一応、この本を紹介しておくと・・・
「どうやら、カリーが自分で取材に行って調べてきたことらしい・・・」
「いったい何を見てきてるのよ・・・」
NONFIX The Winds of God 〜フィリピン人が愛した神風〜
(http://www.fujitv.co.jp/nonfix/library/2004/442.html)
『1571年のスペイン統治から始まり、1898年のアメリカ統治、と他国に支配されてきたフィリピン。それは蹂躙の歴史でもあった。しかし、1942年に始まった日本軍の軍政は違い、マバラカットの人々は尊重され、子供などは特攻隊員に非常に可愛がられた、とディソン氏は語る。
そのディソン氏は15歳のときに大西中将・関大尉に可愛がられた思い出を持つ。
特攻隊員たちは「死」から逃れられない運命を享受しつつ、生活を共にすることになったフィリピン・マバラカットの人々を守ることにも力を注いだのだと。
マバラカットの人々にとって彼らは英雄であった。』
「自分たちは長い間、オーストラリア人の支配を受けて来たのですが、その間、彼らはいばり散らすばかりで、私たちに何も教えてはくれませんでした。しかし、戦争が起こり、日本軍がブイン地区にやってくると、やがてこの日本人たちは、たくさんのことを私たちに教えてくれました。私たちは先ず日本語を教わりました。日本の“先生”たちは、それまで自分たちが考えてもみなかった傾斜地(彼らはたしかアップヒルといった)のジャングルを切り開いて耕し、種子を蒔いて、食料を自分の手で栽培する、ということを教えてくれました。また、生活に役立つことを、いろいろ教えられ、それが私たちには、いまも役立っています。」
「なーーーーんにも見てこなかったに決まってるじゃない!」
「まあ、そういうことだろう、っということでこの辺で終わりにしようか?」
「あら?まだまだオーストラリアの話はもっといっぱいなかった?」
「まだあるんだが、さすがに長いからな、続きは次回だ!」
「それじゃあ、see you NEXT week byebye〜♪」
「ネクストウィークっておい・・・」