~ 野球の申し子 ~
桑田 真澄
プロフィール 右投右打 68年4月1日生 PL学園高→巨人・86年ドラフト1位→パイレーツ・07年
獲得タイトル 94年・セ・リーグMVP。87、02年・最優秀防御率。98年・最高勝率。94年・最多奪三振。87年・ベストナイン。87、88、91、93、94、97、98、02年・ゴールデングラブ賞。87年・沢村賞。
通算成績 登板 投球回 勝利 敗戦 セーブ 防御率 奪三振 四死球
442 2762 173 141 14 3.55 1980 828
MLB通算成績 19 21 9.43 12 16
90年代、セ・リーグに君臨した三本柱の一人であり、王監督時代を知る最後の選手。
コントロールと投球術、そしてカーブのキレは球界屈指の存在。若い頃はストレートにも威力があり、スタミナも抜群。斎藤や槙原と同様、9回に突入しても145キロ以上のストレートを投げ込む事ができ、92年8月12日の広島戦では、延長12回196球完投勝利もやってのけている。

フィールディング能力もずば抜けており、ピッチャー返しへの素早い反応、軽快かつ無駄な動きのない打球処理と、守備力だけなら間違いなく90年代ナンバー1投手。

高校時代から驚異だった打撃センスは、プロでも健在。器用なバットコントロールで右打ちもできれば、時として本塁打も放ってみせる。バントも上手い。
87年に放った勝利打点4は、投手の年間最多記録。92年7月9日の中日戦では、山本昌からチーム唯一の安打を放ったり(しかも2安打)、02年6月19日にはなんと代打で出場し、見事バスターを決めて見せた。どうやら89年にも、代打の準備をさせられた事があったらしい。堀内、西本と、巨人には伝統的に打撃・守備にも優れる投手が多いが、桑田は斎藤とともに、その系譜も受け継いだ。

さらには100mラップ11秒台の俊足で走塁能力も高く、滑らかに入るスライディングは美しい。言わば、投走攻守、そして頭脳、五拍子揃った天才野球選手。
それと同時に、修行僧のような努力人でもあり、練習内容はもちろんの事、食事、健康管理まで一切手を抜かず、常に前へ前へを目指す、筋金入りのプロフェッショナルだ。

その割には期待を裏切る事も多いんだけどね。



プロ入り以前から野球界に名を馳せており、高校1年生から名門・PL学園のエース兼強打者として大活躍。戦後の甲子園最多勝投手であり、打者としても甲子園通算本塁打数歴代二位。もっとも、これは出場試合数が多いという事もあるんだけど。

巨人にドラフト1位入団すると、与えられた背番号は18番。巨人のエースとして生きていく事を、宿命づけられての入団だった。
1年目はイースタンタイ記録となる1試合16奪三振を記録し、一軍でも巨人史上初の高卒ルーキーによる1試合2桁奪三振(11奪三振)を記録するが、あえなく2勝止まりで、防御率も5点台。一軍入りしている分、高卒1年目の割にはよくやったと言えるが、同僚の清原が三割30本塁打を達成しているのと比べると、やや物足りなかった。

ちなみにこの当時、江川氏は桑田に対し、“マジックインキ”たるアダ名を付けたらしいが、そんな呼びにくいアダ名、誰も使いません!



しかし、2年目に入ると一気にブレイク。この年の桑田は、「目標は?」と問われると、必ず「8勝です」と答えていたが、その8勝はゆうに越え、見事なまでに9連勝。高校時代から続くストレートとカーブ主体の投球スタイルに、”サンダーボール”と自ら名付けた、SFFが加わった事が大きかったのだ。前半戦終了時には既に12勝に達して10完投2完封、敗戦はわずかに1。勝利数、防御率、ともにリーグトップを走った。とくに10勝目を挙げた試合では、投げては完封、打ってはその試合の全4打点を一人で叩き出す、まさにワンマンショー。投打ともに優れる、桑田の真骨頂だった。

後半戦に入ると、桑田は投球フォームを修正する。左足を上げる際に一瞬動作を止めてタメを作り、球威を上げようとしたのだが、これが逆に災いし、打者にはタイミングがとりやすくなったのか、力の流れを止めてしまう事になったのか、後半戦はあまり勝ち星が伸びなかった。それでも、最優秀防御率のタイトルは見事獲得!10代投手としては堀内以来、21年ぶりの快挙だった。15勝はチームの勝ち頭であり、新エース誕生!と、マスコミは騒ぎたてた。

ちなみにこの頃、桑田がボールに何かささやく時、「おかあさん」と言っていた、というのは本当であろうか?



89年は自己最多の17勝を挙げ、防御率ランクは6位、60イニング1/3連続被本塁打ゼロ、そして投球回数と完投数、無四球試合はリーグトップ。また6月17日の中日戦では、1安打完封に2点タイムリーツーベースと、桑田らしい投打に渡る活躍も見せている。この年は斎藤雅樹と槙原が凄すぎたが、桑田も決して引けをとらない好成績であった。
そう言えばこの頃、「あっかんベースボール」と言うマンガで、「巨人のエースは11連続完投勝利の斎藤か?広島戦5勝の槙原か?」と言う記事を見て、桑田が「巨人のエースは僕だ!」と嫉妬するネタがあったっけなあ……。

90年には有名な登板日漏洩疑惑が持ち上がり、開幕から1ヶ月の謹慎処分。実はこの時、桑田は居心地の悪さゆえか、メジャー行きも考えていたらしいが、その当時ではメジャーへのルートなんて分からずじまい。これが今の時代ならきっと行っていただろうし、成功もしていただろうなあ。
そんな桑田は復帰するや否や、なんと2試合連続完封勝利の24イニング連続無失点と意地の投球。さらに7月17日の広島戦から6試合連続1失点完投勝利と、全盛期の桑田は、まさに実力者そのものだった。

順調に成績を残し続ける桑田だったが、92・93年は不調。ストレートが走らず、安定感に欠けるピッチングで、“連勝ストッパー”と批判されることもあった。
ストレートの威力が復活したのは94年。そして、投手・桑田がもっとも完成されたのが、おそらくこの年。87年の方が馬力はあったものの、投球自体はより洗練された印象。どの球種でも内外角を攻められる抜群のコントロールに、膝元を抉るスライダー、高めから右へ切れ、外角いっぱいにピシリと決まるシュート。桑田持ち前の投球術が冴えわたり、見逃し三振の名手ぶりを魅せた。そしてこの年、16奪三振のセ・リーグ記録を樹立し、奪三振王とMVPを獲得。

「入団10年目で理想の投手になる」と語っていた桑田、9年目のシーズンであった。

95年も活躍を期待されたが、初登板のヤクルト戦から、桑田はいきなり不運に見舞われる。この試合、桑田は0行進を続ける完封ペースだったが、迎えた最終回の先頭打者、飯田へ頭部へのデッドボール!危険球退場となってしまい、これがケチのつけはじめだった。そして5月の阪神戦に、あの悪夢が訪れる……。
三塁寄りに上がったファールフライを、桑田は見事なダッシュでダイビングキャッチ!まさに桑田ならではのファインプレイだったが、このキャッチ時に、桑田は投手の命ある右肘から落ちてしまう。そしてこれが、なんと右肘靭帯断裂の重傷。手術が必要とされ、桑田は95年残りのシーズン、そして翌96年も棒に振ることになる。



常に高いレヴェルを追い求める桑田は、メジャーリーグへの憧れも人一倍強く、一時は本格的な移籍話がありながらも、渡辺恒雄氏の「メジャーに行きたいのなら、借金を返してから行け」の発言で、ご破算になった経緯がある。桑田は英語も堪能で、外国人選手にメジャーの話を聞いたりしており、おそらく、いずれはメジャー挑戦を考えていたのであろう。しかし、このケガにより、それも遠くなってしまった。

大ケガから復帰の97年、チームは開幕2連敗してムードの悪い中、3戦目に先発。見事勝利投手となり、その後もシーズン序盤は好調で、防御率ランキングトップに立った日もあった。しかし、ストレートは140キロ台前半と、ケガの影響から球威はハッキリと衰えており、肘もまだ万全ではなく、どんなに好投を続けていても、100球をキッカリ超えるとスイッチオフ。わざとやっているかのような不自然なメッタ打ち。
十分な休養を取りながら投げる必要があると、100球限定の毎週日曜日のみに先発。“サンデー桑田”となり、さすがの10勝をあげる。



翌98年には本格的にローテーションに復活。前半戦はなかなか勝ち星が伸びなかったものの、得意の夏場になると調子を上げ、8月以降は7連勝をマーク。惜しくも最多勝は逃したが、セ・リーグ最高勝率のタイトルを獲得した。
しかしそれでも、全盛期の投球には至っていなかった。斎藤、槙原の晩年と同様、ストレートが走らず、いざとなったら馬力でねじ伏せる投球ができなくなってしまった。防御率も悪く、安定感のない投球が続く。99年途中からは不調のため、ストッパー、または中継ぎにも起用される便利屋状態。先発としての信頼をすっかりなくしてしまったのだ。

00年途中は怪我で離脱した槙原に代わって抑えに指名されるも、4連続リリーフ失敗と、見事に槙原の後を受け継いでしまった。そして、よく知られる悲惨な場面。
斎藤雅樹がケガから復帰して先発すると、7回を1失点に抑える好投。その後を南、岡島とつないで、9回二死、最後を締めくくる形で桑田が登板。しかしその桑田が、なんと逆転スリーランを浴びてしまう!これで斎藤の勝利は消えて、ゲームは台無し。これはどう考えても、最後に桑田を登板させた長嶋監督の采配ミスなのだが、それでも最後の一人を抑えられなかった桑田の力不足は否めなかった。



そして02年、波乱に満ちた桑田の野球人生に、またも大きな転機がやって来る。
かつてのエースもすっかり二線級の投手に成り下がっていたが、武道や歌舞伎にインスピレーションを得て開発したという、"歌舞伎投法"をひっさげ、再び先発に挑戦。この投法は、投げる前に打者との間合いを慎重に取りつつ、「無駄な力は加えない」と、振りかぶり小さく、足もあまり上げず、テイクバックも小さい、少ない予備動作でスッと投げる。クイックモーションに近い。武道で言う"無拍子"とは、こういったリズムを指すのであろうか?
桑田は入団以来、何度もフォームを変えてきたが、それはほとんど球威を上げるための修正。しかしこの投法は、制球力と打者のタイミングをずらす事に重点を置いた、異彩を放つ投法だ。

これが功を奏し、4月19日には、セを代表する左腕・井川との投手戦に競り勝つ活躍で、今季初勝利。後半戦に入ると先発ローテーションの一番手にも使われ、首脳陣からの信頼を取り戻した。シーズンが終わってみれば、最優秀防御率のタイトルも獲得!と、堂々たる復活。こうして、野球に新境地を開拓した桑田。この年、野球の達人となった。



しかし、この老獪投法も長くは続かず。と言うか、あれほど成功していた新投法なのに、02年後半頃からだんだんと、元のフォームに戻っていった。

年齢のせいであろう球威はさらに衰え、堀内監督時代にはストレートの球速は130キロ台半ば。 04年5月15日には、ヤクルトのマーチンに来日初ホームランを献上。そしてこのホームランこそ、桑田にとって高校1年生の6月4日、対滝川高戦以来の公式戦被満塁本塁打であった。
05年はもはやまともに攻める事ができず、逃げて、逃げて、逃げるの投球。怖くてストライクゾーンに放れず、四死球は増え、やがて投げる球がなくなり、球を置きにいったところを打たれる悪循環。史上最多となる3度目の危険球退場もあり、無勝でシーズンを終えてしまった。
しかしその一方で、打撃・守備・走塁は衰え知らず。代打、代走、守備固め要員を狙った方が一軍に入れそうだった。

そして06年は、95年の大怪我以降、あまり投げなくなったシュートの解禁を宣言。肘の故障再発の恐れがある球種だったが、かつてはヤクルトの池山にして、「打とうとしても打てへん」と言わしめたシュートである。どれほどの効果があるか注目だったが、いざシーズンが始まってみると、そのシュートはほとんど投げずじまい。
とりあえず600日ぶりの勝利を収めたものの、5イニングをごまかすのがやっとの内容。しかも間もなく、右足首捻挫で戦線離脱。復帰後はイースタンで投げるも、8月下旬にまたも左腰に異常発生。

年齢のせいであろう怪我もしやすくなり、投球はアウト一つ取るのも苦しい状態。もはや戦力として計算できなくなった桑田、自らもそれを悟ったか、ウェブサイトを通じて巨人退団宣言となった。



巨人を退団した桑田だが、引退の気はさらさらなし。さりとて、日本に獲得意思のあるチームもなく、行く先はメジャーリーグのピッバーグ・パイレーツ。選手としての限界はとっくに越えつつもまだやる気とは、ほとんど岩田鉄五郎だ。

考えてみれば、95年の大怪我以降、連続して戦力になったのは97・98年だけ。それ以降は背信投球を続け、崖っぷちにまで追い詰められたら活躍する、なんとも綱渡りな現役生活。94・98・02年と、サッカーW杯の年に活躍する様は、まるで「こち亀」の日暮さんのようだ。まあ、日暮さんは五輪の年だけどさ。

経緯はどうあれ、念願であったアメリカの地に降り立った桑田、いざ始まったメジャーでのオープン戦では、投球は危なっかしくはあったものの、結果オーライ。メジャー当落線上ギリギリ、何とか生き残る投球を見せていた。投球途中に捻挫をしても続投するなど、メジャーへの執念だ。
しかし、試合中に審判と激突してしまう事故で、靭帯断裂。あえなく、開幕メジャーとはならなかった。

怪我が癒えたのは5月の事。そして6月9日、ついにメジャー昇格を果たした。



晴れて正真正銘のメジャーリーガーとなった桑田、与えられた背番号は18番と粋な計らい。6月10日には早速初登板となったが、球威不足は相変わらずで、通用している球種は"レインボール"と持てはやされたカーブだけ。あえなくツーランを浴びるデヴューとなった。

その後はカーブを軸にある程度好投し、イチローを三振にとる見せ場もあった。しかし、7月に入ると慣れられたか、プロ公式戦2度目の満塁本塁打を浴びて初黒星。これをキッカケに崩れ出し、毎回のようにつるべ打ち。もっとも、日本時代と何も変わってないんだから、打たれて当たり前なんだが。
8月14日には早くも戦力外通告となり、約2ヵ月のメジャーリーガー生活は終わった。



さすがにこれで引退かと思われたが、08年もマイナーとしてパイレーツと再契約。もうここ数年は毎年のように「引退をかけて臨むシーズン」と言われ、もう何度引退をかけたのか分からないが、再度メジャーリーガーをかけてオープン戦に参加。一度勝利投手になったり結果を残すものの、やはり力不足は明らかだったか、メジャー昇格のチャンスがない事を告げられると、ようやくの引退決意となった。

天才野球選手の夢を阻んだのは、あの右肘の大怪我がすべてだったか。あれさえなければ、通算200勝、2000奪三振、200本安打は確実にクリアしていただろう。限界はとうに越え、満身創痍という言葉すら甘く、もはや投げる球すらなくしつつもメジャー挑戦は、まさに野球狂の詩であった。




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