~ 最強の快腕 ミスター投手戦 ~
槙原 寛己
プロフィール 右投右打 63年8月11日生 大府高→巨人・82年ドラフト1位
獲得タイトル 83年・新人王。88年・最多奪三振。
通算成績 登板 投球回 勝利 敗戦 セーブ 防御率 奪三振 四死球
463 2485 159 128 56 3.19 2111 834
90年代、セ・リーグに君臨した三本柱の一人。唸りをあげる150キロ前後のストレートに、球界トップクラスの切れ味を持つスライダーとフォーク。かつては155キロの日本プロ野球最速記録を持っており、さらに高校時代に記録した147キロも、当時の甲子園大会最速記録であった。コントロールは入団当初は悪かったらしいが、それも年々良くなっていった。弱点は精神面の甘さのみ。

三本柱の中では一番下に見られる事が多いが、興に乗った時のピッチングは最強と言って良い凄まじいもの。手も足も出ない、無敵、圧倒的という表現がピッタリ。打者はクルクルと面白いように回転していき、アッと言う間に完封が出来あがっていた。実際、完封数は引退時、現役第2位(1位は斎藤雅樹)だ。

槙原はなんと、片手で野球ボールを6つ持つ事ができると言う。この手の大きさ、柔らかさ、握力の強さが、槙原の爆球を生み出していたのかもしれない。



その反面、負けるときはアッサリKOされるタイプ。早い回に打ち込まれると、ペースを取り戻せないまま降板というのが毎度のパターン。調子が悪いなら悪いなりに、ごまかしながら抑えるのができない投手であった。
やらかすミスもやたらと目立ち、延長にまで及んだ投手戦にサヨナラ暴投をやってオチをつけたり、投手の郭源治にサヨナラホームランを打たれたり、1イニング7連続安打されたり、音・山崎・大豊に3者連続本塁打を浴びたり、新庄に敬遠球をサヨナラヒットされたり、試合中にズッコケてケガをすると、そのまま車椅子に運ばれて退場したりと、カッコ悪い場面もまた多かった。

もっとも、このあたりはまだかわいいもの。85年には、有名なバース・掛布・岡田のバックスクリーン3連続本塁打を食らい、これがこの年の阪神祭り開始の花火。阪神は強力打線で押しまくり、そのまま優勝。
86年終盤、広島との激しい首位争い。一つの負けが致命傷となる土壇場のヤクルト戦で、ブロハードに逆転ツーランを浴びて敗戦投手。この1敗が響いた巨人は、わずか勝率3厘しか変わらぬ0ゲーム差で2位に終わった。
88年8月25日、逆転優勝の望みをかけて、首位中日との天王山でも敗戦投手。
91年、下位に低迷する巨人は7月19日の中日戦で、7回表で8点リードをつけるものの、その裏に先発の槙原がKOされて延長10回敗戦。7点差以上リードつけて逆転負けされるのは巨人史上初だった。
92年終盤、ヤクルト、阪神との三つ巴の首位争い。巨人に残された試合はわずか2試合。これに連勝すれば優勝の可能性が残されるところだったが、先発した槙原は3本のホームランを浴びてアッサリKO。
98年、首位を争う横浜との三連戦。初戦にサヨナラ負けを喫した巨人は、第二戦、3回で7点差を付ける猛攻を見せる。しかし、ジリジリと追い上げられ、7回にはついに同点。そんな乱打戦も、8回に巨人はルーキー・高橋由伸のスリーランが飛び出して逃げ切り体勢。そして、その裏の横浜の攻撃、一死二塁の場面でリリーフにあがったのは槙原。ローズにタイムリーヒットを打たれて一点を献上したものの、次の駒田をショートゴロ、佐伯をライトフライに打ち取ってチェンジ……と思いきや、なんとこれがボーク!打ち直しとなったのだが、ここで緊張の糸が切れてしまったか槙原、その打ち直しがまさかの同点ツーラン!続く9回も槙原は打ち崩され、巨人は前日に続いてのサヨナラ負け。しかも7点差をひっくり返された!こうして奇跡の大逆転劇を展開した横浜は誰も止められなくなり、勢いに乗ってそのまま優勝。
99年8月17日、天王山と言える中日戦では、好投のルーキー・上原を9回からリリーフ。巨人が1点リードの状態だったが、四死球連発で自滅してしまい、サヨナラ負け投手。

巨人が優勝を逃すポイントには、必ず槙原がいました。

勝つのも派手なら、負けるのも派手。それが槙原であった。



さらに、この投手は能力の割に運がなく、87年4月12日の中日戦では13奪三振2失点完投、89年4月28日の中日戦では延長11回188球15奪三振4失点完投しながら、いずれも敗戦投手。
88、89、93年は、例年なら防御率1位になれるだけの成績を残しながらも、それぞれ大野豊、斎藤雅樹、山本昌広がそれ以上の成績を残し、結局、タイトルなしで終わっている。93年には自己最多の13勝をマークしているが、この年は味方が極度の貧打線で、防御率を考えると15勝以上していてもおかしくなかった。

もっとも、タイトルに結び付かない記録はたくさんある。1試合二桁奪三振の回数は巨人歴代1位。94年には人工芝球場唯一の完全試合を達成。このせいで、現在は「ミスター・パーフェクト」と紹介されたりもするが、それはノーヒットノーランを3回、完全試合を1回達成している外木場義郎氏に対して失礼ですよね。
98年5月21日の阪神戦では準完全試合も達成。この試合唯一のヒットも、アウトになってもおかしくないボテボテの当たりであった。清原の守備がなあ……。
さらに86年9月8日の大洋戦では、外野の守備機会ゼロで9奪三振1失点完投勝利と言う離れ業もやってのけている。とは言っても、その試合のスポーツ誌一面は、意表を突くセーフティバントで決勝点を叩き出した有田だったけどね。それに、こんな離れ業をやっているのに1失点しているのが槙原らしいんだよなあ……。

また、森監督率いる常勝・西武ライオンズが、もっとも警戒していた投手が、この槙原であった。



デヴュー戦を延長10回、1-0の完封勝利とド派手に飾ると、その年は12勝をあげて新人王。しかも3完封と、新人の頃から勢いに乗ると止まらなかった。

その後は伸び悩んでいた槙原だったが、86年に篠塚から決め球となるスライダーを教わると大きく飛躍。後半戦に入ると26イニング連続無失点の7連勝と、チームの首位争いに貢献。もっとも、最後には前述のとおり、ブロハードに逆転ツーランを浴びて優勝を逃す一因を作ってしまった。無敵の投手でありながら、どこかでズッコケる、槙原という投手の特徴がよく現されたシーズンと言えよう。

完全試合の頃は9回に入ってもストレートは148キロを計測する豪腕ぶりだったが、88-89年はそれ以上だったと思う。
この頃の広島戦において展開された、当時最強の左腕コンビ、大野豊、川口和久との息詰まる超投手戦は、今なお語り草。実はこの槙原、1-0での完封勝利が、引退時は現役最多。ミスター1-0である。
88年の日米野球では初戦に先発。メジャーチームの先発は、メジャー史に残る名投手、オーレル・ハーシュハイザーだったが、槙原はそのハーシュハイザーと互角以上のピッチングを披露。堂々たる投手戦を展開し、次々と三振にきってとったその快腕ぶりは、「あの17番はメジャーで通用する」と並み居るメジャーリーガーたちを驚嘆せしめた。この当時、メジャーで通用する日本人投手の一番手が、おそらくこの槙原。もっとも、この頃のメジャーチームは、明らかに本気でやってなかったけど。

槙原は晩年にストッパー転向となったが、実は89年にも、先発兼ストッパーという形で起用されている。当初は桑田がストッパー候補に挙がっていたのだが、その桑田がゴネたため、槙原におはちが回ってきたのだ。そしてこの89年こそ、槙原にとって最高のシーズン。
自慢のストレートが低め低めにズバズバ決まり、ダブルプレイを取るはスライダー、三振を取るはフォーク、全ては槙原の意のまま。打者は槙原の掌の上で踊り続けた。

5月2日の阪神戦では1点差、8回表二死二・三塁のピンチにこの年初リリーフすると、中野をレフトライナー、最終回を三者連続三振と圧巻の出来栄え。
さらにわずか3日後の広島戦に先発すると、11奪三振2失点完投勝利。5月20日の広島戦では、大野との死闘を制する、延長12回完封勝利。
6月11日には抑えとして登板しつつも、その2日後に先発し、またも大野に競り勝つ、1-0の13奪三振完封勝利。6月27日の広島戦では、今度は川口を相手取って1-0の10奪三振完封勝利。これで首位を争う広島相手に、3連続完封の大殊勲。前年に3試合サヨナラ完投負けを喫した男が、競り合いに強くなったのだ。
勢いはまだ止まらず、次の広島戦でも、川口を相手に9奪三振1失点完投勝利。これで対広島戦、35イニング連続無失点であった。

オールスター前の7月19日には規定投球回数に達し、75イニング連続被本塁打ゼロ、12勝4セーブと大車輪の超活躍。しかもリリーフ登板の際には、一人たりともランナーを出す事のない、文字どおりパーフェクトリリーフ!

僕がリアルタイムで見てきた投手の中で、この年の槙原より凄い投手は見た事がない。

ついに槙原が完成したか!と思わせたが、間もなく半月板損傷の大ケガで戦線離脱。残りの後半戦を棒に振る事となった。

もっとも、そんな絶頂でも、6月20日に巨人の対大洋戦18連勝をストップさせる4失点敗戦投手になっているのが槙原らしいですね。



ケガから復帰後は球威も落ち、以前のように、時折弱気が顔を出す槙原に戻ってしまった。
毎回、新人王獲得時にマークした12勝が目前になると、急に負けが込み出すのが、重圧に弱い証明だったようにも思える。もしこの89年の大ケガがなければ、12勝の壁もあっさり破り、“平成最高のエース”の称号も、斎藤ではなく、槙原のものになっていたかもしれない。
結局、その才能が完全に開花することなく、やがて晩年へ向かう事になってしまった。まあ、それでも通算150勝を達成した槙原は、やはり凄い投手であったのかもしれない。

なお、89年のオフでは、槙原は年俸6,900万円で契約更改。これは87年の江川の6,200万円を上回る、当時の巨人投手歴代最高年俸であった。



89年のケガをきっかけに、球速が140キロ台前半程度に衰えていた槙原だが、93年あたりからは復調。再び140キロ台後半が出るようになり、3年連続防御率2点台2桁勝利を記録。斎藤とともに投手陣の軸となる活躍を見せた。

94年にはFA宣言をしたものの、巨人に残留。この際の引き止めに、長嶋監督が17本のバラを持って自宅に訪れたのは有名な話だが、実際は20本ぐらいだったらしい。槙原本人は言いました。
「監督が、そんな細かいこと気にするわけないでしょう」
言われてみれば、まったくそのとおりである。



槙原は当時の球界の盟主、西武ライオンズ相手にもドラマを作っている。
87年日本シリーズでは第4戦に先発し、11奪三振の完封勝利!優秀選手賞に選ばれた。
90年日本シリーズでは、大事な初戦に先発。しかし、いざとなったらド真ん中ストレート、馬力で無理矢理ねじ伏せるクセを見破られ、初回にいきなりデストラーデにスリーランを被弾。巨人4連敗の一因を作った。
だが、94年日本シリーズでは雪辱。2先発して2勝を挙げ、かつての西本を彷彿させる18回1失点の完璧な投球。5者連続奪三振の日本シリーズタイ記録も成し遂げ、見事、日本シリーズMVPに輝いた。



95年のオフに、槙原はレーザー光線による目の手術をする。槙原はかなり目が悪く、視力を上げて、さらにコントロールをつけようとしたのだが、この年を境に球威が明らかに落ちた。体力の衰えとたまたま一致しただけなのかもしれないが、この手術が、悪い方向に行ったような気がしてならない。



98年6月半ば、ストッパー不在に泣かされていた巨人は、これまでの経験と三振奪取能力を買って、前半戦までという限定付きで槙原をストッパーに転向させる。
しかし、そもそも巨人がこのストッパー不在に泣かされていたのは、もう2年も前からのことで、要するに首脳陣側は、自分たちがストッパー整備を怠ったミスを、槙原になすり付けたわけです。こうして、まんまと首脳陣にハメられた槙原。
まさかこの後、引退するまでストッパーをやらされるハメになるとは思ってもいなかっただろう。

このストッパー転向により、ストレートの威力が多少復活。145キロ前後が出るようになったが、良かったのは最初だけ。98年も終盤に差しかかると、だんだんとリリーフ失敗も目立ってきた。
こうして、石毛~西山と続く、巨人軍アブないストッパー伝説が再び始まった。

翌99年は45試合にリリーフするものの、そのうち30試合はランナーを出す不安定な内容で、そして8試合は同点にされたり、逆転されたりのリリーフ失敗であった。

もともと暫定的な転向だっただけに、翌年以降は新たなストッパー投手を補強するなりして、槙原は先発に戻すべきだったと思うのだが、当の槙原はストッパーのまま。そして、槙原はずっと、頼りないストッパーのままでした。これは槙原よりも、ストッパー適性のない投手をえんえんとストッパー起用し続けた、完全な首脳陣側のミスです!



リリーフではなく、先発でやらせれば、まだまだ勝てたと思うんだけどな。ストレートに威力がなくなっても、スライダーとフォークがあるんだから……。特に90年代に入ってからの、外角スライダーのコントロールと扱いの上手さはお見事でした。

00年開幕前、この年もリリーフ起用が言われる槙原は、このような事を述べておりました。

「今年は先発でやりたいですし、先発として調整していきます。先発として調整しておけば、リリーフだってできるんです」

もともと日ごとに調子が違うタイプで、精神面も甘いので、安定性が求められ、プレッシャーもかかるストッパー向きではないのだ。しかも、ストッパー転向後の槙原は、フォークを決め球にした三振狙いの投球に終始し、ボールが先行すると球を置きにいき、そこを痛打されるケースが目立った。この三振狙いの投球は、速球派投手としての意地だったのか?はたまたストッパーと言えば佐々木(横浜)の幻影が強いためだったのか?
実際、ストッパー時の槙原の奪三振率は11点台と異様に高かったのだが、無理に三振を取りにいかなくても、スライダーでゴロを打たせる事だって、槙原はできるのに……。

00年の日本シリーズ初戦、9回同点の場面で槙原が登板。先頭の代打・ニエベスに対し、カウントが1ストライク3ボールとボールが先行すると、置きに行ったストライクを打たれて、決勝ソロホームランを被弾。
不甲斐なかった槙原だったが、この試合終了後、長嶋監督からは「次も使うぞ!」と檄を飛ばされたらしく、意気に感じた槙原は名誉挽回に燃えていたらしいが、これが実質、現役最後の登板となった(翌年、引退登板の1/3イニングがあるのみ)。

適性とは言えないストッパーを無理矢理やらされ、先発復帰なくしての現役引退はあまりにも寂しい。




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