| 序章 成熟社会の中の日本サッカー |
| 1章 利益を主張することが「恥」の文化 |
| 2章 外国文化は正しいという盲信 |
| 3章 目的意識を持って仕事を継ぐ人 |
| 4章 「個」を表現する能力は生まれるか |
| 2001.12.22 |
| by MASYAS |
「成熟社会」なる言葉が、我が国の社会文化の総称あるいはキーワード
として使われ始めた二十世紀末、日本のサッカーは大きな転換期を迎えていた。
93年、フランチャイズ方式によるプロサッカーリーグ『Jリーグ』が、我が国の
成熟したスポーツ文化の証しの一つとして始まった。96年には、日本と韓国が共
同で2002年ワールドカップを開催することが決定したのに続き、98年、日本代表
チームが初のワールドカップ本戦出場を果たし、日本のサッカーは、それまでは
プロ野球一色と言っても過言ではない日本スポーツ界の表舞台に登場していった。
しかし、来年で、Jリーグ10年目を迎え、ワールドカップを開催しようとしている
日本のサッカー界には、我が国が抱えるいくつかの問題が象徴的に顕在化し始め
ている。
去る12月1日、韓国釜山では、2002年日韓共同開催によるアジア初のワールド
カップの対戦カードを決定する抽選会が開催されていた。ワールドカップは、世界
で延べ3百億人が観ると言われ、スポーツイベントの中で最も注目される大会であり、
この日の抽選会も世界中に生中継された。抽選会場には、世界のサッカー関係者
たちが続々と集結する様子が伝えられていた。しかし、その日、抽選会に先だって
開催国が行う恒例のパフォーマンスでは、韓国芸能だけが採用され、司会者にも
日本人の姿はなかった。生中継される画面を見て、また会場にいて、これを奇異に
思わない人はいなかっただろう。
考えてみよう。もしも、この抽選会を日本で開催し、この逆をやったとしたら?
つまり、日本人司会者、日本文化だけの紹介、言語も日・英・仏語だけで抽選会を
全世界に配信したら? おそらく、ただでは済むまい。
日本のワールドカップ開催関係者は、これまでの抽選会のあり方を知らなかった
わけではないだろう。すでに、2002日韓ワールドカップは始まっているのだ。
日韓の共同開催を唱い、FIFA・KOREA/JAPANの名称が与えられた大会で、
日本側が、自らのスタンスを主張しきれないという体質が、ここに見て取れる。
誰がどこに対してどのように主張しているかの情報が流れてこない状況も、日本の
社会そのものである。2002年5月31日、ソウルで行われる開会セレモニーも同じ轍を
踏むのではと、今から危ぶまれてならない。
96年5月26日の朝日新聞社説にも、同様の日本の体質を見ることができる。端的に
紹介すると、『日本は植民地支配に対する謝罪と今後の日韓関係を考慮し、ワールド
カップ日本開催によって国内に生ずる文化的・経済的な利益を韓国と分かち合うべきで
ある』とし、日韓共同開催を是とする社説であった。ワールドカップサッカーに対する
認識不足とスポーツの歴史を見誤った考えが底流にあると、当時、社説を読んで感じた
ものである。
私たちは、ベルリン、モスクワ、ロサンゼルスなど、東西冷戦や軍国主義政権下で
行われたオリンピックが、政治とスポーツの誤った関係であったことを学び、反省もし
てきたはずだった。しかし、社説に、それらの記憶は感じられず、むしろ、ワールド
カップを通じて自国の文化や国民性そのものを世界に発信しようという日本としての
意欲や利益ではなく、大会自体を政治課題解決の道具立てにすることが優先であるか
のような主張がなされた。この社説には、今も嘆息を禁じ得ない。
2002年の共同開催は、一国開催の原則に基づいて日本が名乗りを上げたにもかか
わらず、FIFAがその規約を突然改正し実現した経緯がある。その点から言えば、大会
自体、もともと自国の正当性を堂々と主張しきれない日本的な体質の上に成り立って
いるという皮肉な見方も出来ない訳ではない。
サッカー界には、この他にも、日本的な体質を映す鏡のような現象がいくつか存在する。
JリーグのトップJ1残留をかけた3試合が、去る11月24日、全国で行われた。
調布で行われた東京ダービーは、この1年を締めくくるには、あまりお粗末なゲームで
あったが、サポーターのパフォーマンスは、輪を掛けて見苦しいものだった。企業を
母体に生まれJ1の2年目を迎えたその東京ホームチームのサポーターからは、神奈川
からフランチャイズを移した対戦相手に対して、神奈川へ帰れといわんばかりの聞き苦
しく、思いやりのない声が浴びせられた。欧州のスタジアムでは、発煙筒がたかれ、
荒れるサポーターが多いため、女性は一般的に危険で近寄ることも少ないという。
一方、日本の試合は、来日したFIFA幹部から、サポーターのマナーがつくりだす雰
囲気と環境が素晴らしいと、絶賛されたことがある。日本のサポーティングは、世界を
真似る必要などない。しかし、このゲームでサポーターは、声を限りに相手チームを
揶揄し、罵倒し、嘲笑した。完全なイングランドスタイルのマネである。
一方、救いもある。20世紀も終わろうとしていた昨年の11月26日、国立競技場では、
Jリーグ第2ステージを締めくくるゲームが行われた。その年最高峰の試合を見せた柏と
鹿島というチームがあり、そして、サポーターも、先の東京ダービーとは比べものにな
らない感動的パフォーマンスを見せた。
それは、試合後、優勝した鹿島イレブンが柏サポーターのもとへ向かった時に起こった。
鹿島の選手は礼を尽くすために柏サポーター席へ向かったのだろう。海外では考えられ
ない敵側への挨拶であった。黄に染まった柏サイドは落胆の色濃く、泣いている者すらいた。
まかり間違えば、フィールドになだれ込むかもしれない一触即発の空気が漂う中、警備員
が鹿島の選手を守るべく柏のゴール裏を固めた時、それは起きた。うつむき、唇をかむ
柏サポーターたちが、一人、二人と立ち上がる。そして、誰からともなく、深々と頭を
たれた鹿島の選手に対して、彼らは、なんとスタンディングで、万雷の拍手を送ったのだ。
鳴りやむことのない大きな拍手。その温かい響きは今でも忘れることができない。
ところが、拍手が起こったことすら信じられないでいる我々をさらに驚かせる声が、
逆のサイド、鹿島側のスタンドから起こった。真っ赤に染まった鹿島サポーターから、
それは、スタジアムを覆い尽くし揺るがすほどの大きなエールだった。
「カシーワ、レイソル! カシーワ、レイソル! カシーワ、レイソル!」
夕暮れの中で、対立する赤と黄が、このとき融合した。
私たちは決して忘れてはならない。今、欧州や南米サッカーの技術は、確かに日本より
高い。しかし、柏と鹿島のサポーターの姿は、すでに世界のそれらを凌駕している。
機は熟している。サッカーにも、「モノまね文化」から脱却する時がやって来ている。
Jリーグチェアマン川淵三郎氏は、プロリーグ発足に当たり、『Jリーグ百年構想』
を提唱し、日本社会に根づくべきスポーツ文化のあり方を提起した。さまざまな社会
経済システムの変革が進む中にあっても、この構想は、欧州の日常生活の中に息づく
スポーツ文化と日本のそれを比べ、日本が持つべき明確な目的を示したもので、時間
軸も示されている点で、日本社会が生んだ日本人の手による政策として、画期的であ
ると評価できる。
サッカーに限らず、目標と現実には、多かれ少なかれギャップが存在し、これを
克服することで社会は進歩し、次の世代に引き継がれることで さらなる改善が進み
目的が達成されていく。そこに必要なものは、会社や組織の存続自体を目的化して
しまう戦士ではなく、むしろ歴史観を持ち、最終の目的を知って仕事をできる人間の
存在だ。
目先の利益だけを達成するためだけに設定される目標は、その世代だけで消費さ
れてしまうが、目的意識は、いくつもの世代が綿々と受け継ぎ、「いつか実現」を
めざしつつ、進化していくべきものだろう。
自分の世代だけで終わる仕事などないことを、そろそろ日本人も知るべきだ。
何を目的に生きるのかを考える人間にこそ、進歩があるのと同様、企業、国、自治体
などの活動主体にも、歴史観に裏打ちされた目的意識が必要だ。そして、それを現実
に行うのは、組織体や法人格ではなく、一人ひとりの生身の人間である。
Jリーグ百年構想は、そうした組織人が、次々と生まれ、川淵氏の理想を引き継いで
いく中で実現する。Jリーグをはじめとするサッカー関係者の中にこうした人々が数多く
生まれ、日本のスポーツ文化を真に人間のものにしていく作業が続くことを心から願う。
12月8日、鹿島スタジアムで行われた今期Jリーグの総決算チャンピオンシップは、
延長前半の劇的なVゴールで鹿島が磐田を破り決着した。立て役者は、再三の危機
を凌いだゴールキーパーの好セーブであったが、MVPは、当然に、FKをたたき込ん
だ中盤の選手に贈られた。インタビューが行われた。
「点が入って良かったです。」彼は、そう言った。
何がこのゲームの障害であって、どのようにそれを克服し、最後の場面では何を考え
たのか。日本人インタビュアーにしては珍しく執拗に問いを投げかけ、マイクを向ける
NHKアナウンサー。問いかけの質も、これまでにない高いモノだったと思う。
(選手だけでなく、コーチングや一部のジャーナリズムやサポーターの態度は進化している)
「点が入って良かったです。」まるで、彼はそれ以外に言葉を知らないようだった。
「点が入って良かった」というのは、何も語らないのに等しい。しかし、何を尋ね
られても、無表情なその選手の口からは、これ以上のコメントは出てこなかった。
日本代表監督のトゥルシェ氏は、代表選手に必要なことは、人間としての成熟であ
ると語った。よく引き合いに出される「赤信号で渡らない精神性」の問題は、末節な
遵法論争でなく、自らの頭で考えて行動、主張しない傾向の日本人に突きつけられた、
フランス人からの警鐘であったと私は考える。前出の選手は、Jリーグでの実績にもか
かわらず、日本代表に呼ばれることがなくなった。
セリエAで成功している、ある日本代表の常連選手については、引きこもりの傾向を
見て取ることができる。スポーツ紙の取材姿勢がプライバシー侵害的、記事に虚構が
多いなどの理由から、その選手は、公開の場で自らの言葉を話すことがなくなった。
彼は、部屋にこもり、インターネット上で話すらしい。
確かに日本のスポーツ報道には、観客を辟易とさせる質の悪いインタビューや悪意に
満ちているとしか思われない記事の類いも少なくない。しかし、日本のスポーツ環境を
甘受して世界へ飛び立ったにもかかわらず、改善を働きかけないこの選手の姿勢には、
次のような日本社会の問題を投影することができる。それは、自分さえ無欠であれば
社会悪は自分とは無関係であるかのように行動する日本人特有の社会的『引きこもり』
の傾向である。この『引きこもり』的報道対応は、この選手がサッカー選手としての
実績を挙げているが故に、在来の日本選手にも少なからず影響を与えているようだ。
先の鹿島のMVP選手がインタビューに答えられない姿がその象徴である。
言葉を持たない選手の増加が懸念されてならない。
街頭インタビューなどに見受けられる日本人の受け答えは、人の口を借りたような
言葉のようなことが多い。自分の頭で考えているのか、自分が話している言葉は、
自分のものなのか、私たちは、今一度、考え直してみる必要がある。それは、学校
教育や家庭教育を見直すことにつながるのかもしれない。
サッカーは、まさに時代を映す鏡の役割を担ってそこに存在している。 END