患者としての生き方


このテーマにこうだと言い切れる答えはありません。でも時には勇気を頂ける生き方に出会います。

御挨拶でも申し上げましたように、ALS患者は時がくれば‘生’と‘死’を選択しなければなりません。
生き続ける勇気と死を受け入れる勇気。
これは年齢や環境や性格、人生に対する価値感で違ってくると思います。
従ってどちらが正しいと言う事ではありません。

しかしながら、私共のホームページでは生き続ける勇気に焦点を合せました。

今回私は、日本ALS協会千葉支部、副支部長の照川貞喜さんの手記「自己紹介」に出会い、大きな勇気を戴きました。
病気と正面から向き合い、それを当り前のこととして受け入れ、健常者でも困難なことをやり遂げてしまう。
そんな生き方にどなたでも感銘をお受けになると、信じてやみません。
[記:舩後]

以下、記:照川 貞喜氏

自己紹介


1 私は、千葉県勝浦市に在住する、照川貞喜(てるかわさだよし)と言います。
昭和15年7月生まれで、平成12年の誕生日で還暦を迎えました。
還暦は子供にかえると言いますから、今年で2歳です。
古い人間と思うか、まだまだ若い?と思うかの判断は皆さんにお任せしますが、今の私の顔や額には皺(しわ)がありません。
ですから、若いころは「歳を取っても皺皺の爺さんにはなりたくはない」と思いましたが、本当にそうなると、今度は歳相応に皺のある人が羨ましくなるのだから贅沢な話しです。


2 家族は、89歳の母と女房と私の3人です。
子供は、2男1女がいますが、それぞれ独立しています。


3 私は地方公務員として、主に千葉県の太平洋沿岸の地域で独身時代を含めて家族と共にヤドカリ生活18年を経て、自宅からの勤務が可能になりました。
勤続30年を迎えて、「これからは、老後のことも考えなけば」と心を新たにしているときに、ALSという病の発症で平成6年11月に職場をリタイヤしました。


4 病歴は、平成元年12月に物置を改築したので空の冷蔵庫を運んでいたときに腰砕けになり、以後、手足の脱力が始まりました。
平成3年5月14日から6月6日まで大学の付属病院に検査入院し、女房が家庭の医学書で私の症状に良く似たものを見つけて[このような過酷な病気にだけはなって欲しくない]と思いながら、医師に聞いたらドンピシャリのALSで、更に[照川さんは、進行が早いので後(あと)半年か1年で呼吸困難になります]と大胆な予測をされて驚いたと、後で述懐していましたが、本当にそのようになって「あの医師は予言者ではないか」と思いましたが、予言者は病を治すことが出来ませんでした。
同年の12月30日呼吸困難により救急車で搬送されて、鴨川市の亀田総合病院に入院し、一時小康状態になったものの再度呼吸困難になり平成4年4月3日気管切開及び呼吸器をつけました。
そして、声を失い同時進行していた病のために手足が動かなくなりましたが、同年9月28日在宅療養のため退院しました。
平成8年3月に食べ物もお茶さえも喉を通らなくなり[いろうの手術]をし、現在に至っています。


5 私のモットーは、[病とみちづれ][体は不自由でも、心は自由]です。
これは、私が呼吸器をつけて「これからどのような精神的なバックボーンを持って生活をして行こうか」と思っていたときに、娘のアドバイスやテレビを見ていて考えついた言葉です。


6 普段は、もっぱらテレビ人間を決め込んでいますが、そのお陰で平成10年9月に囲碁の五段を取得しました。
勿論、日本一弱い五段ですが、無段から一気に取得したものです。


7 その他には、障害者の意思伝達装置[伝の心]を用いての手紙や思いつくままに文章を書いています。
更に、[伝の心]開発担当者と知り合う機会を得まして、平成11年の11月からモニターとして[伝の心]にEメールをテストケースとして組み込んでもらいましたので、ALS仲間やいろいろな人たちとメールの交換をしています。


8 はじめは10万人に3−4人しかならない宝くじのようなALSに何で私がと、自分の不運を嘆き病を恨みましたが、治らない病なら10万人に3−4人の貴重な体験者ではないかと思ったら気が楽になるし、自分の存在が大きく思えました。


9 ただ、根が単純な私は、泣いて暮らすのも一生、笑って暮らすのも一生! それならば笑って暮らした方が楽しいや、と思って暮らしています。
すると、全く動けない私のところにもいろいろな人たちが来てくれます。
ありがたいことと感謝!感謝!です。

平成14年2月1日 照川記

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