難病専門医研修会(於:愛媛県西条市、愛媛県庁健康増進課、愛媛県難病連絡協議会主催)
 での講演レポート 【告知と
QOL(Quality Of Life)


9月8日愛媛県庁健康増進課、愛媛県難病医療連絡協議会各位主催による、難病専門研修会の一環としての、講演会に僅か15分間だけの講師として参加してまいりました。
当日の様子については、是非 What's new!>Day Book の記事をお読み下さい。

ここでは、その折に意思伝達装置「伝の心」によって読上げました原稿と、ご聴講頂いた後に頂戴致しました、ご感想メールを掲載させて頂きます。宜しくお願いします。
(記:舩後)
−−−
@原稿。

このレポートは、意志伝達装置、伝の心によって読み上げます。
電子音声のため、お聞きぐるしい部分がありますこと、お許し下さい。<最大16分です。>

会場の皆さん、こんにちは。私はALS患者のふなごと申します。

本日は、貴重な講演会の中で、私の主治医、今井先生の講演の、ささやかなお手伝いとして、お時間を頂けることとなり、ありがとうございます。
そして頂いたテーマは「告知」です。
そこでまず、私が約2年前にある病院で告知を受けたことについて書きましたレポートより、抜粋致しましたものを第一部として、ご紹介させて頂きます。
そして次に時も過ぎ現在、今井先生のお引き合わせにより、告知を受けたばかりの新しい患者さんにお会いする時に使用していますレポートを、第二部としてご紹介させて頂きたく思います。
それでは宜しくお願いします。


第一部:告知を受け。

2000年8月27日
舩後 靖彦(ふなご やすひこ)

「絶望的な」そんな形容詞を使う場面に、人は長い人生の中で幾度か出会うものですが、「絶望」そのものに出会うことは、まれなものです。

 運命の2000年5月に、私は生まれて初めて本当の「絶望」に直面しました。ALSの告知です。
その時私は、病院の11階にある病室のベッドに正座をしながら、告知を受けていました。
先生の話を聞きながら見た窓越しの景色はまるで現実味がなく、輪郭の曖昧な出来損ないの絵のようでした。
「平均3年から4年で…絶命」、「四肢麻痺…」、「呼吸が停止…」、3人の担当医を前にし、表面上は平静を装いながらも、「いやだ!そんなことあるはずがない!」私は心の中で絶叫し、どんどん絶望の淵に追いやられていきました。

あの時、気の弱い私が精神錯乱を起こさなかったのが不思議なほどです。
死刑宣告とも言える告知が終った後、担当医の内のお一人で、この4月研修医になったばかりという若い先生が、告知を受けた私を気遣いそっと様子を見に来て下さいました。

そしてこうお話になりました「東病院にいらしてみて下さい。いろんな生き様があります…。どうか結論を急がないで下さい。」

そうです、其のときの私の心のうちには「絶望」すなわち死を望む気持ちしかありませんでした。
ベッドの上で考えることは『楽に死にたい』そんなことばかりでした。
そのことに彼は気がついていたのでした。
しかし、退院後も私は「絶望」に苛まれ、そしてのたうちまわりました。

この時点での病状の進行は返す返すも残念ですが、顕著なものがありました。
「絶望」という目に見えないものは、確実に私の病気の進行を早めたのです。

通院先の外来日、私は主治医の先生に千葉東病院への紹介状をお願いしました。
そして、「このままではいけない。この先の生き方を考えなくては…。」とすがる気持ちで千葉東病院へと向かったのでした。



☆皆さん、ここまでが2年前に書きましたレポートです。


第二部:その後私は。

ここよりは、2年後の現在、私と同じALS患者さんに向け、書いたものです。

題名:新しい患者さんへ。
2002年8月

1.はじめに。
患者さん,そしてご家族のかた、私はALS患者の舩後と申します。
冒頭でいきなりですが,私には患者として生きる為の目標があり、そしてそれに意義を見出しています。
今井先生よりご提案頂きました。それは、ALS国際会議への参加です。
資金繰りの事もあり、実現するかどうかは判りません。でもそこには、明らかに目標とする意義があります。
ここでは、それをご説明する為、告知について触れたいと思います。
2.初期告知。
振り返ってみると、最初の病院で告知を受けた直後の私は、「絶望」に支配され死を望む気持ちしかありませんでした。
ベッドの上で目をつむり考えることは『寝たきりになって生きる意味がない』、『楽に死にたい』そんなことばかりでした。
今の皆さんも、そういう気持ちを心の何所かに抱いていませんでしょうか。あるいは、私の姿を見て「こんなふうには、私は絶対ならない!」そう思って現実から目をそむけてはいませんでしょうか。
でも残念ながら私の姿は、未来の皆さんの現実です。

話を戻しますが、やがてその当時の私は『この先誰と会っても意味がない』という感情に支配され、一時社会とのつながりを殆ど断ちました。
3.真の告知。
そして、引きこもりの人生を送りながらも、診療先を千葉東病院と変え、長い時間はかかりましたが、今井先生の指導の元この私が、徐々に変化をきたしました。
そしてつい最近になり、先生の引き合わせによって、多くの新しい患者さんに接し判った事があります。
それは、例外なくここ東病院に来る前の、他の病院での告知を受けた直後の患者さんは、前述した、以前の私のような絶望の感情に囚われているということです。

あるいは、現実逃避の感情に支配されているのです。
ではなぜ、それらの感情に犯されたまま東病院へと来たのでしょう。
つまり私同様の思い込みをしたままだったのでしょう。

それは病院よって告知という行為の対応に、差がある事に要因があります。

とはいっても私の場合、最初に告知を受けた病院の対応が、不誠実であったわけではありません。

例えば助手のドクターなど、告知の後私の枕元に来て、東病院の専門性について詳しく教えて下さいました。
今も本当に感謝しています。

実はその差は、最初の病院での告知は、文字でたとえるなら「告知」の一文字目の「告」まで、すなわち病名・病状について告げるだけの診療である事に起因します。
つまり「告」だけでは、患者が現実を直視出来ない感情になった場合、

例えば「ALSは発病後、じょじょに筋肉が萎え、全身が麻痺して、平均3年ぐらい後に呼吸が出来なくなる病気です」。ぐらいから病気の知識は発展せず、一人絶望の渦に飲み込まれて行くだけなのです。
私の場合がそうでした。

大切なのは、同じく文字にたとえるなら、「告知」の二文字目、「知」の部分にあって、患者が自分の病気について正確に知る事、その為には医師が充分に患者に知らしめる事、それこそが「知」の後に行われるメンタルケアをとうして、患者が病気に正面から対峙する、基盤作りに通じて行くのです。
だからこの部分こそ要であり、その後の患者の動向を大きく左右する部分です。

すなわちこの対応の差こそ、病院間の差なのです。

この話、実は今井ドクターが医学生を指導している時の話しを盗み聞いたものです。すみません。

でも皆さん私はこれを、患者として実際に経験しているのです。
だからこそ、それを申し上げるのです。
4.変化。
病気と正面から対峙すること。
其れは並大抵のことではありません。たった一度の告知で、どこをどれほど理解できるのでしょう。

ところで、ここでお恥ずかしいのですが、私が基本的にはいかに平凡、いやむしろ弱い人間であるかをご紹介すると同時に、告知の知を経て病気を理解し、今なぜ生き甲斐を模索し行動をおこそうとすることが出来るようになったかを、一番身近な証言者としての、妻のメールより抜粋してご紹介します。

妻のメールその1、私宛。
[しかしパパも成長したねえ。告知を受けたばかりの頃なんて、「誰にも知られたくない
」「弱みを見せたくない」「そっとしておいてくれ」って感じで、ピリピリしてたよね。
だけど東病院に受診に行く度に先生に尻を叩かれて、あまッチョロイ考えを叩きのめされ
て、ちょっとづつ前を向いて進めるようになった。ほんとに手のかかるやつだ!だけど、
世の中そんなに強い人間ばかりじゃないよね。ALSなんていう、訳のわからない病気を
すぐに受け入れられる、強い心の人なんているわけないもの。だからパパが作った新患さ
んへのメッセージも、もしかしたら告知を受けてまもない患者さんや家族には、かえって
惨いものかもしれないね。だって、現実なんて見たくないだろうし、他人の励ましなんて
聞く余裕なんてないと思う。だけど現実にパパは、強くなってきてるんだし、成長した。
いろんな時期を経て。]


妻のメールその2、ALS協会千葉県支部会員様宛。
[はっきり言って今井ドクターは、厳しいかたです。学校の先生だったら絶対担任になっ
てほしくないな。初めて検査入院した時に、病棟の壁に患者さんと笑顔で写っている、今
井ドクターの写真が貼ってあるのを見た時、わたくしは、主人に、「ねえねえ、廊下の写
真見たあ?今井先生が笑ってる写真が、貼ってあるよっ!、笑うんだね今井先生も、いつ
も、に、が、虫、噛み潰したような顔しているのにねえ!。」と、思わず言ってしまいま
した。スイマセン。最初の病院からの紹介で、初めて東病院に受診に行った時には、今井
先生が何か質問する度に、主人の広いおでこから、タラーリタラリと緊張の脂汗が流れ出
ていたほどです。また、宿題も多い。「次に来るときまでに考えておくように。」「これ
宿題。次までにまとめてくるように。」というように、次々と。それも本人が出来る範囲
の、上限レベルの課題を出されます。もし、わたくしがALS患者の家族でなく、傍観者
であったなら、病気の告知を受け、悲しみと絶望に打ちひしがれている患者さんを「わー
っ、キビシー先生!患者さんがかわいそお。」って思ったかもしれません。しかし、ふと
気付くと、そのご指導によって主人がびっくりするくらい精神的に強くなってきた。そし
て、病気に正面から向かっていく勇気が持てるようになった。そして一番強く感じるのは
、生きていく為の目標や自分が出来る社会参加の方法を探し出そうとする力がついたこと
。だから、どん底の精神状態から強引に引きずりだして下さった今井ドクターには、すご
く感謝しています。(最近は、たまに笑うしね!)。]
5.意義。
今でも私は、平凡で弱い人間である事には変わりはありませんが、妻がメールで述べた様に、今井先生のメンタルケアにより、告知の知を踏まえ、ある程度の行動は不充分ながらもとれるようになりました。
だからこそ、国際会議に出席するという行動に出ようとする事は、資金さえ調達可能であれば、患者であろうと実現出来る事として、認識してもらえます。
そしてそれが、かつての私がそうであった様に、告知の告を受けたばかりで、今絶望の淵にある患者さんが、この先告知の知を踏まえて、何か行動をおこして頂けるヒントになるのではないかと考えるからです。

そしてそのことに、意義を感じるからです。これが国際会議に出席することを目標にし、それに意義を見出した理由です。
6.おわりに。
以上で終わりますが、最後にだそくながら申し上げます。

私はもし、東病院の門を叩かなかったら、もう社会の片隅でくち果てていたかもしれません。
でも皆さんは違います。
ここまでの人生を果敢に戦い抜いてきた方々のはずです。
その皆さんだからこそ、東病院のノウハウを、存分に生かし切れるはずです。間違い無く!どうぞこの先、ご自分を信じて色んなことに挑戦してみて下さい。お願いします。

と、ここまでがレポートです。

ところで、会場の皆さん、お気付きと思いますが、この一部と二部の間には約2年という時間の経過があります。
繰り返しになりますが、私が病気を理解するのにはこの2年がかかったのです。

言い換えれば、この期間こそ私にたいして費やされた告知の必要時間なのです。
そうして今私は生き甲斐としての、目標を見出すことができました。

最後に患者の立場で申し上げます。

告知とは一度きりの点ではありません。
長く継続され、線となり、その終着にある、患者の病気に対する理解をみてこそ、告知は完成されたと言えると思います。
そして、私が告知を受ける期間にあたりましては、担当看護師さんから常に心理支援を頂いたことと、ヘルパーさんの応援があったことも、同時に申し上げたく思います。
それでは、今日お時間を頂けたことにふかく感謝し、終りと致します。ありがとうございました。




ご感想

A.医学生さん。

今年度、社会医学実習の授業テーマとして「愛媛県における神経難病の在宅医療の問題点」を選び、5月からALSの患者さんを中心に、医療スタッフの話を聞いたり様々な会合に参加したりしています。
最終的にはアンケート調査などを含めたプレゼンテーションを行う予定です。

今回の研修会では、船後さんの「告知」の話を伺えてとても参考になりました。
愛媛では在宅医療が遅れているといわれており、患者会も存在していません。
「告知が完了するまで2年かかったが、すこしづづ自分自身も変わっていくことができた。」とのお話や、11月の国際会議出席の件を聞き、愛媛ではもしかしたら本当の意味で「告知」をされている患者さんがいないのではないのだろうか?と思いました。

私も医学部に在籍しながら、ALSの事を詳しく知ったのは今回の実習を通してです。
患者さんの視点に立つことの大切さと難しさを学ぶことができています。
今後もALSを初めとする難病患者さんとのかかわりの中で、将来医師として身につけておかなければならない大切なもの、単なる知識ではない「姿勢」を学ばせて頂きたいと思っています。

B.保健婦さん。

昨日、西条の講演会場でお会いしました、保健婦です。

一度に沢山の方に会われたので、私の顔は覚えておいででないと思いますが、幸い一緒に
写真をとらせていただいたので、それをご覧の上、今井先生に「この人、この人」と教え
てもらってください。←先生が忘れてたらどうしよ(笑)

まだ、松山にいらっしゃる時間帯か、移動中かもしれない…と思いつつ、昨日の感動がさ
めない内にメールを作っておこうと、打っています。

船後さんとの出会いは、1年ぶりのカルチャーショックでした(笑) 実は、愛媛県は難病後
進県でして、難病対策に取り組み始めたのがなんと平成10年ですので、愛媛の難病はまだ
4歳です(笑)。

私は保健婦になって既に14年(キャー年がバレる)になりますが、難病を担当したのは昨年
が初めてでした。…で、医療の及ばぬ難病に、保健婦がどー関わればいいのか私自身検討
もつかないままに、昨年10月東京で開かれた研修会に参加、その見学実習で訪れた千葉東
病院で今井先生と運命の(笑)出会いをした訳です。

先生のお話、病棟の理念等聞けば聞く程、カルチャーショックでした。…で、昨日の船後
さんとの出会いが1年ぶりのカルチャーショック…という訳です。

昨年は今井先生との出会いの後、私なりに頑張って、私のいた保健所管内で、ALS在宅支
援のネットワーク作りをしたつもりです。残念ながら、今年の4月に私は転勤で別の保健
所に移りましたが、昨日の発表で私が植えた苗が根付いていることを確認できました。

今、私のいる保健所管内の難病対策はまだまだです。私もなかなか手付かずのままになっ
てましたが、船後さんの勇気を勝手に少し拝借し(笑)また、頑張ってみよう!という気に
なっています。

すみません。言いたいことをツラツラと書いてると、こんなに長いメールになってしまい
ました。読むだけで疲れさせたかもしれません。また、時々、コミュニケーションさせて
いただいて、船後さんの力を分けてくださいネ…お願いします(^o^)。 (P.S) HP見ました
!!


(全記:舩後)