"Topic of the Day"

【支援の声】
さて今回は、私の国際会議参加支援カンパ活動をして頂いてます方の元に届きました、応援メッセージを二通ご紹介します。

支援活動用に私が書いた、カンパお願いメールにご返答頂いたものです。勿論、私とは一面識も無い方々ですが、応援の声をお寄せ頂けた背景に、感慨深いものがあると同時に、素直な人間らしさに触れることが出来、深い感銘を憶えました。
是非お読み下さい。

それでは、ここに感謝の気持ちをもって、掲載させて頂きます。(記:舩後)


千葉市A様

「舩後さんのお話は、奥様から家内が伺っておりまして、私も概要を存じておりました。

しかしながら、実際に舩後さんご自身が記した文章を読みますと、改めてシリアスな状況がひしひしと感じられてなりません。

ご存知のように私の末娘も大病を患い、その治療に際して医師からインフォームド・コンセントを迫られた訳です。
脳外科の手術ですから、手術自体が危険であることは当然ですが、治療行為に伴って神経系に損傷を与える虞があること、治療に伴う後遺症が確実に予測されること等等、非常に丁寧にお話をして頂きました。
勿論、当時2歳の娘がそれに同意できるわけはなく、我々に判断が委ねられたわけです。
家内や私の両親などは、重い障害を背負って生きてゆくかもしれない娘の将来を不憫に思い、本当に治療を受けさせることが良いのか逡巡したように見受けられました。
私は、どのような形でも生きること自体に価値があり、与えられた条件下で最大限の人生をまっとうする過程で娘自身も生きがいを見出してくれることを信じ、何のためらいもなく医師に全てを委ねることを即断いたしました。
お蔭様で、神様のご加護を頂いた娘はすっかり元気になり、多少の後遺症を持ちながらも本当に人生をエンジョイしているのだと思います。
また、我々も本当に幸せな家庭生活を営めていることに感謝しております。

ひるがえって、私が舩後さんと同じような病に冒された時、明快な判断ができるとは思えません。
自分自身の勇気のなさ、家族に与える負担、与えられた運命に対する諦め、その他いろいろな事柄が思い浮かびます。
多分、「生き続ける」選択はできそうもありません。
娘には生き続けることを求め、自分自身は生き続けることを拒むという身勝手さに恥ずかしい思いがいたします。

舩後さんの意思と勇気は、非常に崇高なものと思います。
家内とも、何かの形でお力を添えられれば、と話していた次第です。」


千葉市B様

「舩後さんのメールにスゴイ感動を覚えました、奥さんも素晴らしい方ですね、私の友人の友人のご主人が、たまたま社宅で一緒だった方ですが、同じ病気で亡くなられました。
奥さんが、家庭教師をして生計を立てながら、ずっと家で看護され、やはり3年か4年で亡くなられました。
最初、会社では理解されなくて、さぼっていると思われ、辛い思いをされていましたが、病気が分かったのです。

それからだんだんに体の自由が利かなくなり、会社の人が送り迎えをしたりして協力しておられましたが、やがて寝たきり、そして、夜中も奥さんが何度も体位の交換をしたり、本当によくなさいました。
私は、時々友人から情報を聴くだけで、何もできませんでしたが、今となっては後悔しています。

千葉では、交響楽団の世話をされていた方でしたので、追悼のコンサートがあったことを新聞で知りました。
素晴らしい方だったのです。

舩後さんのことは、そういう私の後悔からも、出来るだけのお手伝いをしたいと思います。
でも実際に何もできないかもしれませんが、私なりにチラシを持って協力者を見つけたいと思います。よろしくお伝え下さい。」


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