第1回 「ガンスリンガー・ガール」 〜男たちの「罪と罰」〜
| ども、佐倉めいるです。 当「電脳鯨館」が「夫婦共同のPBMサイト」から「ダンナがメインのドール系サイト」へとリニューアルして以来、何か、こっちの方に書くのもずいぶん久しぶりなのですが、内容からしてやはり「葛葉庵」よりはこっちで扱う方が適当だろうなあと思い、ちょいとスペースを間借りさせていただきました。 えー、まず最初にばらしてしまいますが、りなもさんの「萌え萌えアニメ日記」において取り上げられた、りなもさんに「容赦のないメール」を送った「Sさん」というのは、実は私佐倉のことでございます(苦笑)。別に個人攻撃するつもりではなかったんだけれども、さすがに「ジョゼを筆頭に公社の大人たちを皆殺し」という発言はちょっとあんまりだと思い、また自分自身、萌えアニメをとりまく状況についても色々と思うところあったのでメールの形で送ったのがアレ、というわけで。 で、本題に入る前に、「賢者の楽園」の掲示板「楽園通信」で、同じ常連のたかきさんが興味深い書き込みをして下さったので、ご本人の許可をとってここに転載。 ------------------------------------------ 私的ガンスリ考 ちょっと読みにいってみて思ったことがあるので書いてみたり。別のBBSの話題をこっちで展開するのはマナー違反かなとも思うけど、むこうでは見ず知らずの一見ものがこういうのをいきなり書き込むのもアレなので(^^;ご容赦。 スレッドの流れとしては「少女+銃器(その他作者の偏向した趣味性や世界観)を見せたいがために作ってる」とか「タブーをくすぐることで話題性を盛り上げようとしている」とかってのが鼻につくかどうかってあたりが評価の分かれ目のように読めたんだけど。でも、私はこの話の見るべきところはそういうとこじゃないと思うんだけどなぁ(^^;。 (ちなみに私はどっちも全然おっけーだと思ってます。作者や製作側にそういう意図があるのは私もわかってるし、そこで引っ掛かっちゃうと本作を評価できないのも気持ちとしてはわかるけど。それ「だけ」の作品じゃなければ無問題。) 私がこの話を面白い(もしくはそうなる可能性が有る)と思うのは、本質的に一種の悲恋ものだから。せつない話、やるせない話が好きな人間としてはどうしても期待してしまうわけです。 フラテッロの二人は物語の構造上、決して安易なハッピーエンドになることはありません。それは「大人と子供だから」とか「機械の体だから」とかそういうことじゃなくて(いやもちろんそれもあるけど(^^;)、二人、主として大人側にどうしても拭い去れない負い目があるから。「条件付けという洗脳をして自分を慕わせて自分と組織の道具として使っている」という事実が消せない以上、ヘンリエッタのようにもしかしたら本当にジョゼのことが好きなのかもしれないとしても、そしてもしジョゼがそのことを判ったとしても、決してその思いに応えることは出来ないわけです。 そういう意味ではむしろジャンのリコに対する態度の方が正しいのかもしれません。(薬の不可抗力とはいえ)慕ってくる相手に応えることが出来ないのなら、最初からそういう風に相手をしたほうが親切です。もっとも薬でそうさせてるのもジャンの方なわけで、それもまた矛盾なのですが。 この「私は彼が好きだが、そう思わせられているだけなのかもしれない」「彼女を助け力になってやりたいが、単なる自己満足の贖罪に過ぎないのかもしれない」というフラテッロの二人の関係は、5人の義体についていろいろ形を変えながら描かれてゆきます。そしてこの関係を清算しようと思ったら、エルザ・ラウーロ組の(もしくはクラエスに対するラバロの)ような方法しか無いわけです。 そういう意味で、アニメがもしとくさんの予測どおり1巻ラストのエピソードを後ろに持っていったんだとしたら、その辺の描写をうまくやってくれるのを期待してもいいかも?しれません。 そういう背景の話を淡々とした描写のなかでやってるのがこの作品の魅力だと私は思ってます。さらにいうと上述の「好きってなんだろう」とか「幸せってなんだろう」(たとえば殺された両親のそばで一晩乱暴され手足をもがれ自殺を望む少女を助けようとして、結果洗脳して改造して道具として使われるようにすることは、二人それぞれにとって幸せなのかどうか)とか、そういうある意味普遍的なことを表面上はおだやかにやっているから、と言ってもいいです。 こういう見方って…やっぱり少数派なのかなぁ(^^;。確かに見た目は「自分の思い通りになる女の子がガンガン銃を撃ちまくる話」だしなぁ(^^;。私だけの感想だとするとちょっと寂しいかも(^^;。 なんにしろ私にとって本作の心配な点は、上述のような描写が(あくまで目立たずに)ちゃんとできるか(無論まともな作画で(^^;)なんですよね。3話見てると不安だよなぁ(^^;。 ※補足・追加分 十分以上に長くなっちゃったんで書かなかったけど、あの話がせつない(カラーを出してる)のにはもうひとつ、義体の少女たちが薬の副作用で(時には組織側の思惑で)思い出を忘れていってしまう、って設定もあるんですよね。 しかも本人たちもそのことに気づいてるという。ああいうのもアニメでうまく出せるか不安ではあるんですが。 ----------------------------------------- 実を言うと、原作を読んだ時点での私やダンナの感想も、これとほぼ同じものだったんですね。 まさに「我が意を得たり!」というか。 もちろん「単に可愛い女の子が銃をバンバン撃ちまくる話」という見方もアリだと思うし、義体化や洗脳といった設定が、そういう荒唐無稽な世界観を作るために後付されたものであることも間違いではないんでしょうが、「人間としての感情や意志を剥奪された哀しい存在」としての少女たちと「彼女たちをそういう存在にしてしまったことに負い目を感じる男」というシチュエーションは、結果として「少女+銃器のアクション」と「どうにもならない悲恋」という二重の意味を持つことになってしまったわけです。 ただ、既存の恋愛漫画に比べて、登場人物たちの恋愛感情の描写(「私は彼が好きなのに、ああどうしよう!?」とか)があっさりしすぎているために、気づかない人は本当に気づかない。 昔の(ベタな)恋愛マンガなら、効果線だのオーバーアクションだの心のつぶやきだのといった手法で「彼女は彼を愛している」ことを分かりやすく表現しようとしますが、この作者はそうした手法を一切取りません。 殺戮のシーンも、自らの境遇に思い悩むシーンも、つかの間のほのぼのとした日常も、背景はあくまで写実的で、ごく当たり前のイタリアの風景の中で物語は淡々と流れてゆく。 その「淡白さ」ゆえに、読者の視点の置き方によっていかようにも解釈できてしまうところが、この作品の長所でもあり欠点でもある、一種の「味」となっているように思います。 「ガンスリ」という作品そのものに対する個人的な感想は以上の通りなんですが、ここで問題になっているのは、私やたかきさんのような比較的肯定的な見方と、りなもさんのように真っ向から否定的な見方との違いがどこからくるのかと言うことなんじゃないか、と思うんです。 で、その基準はというと、公社の大人たち(オタクが自己投影するであろう「男キャラ」)の少女に対する「罪」の重さと、それを「物語(フィクション)として」あるいは「人間(倫理観)として」どこまで許せるか、許せないとすればどんな報い(罰)を受けるのが適当か、というところにあるんじゃないかと。 で、りなもさんはその「罪状」の中に、直接的な「幼女虐待」だけでなく、その一方で少女たちに優しく振舞う大人たちの「偽善性」をも含めてしまっているため、「皆殺し」にしたいほど彼らを憎み、なおかつ思考の袋小路にはまってしまっているように見受けられるのです。 私のメールについて返答を頂いた後も、りなもさんはジョゼを「偽善者」と断言し、徹底的に嫌悪するという姿勢を崩そうとはしなかったのだけれど(「下すべき結論を先送りにしている」という意味で、確かに彼は「偽善者」と言えますが)、では、もし自分がジョゼと同じ立場に立たされた場合、果たしてどうしていただろうかと考えると、一方的にジョゼを責める資格は私たちにはないんじゃないか、と思えてくるんです。 命を助けるためとはいえ、不完全な機械の体を与え、洗脳によってつらい記憶を消し、暗殺者に仕立て上げようとする行為は、確かに「偽善」には違いありません。 しかし逆に、四肢を失い、目の前で両親を殺され、その両親の死体のそばで暴行され、ただ自殺を望むだけの「生ける屍」と化したヘンリエッタの姿を見ておきながら、「改造して人殺しをさせるのは偽善だから」といってそのまま見殺しにするのもまた「偽善」ということになりはしないでしょうか? ましてや、彼らもまた、少女たちと同様組織に縛られた「工作員」です。 仮に公社の裏の顔を知ってしまったとしても、それに異を唱えれば、自分が消されてしまいます。もし普通に辞表を出して円満退職しても、秘密を漏らさないように常に言動を監視され、プライバシーを奪われるのがオチです。 実際、2巻に登場するラバロは、良心の呵責に耐えかねてクラエスとの「偽りの関係」に決着をつけ、組織を裏切って事実をマスコミに公表しようとして、事故に見せかけて暗殺されてしまいます。 どちらの道を選んでも「偽善者」のそしりは免れない、いわゆる「究極の選択」をつきつけるという手法を「あざとい」と感じる人もいるでしょうし、その「あざとさ」が(タブーをくすぐる設定と同様)鼻に付くという向きもあるかもしれません。「理由はどうあれジョゼや公社のやってることは結局偽善じゃないか」と批判するのもまた、それはそれで個人の自由でしょう。 では「偽善じゃない方法」というのがもしあるとするなら、果たして自分はそれを示すことができるのか。 りなもさんに問いたいのは、そして私たち自身が自問すべきところは、まさにそこではないかと思うのです。 ただ個人的に思うのは、ここで先ほどの前提条件を無視して「公社なんかやめて医者とか慈善家になればいい」と言うのは、それこそ「パンがないならお菓子を食べればいいのに@マリー・アントワネット」と同レベルの安易な決着法ではないかと。 (いや、別に医者とか慈善家に宗旨替えしてもいいんですよ。それが文字通り「命がけ」であることをきちんと分かってて書いてるなら)。 個人的に「ガンスリ」は「心を奪われ組織に縛られた少女たちの物語」であると同時に「理由はどうあれ『偽善者になってしまった』大人たちが、偽善者であることをやめて、自分の罪と向き合い、その償いをする」、そして「そこに至るまでの過程を追う」物語と捕らえることも出来ると思うのです。 ラバロと同じ方法を採るのか、別の方法で償うのか、それとも最後まで「ぬるま湯の関係」を維持して偽善者のまま終わるのか、より鬼畜に「負の方向」へ暴走してしまうのか、今の時点では分かりませんが。 もっとも、話の設定が設定だけに、「子供が殺し合いをするのはイヤだ」「血を見るのがイヤだ」という生理的な部分で受け付けないのであれば、それは仕方ありません。 しかし、そうした部分を抜きにして、設定や背景、登場人物の心情といった「(広い意味での)物語世界」から目をそむけ、「○○たん(萌えキャラ)萌え〜。ハァハァ」とか「××(悪役)は許しがたい悪党だ。ブチ殺せ!」といった即物的な欲情や憎しみ「のみ」でその作品の価値を判断してしまうのは、「物語の作り手」に対してある意味失礼というか、すごくもったいないことをしているんじゃないかなあ、と思うのは私だけでしょうか。言うなれば、出された料理を半分以上残しちゃうような。実際食した結果が美味かったかまずかったかは、また別の問題として。 ちなみに、私は同じメールの中で > ちなみにこの「二人を邪魔する世界そのものが敵」という > 価値観を究極までつきつめたのが、高橋しんの「最終兵器 > 彼女」(特に原作)ではないかと) とも書きましたが、実は「最終兵器彼女」以上に「二人を邪魔する世界そのものが敵」という価値観が鮮烈に現れているのは、田中ユタカの「愛人」(ちなみに「あいじん」ではなく「あいれん」と読む)という作品だったりします。 この作品、実はアニメではなくコミックなのですが(メールの中ではあえて、アニメ化もされた「サイカノ」を挙げたのはそのため)、「ガンスリ」や「サイカノ」と共通する設定や物語構造を持つ一方で、昨今の「萌えアニメ」の持つ病理を「ガンスリ」以上に抱えており、私の中ではかなりトラウマになっているのです。 というところで、次回に続く。 (ただし、かなりきっつい内容になる予定なので、田中ユタカファンは読まない方が懸命……かも!?) |