ローマ帝国史略


第一章 蛮族

(1)蛮族とは何か
 蛮族とは、意味の分からない言葉を喋る者という意味のギリシア語のバルバロイ(ラテン語ではバルバルス)、からきている。当然のことながら、この表現には一種の差別意識が含まれている。ローマはギリシア文化の影響を強く受けており、ローマの蛮族観も元々はギリシアのものである。かつてはローマ人もギリシア人にとっては蛮族だった。
 しかし、ローマ人にとっての蛮族観は、ギリシアのそれとは完全に同一のものではない。ローマ帝国は広大な領土の複合多民族国家で、民族的違いによっての差別を行うことは、国益に反することだった。その代わりにローマ市民という、言語的な相違とは別の枠組みを作り、ローマ市民権を持つ者と持たない者という違いが存在した。ローマ帝国においては市民権を持たない属州民や奴隷も社会の一員と考えられていた。本来、ローマ帝国内においては蛮族は存在しなかった。蛮族とはこれらの中には含まれない存在である。
 ローマ人の考える蛮族は、ローマ人とは異なる言葉を話し、ローマ人とは違った習俗と生活を送っている。蛮族とはローマ人にとって全く相容れることの出来ない存在で、他者であり異人だった。彼らは帝国の国境の外に封じ込めておかなければならず、ローマ社会の一員として受け入れるべき存在ではなかった。テオドシウス1世時代のメディオラム*6の司教アンブロシウス*7は、蛮族は最下級の民族であり、帝国内異民族は半ば文明化した民族であるとした。アンブロシウスは、蛮族はキリスト教の共同体にもローマ帝国の共同体にも属さないものであると主張した。
 しかし、5世紀にはこのような蛮族が集団で国境を越えて西ローマ帝国内に定住し半独立国を建設することになる。これらの蛮族はローマ帝国を滅ぼそうとしていた訳ではない。彼らはローマ帝国の持つ富、肥沃な土地、あるいはローマの支配の元での平和を欲していたに過ぎない。
 この論文で主に取り上げるのは、西ゴート族とヴァンダル族である。この二つの部族は5世紀のローマ帝国における最も重要なゲルマン人部族である。末期ローマ帝国に深い関わりを持ち帝国内に、それぞれの方法で初めて蛮族の国家を建設することになるのである。

(2)5世紀以前のゲルマン人部族
 ゲルマン人は、5世紀になって初めてローマと関係を持ったわけではない。ゲルマン人は帝政以前にもローマと関係を持っていた。3世紀から4世紀にかけてからは、ゲルマン人はローマ領内への移動と侵入を繰り返していた。3世紀末には、このような侵略に抗しきれなくなったローマ帝国は属州ダキアを放棄して蛮族に委ねている。
 ローマ史において、初めてゲルマン人が恐るべき敵として現れたのはBC133年キンブリ・テウトニ族が国境を越えて侵入した時である。キンブリ・テウトニ族はBC105年アラウシオの闘いでローマ軍を全滅させ、ローマに衝撃を与えた。この時には当時コンスルだったマリウスによって撃退されている。これ以降、ゲルマン人はカエサル、アウグストゥス帝、ティベリウス帝の努力により国境の外に押し戻された。五賢帝時代のマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝はドナウ地方に8度遠征し、国境を保持した。
 3世紀にはいると多くの属州にゲルマン人が侵入する。プロブス帝の時代にはゲルマン人はガリアの町々を占拠し、略奪した。4世紀の半ばにはライン川沿いの町が略奪にあった。
 しかし、このころのローマはゲルマン人に対する軍事的優位を保持しており、時にゲルマン人の軍に敗北することはあっても、最終的には必ずゲルマン人は撃退されてきた。クラウディウス2世ゴティクスはゴート人を大量に殺害し、プロブス帝は32万人のゲルマン人を撃退し殺したと言われている。356年にアレマンニ族がガリアに侵入した時にはコンスタンティウス2世の命令を受けた、戦闘経験の全く無かったユリアヌス(のちの皇帝)は新兵1万3000名の部隊を指揮し、侵入者を撃退し、ガリアからゲルマン人を一掃した。
 しかし、部族単位で国境を越えた西ゴート族が378年ハドリアノポリスの戦いでヴァレンス帝を戦死させたことが状況を急激に変化させる。この時は後を継いだテオドシウス1世が同盟部族条約を結んで西ゴート族と和解したが、以降はゲルマン人が次々に国境を越える激動の時代になるのである。

(3)軍隊内のゲルマン人
 五賢帝時代以降のローマ帝国は慢性的な兵員の不足に陥っていた。それを補充するために、ローマ政府はゲルマン人を辺境地方に屯田させるようになる。3世紀以降の蛮族には正規のローマ軍として採用されるものも数多く存在した。これは別にゲルマン人だけに限ったことではない。スキタイ人などもローマ軍に編入され、時には重要な地位にもついた。
 辺境のローマ軍は、現地の異民族で構成されることが多く、ローマ政府から世襲的な土地分配を受けており、それから十分な利益を得ていた。3世紀以降の蛮族はこれと類似の状態にあったと考えられる。
 「資料T」*8はガロ・ロマン人の修辞学者がコンスタンティウス1世に対して行った演説の一部である。ガリアのほとんど各地には、ラエティと呼ばれるゲルマン人集団が農地を割り当てられて定住していた。フランク族はランスにスウェヴィ族はオーベルニュやベイユに、その他の部族も各地に定住していた。これらのラエティは時に危険な行動にでることも多かった。ラエティの一団がローマ帝国の混乱に乗じてリヨン市を占領しようとしたこともある。このような問題は、その後西ゴート族やブルグント族が定住すると、より深刻なものとなるのである。
 これらのローマ軍に従軍したゲルマン人は、同盟部族条約を結んで従軍したものもあれば、敗戦、降伏の結果やむなくローマ軍に編入されたものもある。いずれにせよ、ゲルマン人はローマ帝国を防衛するのに重大な役割を持っていた。4世紀以降のローマ帝国は、いわばゲルマン人によって守られていたのである。

(4)蛮族に対する蔑視
 ローマ社会において、4世紀以降のゲルマン人は帝国内での重要な地位を占めていた。にもかかわらず、ローマ人はゲルマン人を蔑視していた。
 ゲルマン人の中には高位高官につく者も現れる。コンスタンティウス2世の元でシルヴァヌスが。グラティアヌス帝の元においてはメロバデウス、リコメル、バウト等はコンスルにまで就任している。ヴァレンティニアヌス2世の元ではアルボガスト*9が最高司令官になっている。
 このようにゲルマン人はローマ帝国の中で重要な地位につきゲルマン人はローマ帝国に欠かすことの出来ない存在になっていた。しかし、それによっても、ゲルマン人に対する差別意識はなくなることはなかった。スティリコを巡る一連の事件がそれを示している。
 ヴァンダル族出身のスティリコはテオドシウス1世の皇女セレナと結婚し、次の皇帝であるホノリウス帝には自分の娘マリアを嫁がせ、パトリキウスとして西ローマ帝国の実権を握っていた。西ゴート族との戦争やアフリカの反乱鎮圧に大きな功績があり、当時の首都ラヴェンナには記念碑が建てられた程である。しかし、スティリコは西ゴート族との内通を疑われ、ホノリウス帝の信頼を失い、粛清されてしまう。これだけならば、どの時代にでもある宮廷内の一つの事件に過ぎないが、この事件はそれだけではなかった。スティリコの失脚を契機にローマ人の兵士がゲルマン人部族兵の家族を虐殺したのである。それに反発したゲルマン人兵士は集団で西ゴート族に寝返った。それを利用した西ゴート族にローマ市は一時占領されもする。
 この一連の事件は、ローマ人にとってゲルマン人は蛮族であり、ローマ帝国の社会の中には受け入れることの出来ない存在であったことを、改めて示している。以後、西ローマ帝国においてゲルマン人が高い地位につくことはなくなるのである。
 このように、ローマ人はゲルマン人に対し拭いさることが出来ない差別意識を持っていた。それは、ローマ化していない、部族単位でローマ帝国に侵入したゲルマン人に対しては一層強かった。ゲルマン人達は髪にバターを塗っていたが、その悪臭はよりローマ人の偏見を助長させた。西ローマ帝国の歴史家アンミアヌスは、蛮族に襲われた地域について「鞭もて引き立てられる女たちは、恐怖のためにぼう然とし、なすすべを知らなかった。中には身ごもった者もいた。胎内の子供は、生まれ出ずる前に、多くの恐怖を体験しているのだ。」*10と語っている。
 ゲルマン人はたとえ最高権力者となっても、皇帝となることは出来なかった。低い家柄の成り上がり者は皇帝となることも可能だったにもかかわらず、ゲルマン人は皇帝となる資格は有していなかった。唯一の例外がマグネンティウス*11だったが、このような事態が続いて起こることはなかった。アルボガストが西ローマ帝国を支配したのは修辞学者エウゲニウスの名の下であったし、末期西ローマ帝国において多くの皇帝を擁立したリキメールについても同様である。東ローマ帝国でもアスパルはマルキアヌスやレオ1世を擁立しても、自ら皇帝になることは出来なかった。
 ローマ人にとって、ゲルマン人はキリスト教徒であっても、異教徒であっても、依然として不可解な言葉を話す文盲の人々だった。それは、ローマ化しローマの風習を身につけたゲルマン人に対してさえも向けられた偏見だった。ゲルマン人は、最後まで本当の意味でのローマ市民となることは出来なかったのである。

(5)ゲルマン人とローマの契約
 テオドシウス1世と西ゴート族は382年同盟部族条約を結んだ。これはそれまでにローマと他の蛮族が結んだ同種の条約とは全く異なるものだった。従来の条約では、ローマ軍への兵員提供はローマ軍指揮下の部隊への編入が条件だった。しかし、この条約において西ゴート族はモエシアに定住する権利を獲得するためには、西ゴート族の長が指揮する西ゴート部隊としての協力のみが条件とされた。この条約によって、ローマ領内に西ゴート族の自治国家が誕生したのである。
 ドナウを越えた西ゴート族は、ローマ領への侵入を阻止しようとするヴァレンス帝のローマ軍を、ハドリアノポリスの戦いで撃破した。この戦いでヴァレンス帝は戦死している。西ローマ帝国のグラティアヌス帝はヴァレンス帝の後継者としてテオドシウス1世を指名した。テオドシウス1世は外交によって西ゴート族を押さえることに成功する。
 西ゴート族はテオドシウス1世の時代にはローマに服属していた。テオドシウス1世は西ゴート王アタナリックが死ぬとコンスタンティノポリスでその葬儀を行い西ゴート族の支持を得た。アタナリックの跡を継いだ、アラリック1世はテオドシウス1世の忠実な同盟者として、異教徒がエウゲニウスを皇帝に擁立して起こした反乱の鎮圧に協力した。
 これ以降、他のゲルマン人もローマ帝国と同盟部族条約を結ぶ。フランク族は、ライン沿岸での居住が許された。フランク族は406年に起こった大移動*12に際してはローマに協力して他のゲルマン人部族と戦っている。
 しかし、このような西ゴート族の存在はローマ帝国の基盤を揺るがすものだった。結局の所、ローマ帝国は西ゴート族を鎮圧することは出来なかったのである。一般のローマ人はこの条約に反感を持っていた。
 アラリック1世がテオドシウス1世に示していた忠誠はあくまでテオドシウス1世個人に対するものに過ぎなかった。テオドシウス1世が病死すると、アラリック1世は独自の行動を取りだし、ローマ帝国を揺るがす事件を引き起こすことになる。


*6現在のミラノ。
*7後見人としてテオドシウス1世やグラティアヌス帝に絶大な影響力を持ち、異教徒を迫害させた人物。
*8「ヨーロッパの歴史欧州共通教科書」P82
*9異教貴族の指示を背景にヴァレンティニアヌス2世を殺害し、エウゲニウスを擁立して、反乱を起こすがテオドシウス1世に処刑された。
*10「IMPERIALROMEローマ帝国ライフ人間世界史2」P146
*11コンスタンス帝を殺害し皇帝に即位するが、ムルサの戦いでコンスタンティウス2世に破れ自殺した。
*12ヴァンダル族、スウェヴィ族、アラン族がガリアに侵入した事件。フランク族はローマに協力したが、侵入を阻止できず409年にはヴァンダル族はイスパニアに到達する。

はじめに  第2章  第3章  終わりに

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