ローマ帝国史略


はじめに

 ローマ帝国は3世紀以降、分割と統合を繰り返してきた。軍人皇帝時代の混乱を収拾したディオクレテイアヌス帝は、帝国を東西に分け、それぞれ正帝(アウグストゥス)と副帝(カエサル)をおく、四分治制を行った。広大な国境線を単独の皇帝が守ることは非常な困難になってきたからである。
 ディオクレティアヌス帝が退位するとコンスタンテヌスス1世が内乱に勝ち残り、ローマ帝国を再統一する。コンスタンティヌス1世は東方に新たな首都コンスタンティノポリスを建設した。帝国の重心は次第に東方に移っていき、東西の政治的分裂は避けられないものになっていった。
 その後もコンスタンティヌスの三子*1やヴァレンティニアヌス1世によっても東西分治は行われた。テオドシウス1世によって一時的にローマ帝国は再統一されたが、395年にテオドシウス1世が病死すると、アルカディウスとホノリウスによりローマ帝国は東西に分割され、その後ローマ帝国が再び統一されることはなかった。
 西側のローマ帝国はホノリウス帝の時代を境に急速に衰退への道をたどり始める。西ゴート族をはじめとする蛮族に属州を奪われ、各地で反乱が頻発する。この重大な危機に十分に対応することの出来ないまま、ロムルス・アウグストゥルス帝の退位により、476年に西ローマ帝国は滅亡する。
 実際に西ローマ帝国を滅ぼしたのはゲルマン人の傭兵隊長オドアケル*2だったが、この事件自体はそれほど大きな意味を持っていない。*3それより前に西ローマ帝国は滅亡したといっても間違いのない状況だったし、名目上も時には実際にも同体であった、コンスタンティノポリスの東ローマ帝国は未だに健在だった。ただ、このことによりイタリアがローマ帝国の領土でなくなったというだけのことである。
 厳密にいうならば476年はローマ帝国の「衰退」を示す年ではあっても、「滅亡」を意味する年ではない。本当の意味でローマの「滅亡」を意味する年はトルコの侵略による1453年のコンスタンティノポリスの陥落、というのが最も適切だろう。しかし、476年までにローマ帝国がその半身を蛮族に奪われたということは、疑いようのない事実である。
 「何故ローマが滅んだか。」このことについて、古来から現在に至るまで無数の考えが示された。大別すると、蛮族により殺されたと説く「外因論」と、病死したと説く「内因論」に分けることが出来る。5世紀において異教徒が、キリスト教徒に対して、古代の神々への礼拝をやめ、キリスト教の神のみを崇拝したことにより、古代神の天罰を受けたのがローマ帝国の衰退だと説いたのも、一種の没落原因論である。
 最も早くから出され、今もなお通説として説かれているのは外因論である。この外因論とは必ずしも単純なものではなく、外圧が帝国の内部を変化させたという形で内因論と結びつくことも少なくない。
 ピカニオルはキリスト教ローマ帝国による4世紀の再生を列挙して、「ローマ帝国は天寿をまっとうしたのではなく刺し殺された」*4と説いている。
 ジョーンズも戦略や帝権における東西両ローマ帝国の不均衡に注目しながらも、やはりゲルマン人の侵入による外圧に重きを置いている。
 内因論はローマ帝国の内部の問題に真因を求め、外圧ないしは戦争を副次的偶発的原因とするもので、今日では内因論を唱える者の方が多く、その唱える論の種類も雑多である。
 ポークは2世紀における悪疫流行のために帝国の人口が減少し、蛮族の移動に対応するだけの人的資源が欠乏していたことを示している。しかし、人口の減少は実際に証明できるかどうかははなはだ疑問である。ローマ帝国の人口統計に関する資料は、必ずしも正確ではない。
 別の視点からサーモンは、212年にカラカラ帝が帝国内の全自由民にローマ市民権を賦与した、アントニヌス勅令に原因を求めている。それまで人々はローマ市民権を得るために兵役に従事していたが、このことによって兵役につくことの意義が薄れ、軍隊の質が低下したと述べている。
 その他にも皇帝の無能(モロー)、気候の変化(ハンティントン)、地味の自然的減退(リービヒ、シグワルト)、アウグストゥスによる3軍団の縮小(コルネマン)等に原因を求める意見もあり、全てをここで紹介することは出来ない。
 これらの論は、外因論にしても内因論にしても、否定しあうものではない。それぞれの論に少しずつ真実があるのだから、それらを結びつけて考えるべきだろう。ローマの衰退は単純に一つの現象で捉えることは出来ない。むしろ、単純で一面的な説に対しては懐疑的にならざるを得ない。
 しかし、ギボンは名著「ローマ帝国衰亡史」の中で帝国の滅亡の主たる原因は、蛮族の侵入による攻撃であるから明白であるとして、深くそのことについて追求しようとしていない。
 ギボンは前半部の結びにおいて、キリスト教について「社会の活気ある勇気は水をさされ、軍国精神の最後の名残は修道院の奥に埋められた」*5と述べてキリスト教が帝国の滅亡を少なからず促進したと述べているが、キリスト教は同時に蛮族の獰猛さを和らげるのにも役だったとして、それほど重視はしていない。
 ギボンの考えのように、単純に蛮族による征服を帝国の滅亡の原因に帰するのは、根本的な説明とはなり得ない筈である。にもかかわらず我々は暗黙のうちにギボンのこの見解に同意せざるを得ない。たとえどのような理由を考えたとしても、帝国は蛮族によって征服され、滅ぼされたという事実に代わりはないからである。
 私はローマ帝国にとっての蛮族とは一体何だったのかを、ローマ帝国と蛮族の関係を通して、考えて見ようと思う。そして、ローマ帝国の衰退は何故防ぐことが出来なかったのか、私なりの考えを示してみたい。


*1コンスタンティヌス2世、コンスタンティウス2世、コンスタンスの三人。
*2スキラエ族。反乱を起こしオレステスを殺害し、ロムルス・アウグストゥルスを退位させ、西ローマ皇帝位を東ローマ皇帝ゼノンに返還した。ゼノンにパトリキウスの称号を要求し、イタリアを東ローマ皇帝の臣下として支配した。後に、東ゴート族がテオドリック大王に率いられて侵入すると、だまし討ちにあい処刑される。
*3オドアケルが東ローマ帝国のゼノン帝に西ローマ皇帝位を返還した後もユリウス・ネポスが西ローマ皇帝位を主張していた。東ローマの認めていた正統な西ローマ皇帝もネポス帝だった。480年にネポスがグリュケリウスに暗殺されたことにより、西ローマが滅んだと考えることもできる。
*4「世界の歴史5ギリシアとローマ」P434
*5「ローマ帝国衰亡史5」P509

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