ローマ帝国史略


ローマは何故滅んだか (1)はじめに

 『ローマは何故滅んだか』、という問いは、ローマ史に興味を持つ人間全てが持つ共通の問いだろう。
 ちなみに、この場合の滅んだローマというのは、西ローマ帝国のことであり、オスマン・トルコに滅ぼされた東ローマ帝国のことではない。後者の場合は、滅亡の危機を幾度もくぐり抜けながら、領土を縮小させて歴史上の役目を終えて滅亡したので、その様な疑問が生じる余地はない。滅ぶべくして滅んだのである。

 しかし、西ローマ帝国については必ずしもそうとは言えない。テオドシウス1世の死により、息子ホノリウスが西方領土を継承した時には、西帝国内に蛮族の王国は未だ存在せず、ムーア人総督ギルドーの統治下で半独立状態だったアフリカ以外はイタリア、ガリア、イスパニア、ブリタニアは取りあえず、ローマの支配下にあった。(その後、属州アフリカもホノリウス配下の部将スティリコの働きによりギルドーからローマ帝国領に復帰している)
 それがガリアに西ゴート族、ブルグント族、フランク族、アフリカにヴァンダル族、イスパニアにスウェヴィ族、そしてブリタニアからは撤退という形で属州はすべて蛮族の手に委ねられることになったのは、僅か半世紀ほど後にすぎない。ヴァレンティニアヌス3世配下の名将アエティウスの生前は、アフリカのヴァンダル族以外の諸部族は形式的にはローマに服属していたが、それも長くは続かない。アエティウスとヴァレンティニアヌス3世の死後、蛮族は次々とローマから離反し、スキラエ族傭兵のオドアケルにより、西のローマ帝国は歴史から姿を消してしまうのである。

 ここでは、この西ローマ帝国の滅亡について様々な原因を私なりに述べていくつもりである。ローマ帝国の滅亡については、大まかに分けて外因論(ゲルマン人の侵入による、軍事的敗北を主たる問題とする考え)と内因論(ローマ内部の様々な問題に着目する考え、現在はこちらが主流)がある。私個人としては外因論の支持者だが、だからと言って内因論者の説を否定するつもりもない。ローマ帝国の滅亡は、複合的なものであり特定の事例にのみ原因を求めることは、賢明ではないと考えているからである。

 本来なら、いわゆる西ローマ帝国の滅亡には大きな意味はない。西方領土の喪失はもはや確定事項であり、東ローマ帝国にとって、お荷物に過ぎなかった西ローマ帝国の存在意義はなかった。ローマ帝国はコンスタンティノポリスに健在だったのである。
 また、6世紀のユスティニアヌスの再征服により、イタリア半島は一時的にせよローマ帝国に帰属することになる。しかし、皮肉なことにユスティニアヌス1世はローマの再建者でありながら、同時に古代世界の破壊者でもあった。
 ユスティニアヌス1世のイタリア支配は、泥沼のゲリラ戦と征服事業の継続の為の重税の取り立てで、イタリア人のローマ帝国への帰属意識は失われ、ローマを初めとする諸都市の独立志向を高めていくことになる。帝国の支配者層はイタリア人ではなく、ギリシア人だった。いわゆるビザンティン帝国と呼ばれるギリシア人のローマ帝国は古代世界のローマ帝国とは性格を異にするものだった。

 最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスの退位は、同時代人にとってはそれほど大きな事件ではなかった。しかし、後世の我々の目から見れば一つの時代の終わりを象徴する出来事といえるだろう。

 

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