ローマ帝国史略


コンスタンティヌス多すぎーーー!!

 2ch式の掲示板でコンスタンティヌスと名の付く皇帝の○世の数え方が話題に挙がったので、簡単な表を作ってみました。
 とりあえず、コンスタンティヌスという名前で皇帝として数えれそうな人物を羅列してみました。一応太字にしてるのが、私がコンスタンティヌス○世と数えるべきだと思っている皇帝なんですが、別にそれが正解だという訳ではないです。
 ちなみにここに挙げた人物を全部コンスタンティヌス○世だと数えれば、ラストエンペラーのコンスタンティヌス・パレオロゴスはコンスタンティヌス15世となるんですが、流石にそんな数え方してる本は見たことないですね。

 ・・・・まあ、こんなの覚えてても何の得にもならないんですけどね。

名  前

在位年数 備      考
コンスタンティウス1世 305〜306 コンスタンティヌス大帝のお父さん。ディオクレティアヌスの副帝として、西方のガリア・ブリタニア・イスパニアを統治。ディオクレティアヌスが自発的に退位すると正帝に昇進したが、まもなく病死した。
コンスタンティヌス1世 306〜337 いわずと知れた、コンスタンティノポリスの語源となった大帝。父親の名はコンスタンティウスで、跡を継いだ息子達の名はコンスタンティヌス、コンスタンィウス、コンスタンスという、死ぬほどややこしい家系。他にも、ユリウス・コンスタンティウス(ユリアヌス帝の父親)という名前の弟もいるので要注意。
ちなみに、処刑された本来の跡継ぎである長男の名前はクリスプス。 
コンスタンティヌス2世 337〜340 コンスタンティヌス1世の息子。兄弟で帝国を分割統治し、自身はブリタニア、ガリア、イスパニアを統治した。弟帝コンスタンスの領土を狙って攻め込んだが、返り討ちにあって戦死。
コンスタンティウス2世 337〜361 コンスタンティヌス1世の息子。兄弟で帝国を分割統治し、東方領土を統治した。兄と弟の内乱などを経て、再び帝国を統一する。父コンスタンティヌス1世の死の直後に起きた、クーデターでほとんどの皇族が殺害されているが、その黒幕と言われている。
コンスタンス1世 337〜350 コンスタンティヌス1世の息子。兄弟で帝国を分割統治し、自身はイタリア、パンノニア、アフリカを統治した。コンスタンティヌス2世との戦争に勝利し西方世界を統一したが、配下の部将マグネンティウスのクーデターで謀殺された。
ちなみにコンスタンスとは小コンスタンティヌスという意味。
コンスタンティヌス(3世)僭帝 406〜416 ブリタニア軍を率いてガリア、イスパニアに独立勢力を築いた軍人。西方のホノリウス帝(395〜423)が一時皇帝位を承認した為、皇帝として数えることもある。
ちなみにこのコンスタンティヌスが共治帝とした息子の名前はコンスタンス。
コンスタンティウス3世 421 ホノリウス配下の部将として、ガリアやイスパニアの反乱を鎮圧し、正帝似昇進。個人的には高く評価している人物だが、所詮はマイナーな皇帝。
ところで、この皇帝以降、コンスタンティウスという名前じたいをローマ史の本とかで見なくなるんですが、何か事情でもあるんでしょうか?
コンスタンティヌス3世 641 大帝ヘラクレイオスの長男。病弱で即位後まもなく死亡。
コンスタンス2世 641〜668 上記コンスタンティヌス3世の遺児。聖ソフィア寺院で戴冠。イスラム勢力との戦争継続の為、シチリアに遷都したが現地で暗殺された。
コンスタンスとは小コンスタンティヌスという意味で、この皇帝をコンスタンティヌス4世と数えることもある。
コンスタンティヌス4世 668〜685 上記コンスタンス2世をコンスタンティヌス4世と数える場合は、以降の皇帝は一代づつずらして数える。
コンスタンティヌス5世 741〜775 レオ3世の息子。イコン破壊運動を推進し、ウマイヤ朝から小アジアを奪還。 
コンスタンティヌス6世 780〜797  
コンスタンティヌス7世 913〜959  
コンスタンティヌス8世 1025〜1028  
コンスタンティヌス9世 1042〜1055  
コンスタンティヌス10世 1059〜1067  
コンスタンティヌス11世 1204 十字軍の攻撃から、即位式も挙げずに逃亡した為、皇帝として数えないこともある。
コンスタンティヌス12世 1449〜1453 上記一夜皇帝コンスタンティヌスを皇帝として数えないのであれば、コンスタンティヌス11世となる。

 

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