ローマ帝国史略


人類史上最も幸福な時代〜五賢帝〜

 孤独な皇帝ドミティアヌスは暗殺され、フラウィウス家は断絶した。元老院の意志により新たに皇帝となったのは老齢の元老院議員ネルヴァだった。軍事的背景を持たないネルヴァは軍隊から自分の身を守るため、イスパニア出身のトラヤヌスを養子とし、後継者に指名した。
 ネルヴァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウス。
 5代に渡って続いた養子相続の時代、ローマは空前の繁栄を謳歌する。トラヤヌスのダキア、メソポタミアの征服により、ローマ帝国の領土は空前絶後のものとなる。ローマ帝国衰亡史の作者E・ギボンはこの時代を「人類史上最も幸福な時代」と評した。
 しかし、繁栄は永遠のものではありえなかった。ハドリアヌスはトラヤヌス時代の占領地の大半を放棄し帝国の拡張政策は終わりをつげた。そして「記録に残すことが何もない」と言われる安定したアントニヌス・ピウスの治世を経て、マルクス・アウレリウス帝の時代には、皇帝は国境防衛の為に各地の国境を転戦しローマに滞在することさえ出来なかった。
 そして、マルクス・アウレリスス帝の愛した息子コンモドゥスへの帝位継承により、五賢帝時代は終わりをつげるのである。


 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

ネルヴァ帝
96〜98

 ネロ、ドミティアヌスに引き立てられた元老院議員。ネロ時代にはピソのクーデターを阻止したことで知られる。おそらくは、ネルヴァ自身も関与したであろうドミティアヌス暗殺後、元老院から皇帝に指名された。
 元老院はドミティアヌスの専制にうんざりしていたが、ドミティアヌスは軍隊には依然として人気があった。親衛隊長アエリアヌスがドミティアヌス暗殺犯の引き渡しを求めてクーデターを起こすと、ネルヴァはそれを阻止することは出来ず、皇帝としての権威は失墜した。
 窮地に陥ったネルヴァは軍隊の支持を取り付けるために、高地ゲルマニア総督のトラヤヌスを後継者に指名。その後在位16ヶ月で病死した。
 五賢帝の初代として知られているが、特にこれといった功績はない。偉大な皇帝として並ぶもののないトラヤヌスを後継者に指名したことが、評価されたと言うことか?

同時代人

人    物    評

トラヤヌス  高地ゲルマニア総督。ネルヴァに後継者に指名される。アエリアヌスら反乱の首謀者を騙し討ちで処刑し、帝国の秩序を維持。帝位継承の障害を自ら取り除いた。
アエリアヌス  親衛隊長。前帝ドミティアヌスの暗殺犯引き渡しを求めて、ネルヴァを軟禁し、目的を達したが、トラヤヌスと交渉するために、ライン国境に向かったところ、捕らえられ処刑された。
パルテニウス  先帝ドミティアヌス暗殺の実行犯。アエリアヌスのクーデターで殺害された。

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

トラヤヌス帝
98〜117

 ローマ史上初めての、属州出身の皇帝。ドミティアヌスに登用され、ネルヴァに高地ゲルマニア総督に任命され、ネルヴァの後継者に指名された。ネルヴァの死後、ローマに入城し、元老院の承認の元、皇帝即位を宣言した。
 アウグストゥス時代のトイトブルクでの大敗以来、ライン・ドナウ国境では守勢を保っていたが、その方針を一転させる。ドミティアヌス時代より、国境を越えて侵入を繰り返していた、ダキアに2度に渡り遠征を試み、ダキア王デスバルスを自害させ、首都サルミゼゲトゥサを占領しダキアを属州化することに成功する。このダキア遠征の様子は、アポロドロスの建設した、トラヤヌス円柱のレリーフに記されている。原住民を虐殺しローマ人を入植させダキアをロマニア(ルーマニア)と名付けた。
 次いで、パルティアとの緩衝国アルメニアの王位継承問題から、パルティアとの紛争が勃発。トラヤヌス自身の親征により、アルメニアとパルティアの首都クテシフォンを含むメソポタミアを一時的に属州とした。
 メソポタミアでの反乱を鎮圧。更にユダヤ人の起こしたアフリカの反乱鎮圧を指揮するために、ローマへ帰還する途中、急死(毒殺?)した。
 遺書によって、ハドリアヌスが後継者に指名されるが、当時から皇后プロティナとハドリアヌスの陰謀であるとの醜聞があり、トラヤヌスの死にも疑いがもたれている。
 トラヤヌスの業績は、軍事的なものに目を奪われがちだが、元老院と協調できる優れたバランス感覚や小プリニウスやタキトゥスといった文化人を登用しローマ文化の一時代を築いたという点も重要な功績である。
 また、小プリニウスとの往復書簡などから、トラヤヌスがキリスト教を保護したと考えられていて、後代のキリスト教史家の評価も高かった。(実際はキリスト教徒を抑圧するする政策を取っていた)ギボンが「人類史上最も幸福な時代」と理想視したのは、このトラヤヌスの時代だろう。

同時代人

人    物    評

ハドリアヌス  シリア総督。トラヤヌスの親族。ダキア遠征で功績を挙げた部将。プロティナは皇位継承者として、後押ししていたが、トラヤヌスはハドリアヌスを後継者とは考えていなかったようである。恐らくは、プロティナとの共謀でトラヤヌスの遺書を偽造し、トラヤヌスの後継者の地位を確保した。
プロティナ  トラヤヌスの妻。ハドリアヌスの後ろ盾となって、ハドリアヌスの帝位後継者への道を開いた。
デスバルス  ダキア王。ドミティアヌスと結んだ和約を破って、ローマ領内に侵入。二度に渡る、トラヤヌスの遠征で戦死し、ダキアはローマの属州となった。ダキア遠征の様子は、レリーフで(一部だが)ローマに残されている。
小プリニウス  ポントゥス総督。ヴェスヴィオ山の噴火に巻き込まれた大プリニウスの息子。トラヤヌスとの属州統治について教えを受けるやりとりが「書簡集」の中に残されている。
アポロドロス  トラヤヌスお抱えの建築家兼芸術家。ダキア遠征のレリーフやトラヤヌス像の作者。ハドリアヌスには嫌われた。
タキトゥス  ローマの代表的な歴史家。「歴史」、「アグリコラ」を記す。ドミティアヌス時代のブリタニア総督アグリコラの娘婿。
スエトニウス  トラヤヌス時代の役人。ゴシップ的内容の「ローマ皇帝伝」を記す。

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

ハドリアヌス帝
117〜138

 トラヤヌスの従兄弟の子。トラヤヌスが高地ゲルマニア総督だった頃から部将として頭角を表していた。パンノニア総督を経て、トラヤヌスのパルティア遠征の際にシリア総督となっていた。
 トラヤヌスが急死すると、遺書によってハドリアヌスは後継者に指名され、トラヤヌスの皇后プロティナの支持の元、皇帝に即位した。
 トラヤヌスが征服していたアルメニア、メソポタミアの大部分を放棄。ユーフラテス河以西まで領土を後退させた。その一方でハドリアヌスは治世中4度に渡って領内の各地を視察旅行し、国境防衛に意を注いだ。ブリタニアにハドリアヌスの長城を建設したのは、その成果の一つである。
 ティトゥスが反乱鎮圧の際に破壊した、エルサレムの再建を計画すると、異教に対する反発からユダヤ人の反乱を引き起こした。これ以降ユダヤ人はエルサレムから追放されることになる。
 晩年にルキウス・ケイオニウスを養子として、帝位継承者に指名していたが、ルキウス・ケイオニウスが病死すると、新たに元老院議員のアントニヌス・ピウスを後継者に指名して、自身はパイアエに隠遁しまもなく現地で病死した。
 生前のトラヤヌスはハドリアヌスを後継者として指名していないという極めて不自然な帝位継承の事情と、即位直後の元老院議員数名の処刑によって、元老院からはハドリアヌスの記憶抹殺処分も検討されていた。(アントニヌス・ピウスの反対で実現していない)
 同時代人の評価は芳しくないが、ユダヤ人の反乱以外は大過なく帝国を統治したのは、ハドリアヌス自身の功績である。しかし、もしドミティアヌスのように暗殺されていれば、ハドリアヌスは五賢帝として数えられることはなかっただろう。

同時代人

人    物    評

アントニヌス・ピウス  元老院議員。ルキウス・ケイオニウスの死によって、ハドリアヌスの養子となり、帝位を継承した。この時、アンニウス・ウェルス(後のマルクス・アントニウス)とルキウス・ケイオニウスの遺児(ルキウス・ウェルス)を自身の養子としている。
ルキウス・ケイオニウス・コンモドゥス  ハドリアヌスの養子として、帝位継承者に指名されていたが、ハドリアヌスより先に病死した。
アンニウス・ウェルス  アントニヌス・ピウスの養子。ハドリアヌスの命によって、アントニヌス・ピウスとの養子縁組を行った。後のマルクス・アウレリウス帝。
セルウィアヌス  高齢の元老院議員。ハドリアヌスの姉の夫。帝位簒奪を疑われ、ハドリアヌスに「自殺を強要された。おそらくは冤罪。
アンティノオス  ハドリアヌスの同性の愛人。
プロティナ  先帝トラヤヌスの皇后。ハドリアヌスの皇帝即位を支援した。

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

アントニヌス・ピウス帝
138〜161

 南ガリア貴族の出の元老院議員。ルキウス・ケイオニウスと共に先帝ハドリアヌスの養子となり、ルキウス・ケイオニウスの死後ハドリアヌスの後継者に指名された。ハドリアヌス自信は、アンニウス・ウェルス(後のマルクス・アウレリウス)が成人するまでの、繋ぎの皇帝として考えていた様である。ハドリアヌスの死の直前にアントニヌスはマルクス・アンニウス・ウェルスとルキウス・ウェルスを養子としている。
 元老院がハドリアヌスの神格化を拒否すると、元老院を説得し自身の帝位継承の正当性を確保した。その一方ハドリアヌスが元老院と対立していたのと対照的に元老院とは協調して帝国を統治した。
 トラヤヌス、ハドリアヌスと異なりアントニヌス・ピウスは帝位についてからは一度もイタリアを離れること無く、属州総督や部将を派遣することで帝国の安泰を確保した。スコットランドへの侵攻とアントニヌスの長城の建設はブリタニア総督ロリウスが行っている。
 アントニヌス・ピウスの極めて安定した統治は、五賢帝時代を代表する平和な時代だった。しかし、先帝ハドリアヌスから続くローマ帝国の内向きの対外政策は、帝国の威信が衰えつつあることを暴露し、周辺諸民族のローマ帝国に対する姿勢に決定的な影響を与えたと思われる。次代のマルクス・アウレリウスの時代には周辺の蛮族が活動を活発化させることになるが、それとハドリアヌス、アントニヌス・ピウスの統治が無関係とは言えないだろう。

同時代人

人    物    評

マルクス・アウレリウス  アントニヌス・ピウスの義理の甥。アントニヌス・ピウスの娘ファウスティナと結婚し、帝位継承者の地位を確実なものにする。アントニヌス・ピウスの死の直前に義弟ルキウス・ウェルスと共治帝として帝位を分け合った。
ルキウス・ウェルス  ルキウス・ケイオニウスの息子。マルクス・アウレリウスと共に、アントニヌス・ピウスの養子となっていた。アントニヌス・ピウスはマルクス・アウレリウスの単独相続を望んでいたようだが、マルクス・アウレリウスの後押しで、共治帝として即位することになる。
ファウスティナ  アントニヌス・ピウスの娘。当初はルキウス・ウェルスと婚約していたが、父アントニヌス・ピウスの意向でマルクス・アウレリウスに嫁いだ。
ファビア  ルキウス・ケイオニウスの娘。先帝ハドリアヌスの命でマルクス・アウレリウスと婚約していたが、アントニヌス・ピウスの意向で婚約を破棄させられた。
ロリウス  ブリタニア総督。スコットランドを一時征服しアントニヌスの長城を建設した。しかし、アントニヌス・ピウス在位の晩年には、帝国の国境は更に南方のハドリアヌスの長城よりも南に後退している。
プトレマイオス  ギリシア出身の大天文学者。アレクサンドリアで天体観測を行い。天動説(地球中心説)を体系化した。

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

マルクス・アウレリウス帝
161〜180

 五賢帝最後の皇帝。ストア派の哲学者としても知られる。
 イスパニアの有力家系出身で、ハドリアヌスの引き立てにより、アントニヌス・ピウスの養子となり、早くから皇帝候補と目されていた。ハドリアヌスはアントニヌス・ピウスを中継ぎとし、実質的にはマルクス・アウレリウスを自身の後継者と考えていたようである。
 アントニヌス・ピウスの死により、ルキウス・ウェルスと帝位を共同相続。(アントニヌス・ピウスはマルクス・アウレリウスの単独統治を想定していた)
 当初はルキウス・ウェルスとの共同統治体制を取っていたが、ルキウス・ウェルスの死後、単独統治に移行した。この2人の皇帝が並立するというローマ帝国ではしばしば見られるシステムは、様々な矛盾を抱えながらも、これ以降も続けられていくことになる。マルクス・アウレリウスとルキウス・ウェルスの共同統治は、マルクス・アウレリウス主導の元で行われ、パルティアとゲルマニアの両面作戦での皇帝親征を可能にするといった、大きなメリットが証明された。
 息子コンモドゥスが成人すると、コンモドゥスを正帝(アウグストゥス)に任命し、形式的には自身と同格の皇帝とし、息子への帝位継承を確定させた。
 また、後漢へ使者を派遣し現在おヴェトナムまで辿り着いたことから、大秦国王安敦として、後漢書に記録が残っている。
 アントニヌス・ピウスの平和な統治と違い、マルクス・アウレリウスは前線を駆け回る統治となった。ゲルマニアでのサルマタエ族との紛争の中、ヴィンドボナ(現在のウィーン)で病死しした。
 五賢帝最後の皇帝に相応しい偉大な皇帝だったが、蛮族との防衛戦争に明け暮れた治世は決して本意ではなかっただろう。また、結果論ではあるが、息子コンモドゥスへの帝位継承は完全な失敗と言わざるを得ない。これほどの人物でも肉親への愛情が真実から目を逸らさせてしまうという事実にはやりきれない思いを持たされる。

ルキウス・ウェルス帝
161〜169

 ハドリアヌスが後継者としていた、ルキウス・ケイオニウスの子。アントニヌス・ピウスの養子になっており、マルクス・アウレリウスの共治帝として正帝(アウグストゥス)に昇進した。
 アルメニアの帰属を巡って、パルティアとの紛争が起きると、自身が東方属州に赴いた。アルメニアを再びローマの属国とし、パルティアの首都クテシフォンを一時占領するなど、遠征は成功を収めたが、ルキウス・ウェルス自身は、アンティオキアで無為な時間を過ごしたと言われる。
 パルティアの戦勝によって、トラヤヌス以来の凱旋式を挙行するが、この遠征で軍隊が疫病(ペスト?)を持ち帰っており、ローマの人口は激減した。
 マルクス・アウレリウスのゲルマニア遠征に同行中に脳卒中で病死した。
 ローマ史上初めての、共治帝。名目上は、マルクス・アウレリウスと同格の正帝だったが、常にマルクス・アウレリウスを敬い、自身を一段低くおくよう勤めた。能力的には、マルクス・アウレリウスには遠く及ばないが、同時に2方面の軍事行動を展開出来るなど、2人の皇帝が存在するメリットを発揮できたのは、紛れもなくルキウス・ウェルスの功績といえるだろう。

同時代人

人    物    評

コンモドゥス  マルクス・アウレリウスの長子。父の生存中から、正帝(アウグストゥス)の称号を得ており、ヴィンドボナでマルクス・アウレリウスが病死すると、ゲルマニアから軍を引き上げた。
ファウスティナ  アントニヌス・ピウスの娘で、マルクス・アウレリウスの正妻。コンモドゥスやルキラの母親。カシウスの反乱の黒幕の一人とされる。
ルキラ  マルクス・アウレリウスの娘。ルキウス・ウェルスに嫁ぐ。
カシウス  シリア総督。ルキウス・ウェルスのパルティア遠征で軍功を挙げ、マルクス・アウレリウスから東部属州を委任されていた。マルクス・アウレリウスが死んだとの誤報(虚報?)から、軍隊が皇帝即位を宣言。後にマルクス・アウレリウスの生存を確認するが、反乱を継続。一時、東部属州を支配下においたが、部下に暗殺され、反乱は失敗した。

 

 

 

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