ローマ帝国史略


栄光を求めて〜ユスティニアヌス朝〜

 永遠のローマは奪われた。しかし、今なお“ローマ帝国”は健在だった。
 レオ1世、ゼノン、アナスタシウス1世が蓄えた国力を背景に、偉大なるローマ帝国の復興を夢見る皇帝ユスティニアヌス1世の野望は実行に移される。ガイセリック亡き後のヴァンダル王国を滅ぼし、イタリアを支配する東ゴート王国にも侵略の手を伸ばし、イタリア半島は泥沼の戦いに覆い尽くされた。
 名将ベリサリウス、ナルセスらを擁したローマ軍はついに蛮族に勝利し、アフリカとイタリアは再びローマ帝国の版図に組み込まれた。ユスティニアヌス1世の築いた束の間の栄光。しかし皮肉なことに重税を課したローマ帝国の統治はイタリアの人心を失わせ、長年の戦争の結果ローマ市の人口は数百人にまで激減した。西方での戦争を継続するために、東部国境ではペルシアのホスロー1世に大幅な譲歩を迫られることになる。
 ローマがローマであるために。無理な外征は、帝国の矛盾を深刻化させていく。偉大な皇帝ユスティニアヌス1世の死後、広大な領土を維持する力は、もはやローマには残されてはいなかった。ランゴバルド族のイタリア侵入により、多大な犠牲を払った東ゴート戦の戦果は失われた。
 ユスティニアヌス1世の野望はこれ以降の皇帝達にも重くのしかかっていくことになる。


 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

アナスタシウス1世帝
491〜518

 コンスタンティノポリス宮廷の役人。ゼノンの死後空位となった帝位の後継者としてレオ1世の娘でゼノンの寡婦アリアドネと形式的な結婚を行い、アリアドネによって皇帝に指名された。
 先帝ゼノンの政治基盤となっていた、イサウリア人を排除するために7年に渡って反乱を鎮圧。また、この頃からブルガール人がバルカン半島内への移住を始めた。
 アナスタシウス1世自身は単性論信仰を持っていたが、国内の宗教論争に介入することはなかった。しかし、皇帝の単性論信仰はコンスタンティノポリスなどでの教義論争の遠因となり、西方教会との隔絶を産みだした。
 後継者を指名することなく死去。元老院と軍の談合により親衛隊員ユスティヌスが新皇帝となった。
 ユスティニアヌス1世の再征服の基盤を築いた名君。財政の再建に成功し、それが後の西方遠征の軍費となった。また、アナスタシウス1世の単性論信仰に起する宗教論争が西方教会との対立を招いたが、正統派への回帰運動と併せて、西方教会のローマへの帰属意識を高める一因となった。

同時代人

人    物    評

アリアドネ  レオ1世の娘。先帝ゼノンの妻。ゼノンの死後アナスタシウスと名目上の結婚をし帝位をアナスタシウスに授けた。
ユスティヌス  親衛隊員。レオ1世の時代に士官した農夫出身の親衛隊員。アナスタシウス1世の死後、元老院と共謀して皇帝に指名された。
カワード1世  ペルシア王。アナスタシウス1世の貢納支払いの停止により、ローマ領へ侵攻。
テオドリック1世  東ゴート王。ゼノンの死後も、イタリアの統治権が自身に属することをアナスタシウス1世に確認した。西ゴート王アマラリックの後見人としてイスパニアにも影響力を持ち、ヴァンダル、フランクとも同盟関係にあった。

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

ユスティヌス1世帝
518〜527

 トラキア出身の農夫。アナスタシウス1世の親衛隊に入隊し栄転を重ねた。アナスタシウスが後継者不在のまま、死去すると元老院と共謀して帝位を確保した。
 全くの無学文盲で、政治は甥の副帝(カエサル)ユスティニアヌスの主導によって行われた。自身の死の直前にはユスティニアヌスも正帝に昇進した。ユスティヌス1世自身はどうもユスティニアヌスを全面的には信頼していなかったようで、このユスティニアヌスの正帝昇進には、最後まで反対していた。
 単性論信者だったアナスタシウス1世に対し、ユスティヌス1世は正統派を信仰していた。ユスティヌス1世は異教のアリウス派を迫害したために、アリウス派を奉じる東ゴート王国のテオドリック1世と対立したが、そのことが逆に正統派であるローマ教会を中心とする西方の教会勢力とコンスタンティノポリスとの連携を深めていくことになった。
 卑賤の身から皇帝に成り上がった実力者だが、ユスティヌス1世自身の実像は分からない部分が多い。甥にして事実上の共治帝ユスティニアヌスの強力な補佐があったにせよ、無力な傀儡とは思い難い。

同時代人

人    物    評

ユスティニアヌス(1世)  ユスティヌス1世の妹の子。事実上の共治帝。文盲の皇帝ユスティヌス1世を補佐し、実質的にはユスティニアヌスの意志によって帝国を統治した。ユスティヌス1世の統治晩年にはアウグストゥス(正帝)に昇進し、ユスティヌス1世の死後単独統治に移行した。
ユーフェミア  ユスティヌス1世の皇后。甥ユスティニアヌスとテオドラの結婚に反対した。ユーフェミアの死後にユスティヌス1世が法改正を行いユスティニアヌスとテオドラの結婚は認められた。
テオドラ  ユスティニアヌスの妻。ヌードダンサーと娼婦を生業としていたといわれる。
テオドリック1世  東ゴート王。ローマ元老院議員ボエティウスの処刑により、ユスティヌス1世と対立。アリウス派の迫害を初めたユスティヌス1世に対し、教皇ヨハネス1世をコンスタンティノポリスに派遣し、アリウス派の保護を求めたが失敗した。
ヨハネス1世  ローマ教皇。テオドリック1世の意向によるローマ元老院議員ボエティウスの死は、正統派への迫害でないことの弁明の為にコンスタンティノポリス宮廷へ派遣された。しかし、ヨハネス1世はユスティヌス1世との交渉に失敗し、イタリアに帰還。激怒したテオドリック1世の命により幽閉され、獄死した。

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

ユスティニアヌス1世帝
527〜565

 ユスティヌス1世の甥。豚飼いから、親衛隊で出世していたユスティヌス1世を頼ってコンスタンティノポリスへ移住し、アナスタシウス1世の護衛を務めた。ユスティヌス1世の登位後は、副帝(カエサル)として叔父ユスティヌス1世を補佐。ユスティヌス1世の死の直前には、自身も正帝(アウグストゥス)に昇進した。
 西方領土の回復を目指すユスティニアヌス1世が軍費調達の為に採った重税政策が、即位直後のニカの乱を誘発するが、皇后テオドラの助言と名将ベリサリウスの指揮で反乱を鎮圧。東部国境ではペルシアのホスロー1世と和睦を結んで、蛮族に占領されている西方ローマ領への軍事行動を押し進めた。
 ベリサリウスに命じてヴァンダル王国を滅ぼし、続いてイタリア半島を支配する東ゴート王国との戦端をも開いた。さらに西ゴート王国からも、王位継承争いの間隙を突き、イスパニア南部の領土の一部を獲得もしている。また、和平条約を無視してアンティオキアを占領していたペルシアを撃退し再度和睦を結んだ。
 ベリサリウスを更迭し宦官ナルセスに指揮を任せるなど紆余曲折の戦いを経て東ゴート王国をも滅ぼし、かつての首都ローマを含むイタリア半島を蛮族から奪回。ユスティニアヌス1世は地中海を再びローマ帝国の内海とすることに成功した。
 この間に、中国から養蚕術を密輸し絹織物の自力生産の道を開き、異教学者トリボニアヌスに命じてローマ法を編纂させるといった事業を行い、帝国の礎を確かなものにした。
 しかし、その一方で国力を越えた外征の継続と占領地での過酷な税の取り立ては、ローマ帝国の統治を望んでいた筈の人々を落胆させた。ユスティニアヌス1世の築いた帝国は、聖ソフィア寺院や聖ヴィターレ聖堂の建築などに象徴される雄大な見た目とは裏腹に、無理な外征と住民への過酷な統治によって支えられる砂上の楼閣に過ぎなかった。
 即位38年にして、ユスティニアヌス1世は後継者を定めることなく病死。ユスティニアヌス1世の妹ウィギランティアの息子ユスティヌス(2世)がコンスタンティノポリス元老院と共謀して皇帝即位を宣言した。
 このユスティニアヌス1世の成し遂げたローマ帝国の一時的な復興は900年に渡り『世界の中心たるローマ帝国』という、イデオロギーを支え続けることになる。これ以降、何度も訪れた滅亡寸前のローマを支えたのは、ユスティニアヌス1世の吹き込んだ、ローマはローマであり続けねばならないという意志なのかもしれない。

同時代人

人    物    評

テオドラ  元ストリッパーにして、ユスティニアヌス1世の皇后。事実上の共治帝。ニカの乱では、逃亡を図るユスティニアヌス1世を叱咤し、ベリサリウスに命じて反乱を鎮圧し、帝位を守った。
ベリサリウス  ユスティニアヌス1世配下の名将。ニカの乱を鎮圧。ユスティニアヌス1世の命により、ヴァンダル王国を滅ぼし、非力な軍勢で東ゴート族との戦いを展開した。コンスタンティノポリスで凱旋式を挙行するなど、他に比肩するもののない軍功が仇になり、ユスティニアヌス1世の猜疑心を買い、対ペルシア戦、ブルガール戦へ左遷され、最後は処刑は免れたものの失脚に追い込まれた。
ナルセス  宦官。ベリサリウスの後任としてイタリア総督として、東ゴート征服を達成する。しかし、長年の戦争により、国土は荒れ果て、戦費調達のために重税を課され、人心はローマから離れてしまった。
ゲルマヌス  ユスティニアヌス1世の甥。ホスロー1世とのペルシア戦争、東ゴート戦に参加。東ゴートの王族マタスウィンタと結婚しており、ベリサリウスの後任としてイタリア方面軍を指揮することになったが、まもなく病死した。
ムンド  フン族系の部将。大王アッティラの孫を自称。ニカの乱の鎮圧、東ゴート征服戦に参加。ダルマティアでゴート軍に破れ戦死した。
ヒュパティオス  アナスタシウス1世の甥。ニカの乱で皇帝に担ぎ上げられる。しかし、ベリサリウスに反乱は鎮圧され、反乱首謀者と共に処刑された。
トリボニアヌス  異教徒の法学者。ユスティニアヌス1世の命により、ローマ法を体系化して後世に残した。
ヨハネス  親衛隊長(この頃には文官職に相当)。戦費調達の為、増税政策をとり、民衆から憎まれていた。ニカの乱では身柄引き渡しが要求されている。 
アントニア  ベリサリウスの妻。皇后テオドラの親友として、夫ベリサリウスをはじめ政治にも影響力を行使した。
プロコビオス  パレスティナ出身のベリサリウスの秘書。ベリサリウスに従い各地に従軍した。対ヴァンダル、ゴート戦について記した「戦史」、ユスティニアヌス1世について記した「秘史」を残す。
ホスロー1世  ペルシア王。アフリカ遠征を望んでいたユスティニアヌス1世と和平を結んだ。東ゴート戦が始まると条約を無視してシリアに侵入し、アンティオキアを占領したが、ユスティニアヌス1世の派遣したベリサリウスの軍勢に敗北。再度、ローマと和約を結んだ。
ヒルデリック  ヴァンダル王。ヴァレンティニアヌス3世の娘エウドクシアとガイセリックの息子フネリックの子。ゲリメルのクーデターで幽閉されていたが、ベリサリウス率いるローマ軍との戦闘が始まると、ヒルデリックのテオドシウス家に連なる血縁がローマに利用されるのを恐れたゲリメルによって謀殺された。
ゲリメル  最後のヴァンダル王。ヒルデリックより王位を簒奪。サルディニアの反乱討伐に軍隊を派遣している隙にベリサリウスの攻撃を受けて敗北。ヴァンダル王国は滅亡した。ゲリメル自身は小アジアに領土を与えられ生涯を全うしたといわれる。
 ヴァンダル族の騎兵はローマ軍下で再編成され、主にペルシア、バルカン方面で従軍した。
アマラスウィンタ  東ゴート女王。テオドリック1世の娘。親ローマ的立場でベリサリウスのヴァンダル征服戦争には中立を保持した。従弟テオダハトと共同統治的形式を取っていたが、テオドハトのクーデターで幽閉、殺害された。アマラスウィンタの死を口実にローマは東ゴート征服を行うことになる。
テオダハト  東ゴート王。テオドリック1世の甥。親ローマ派のアマラスウィンタを幽閉、殺害して、単独の東ゴート王となるが、それを口実にローマの侵略を招くことになる。一時は、ムンドの軍を撃退したが、優柔不断な態度に危機感を持った軍隊に退位を宣告され、ラヴェンナへの逃亡中に謀殺された。
 テオダハトの死によって、アマル朝(テオドリック1世の血筋)は断絶した。
ウィティギス  東ゴート王。テオダハトの死によって即位。フランク族と同盟し、巻き返しをはかったが、ラヴェンナでのベリサリウスとの会見で騙し討ちによりローマ軍の捕虜となった。
マタスウィンタ  テオドリック1世の孫娘。アマル家との血縁を利用したいウィティギスと結婚していた。ベリサリウスがラヴェンナを占領した時に捕虜となり、コンスタンティノポリスへ送られてユスティニアヌス1世の甥ゲルマヌスの妻となった。
トティラ  東ゴート王。ウィティギス降伏後に残存東ゴート軍から王に選出された。フランク族と連携して、イタリア半島でゲリラ戦を展開。2度に渡って、ローマを奪回したが、ナルセス軍との戦いで戦死した。
テヤ  最後の東ゴート王。モンス・ラクタリウスでナルセス軍に敗北、戦死した。

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

ユスティヌス2世帝
565〜578

 ユスティニアヌス1世の妹ウィギランティアの息子。ユスティニアヌス1世の死の情報を自身の支持者からいち早く入手し、元老院と共謀の上で皇帝即位を既成事実化する。
 即位直後にアルボインに率いられたランゴバルド族が大挙してイタリア半島に侵入。先帝時代の功臣ナルセスを更迭した直後で、新イタリア総督のロンギヌスはランゴバルド族の侵入の阻止に失敗。ラヴェンナやローマといった主要都市は確保したものの、イタリア北部の大部分をランゴバルド族に占領された。
 また、財政的な負担からペルシアへの貢納を停止。ペルシア王ホスロー1世との紛争を引き起こした。
 ペルシア軍の攻撃による、ザマ陥落の報を聞き発狂。他の皇族への帝位継承を望まなかった皇后ソフィアの推薦により、親衛隊長ティベリウスを後継者に指名。自身は退位し修道院でその後4年間の余命を保った。
 精神障害が退位の原因と言われているが、ギボンの記述を見る限りでは帝国運営の重圧に耐えかねて公務から逃げ出したというのが真相ではないかと思える。大帝ユスティニアヌス1世の栄光は早くも崩壊をはじめていた。

同時代人

人    物    評

ティベリウス  親衛隊長。皇后ソフィアの推薦で、ユスティヌス2世の養子となり帝位を継承。ユスティニアヌス朝の皇帝達と直接の血縁関係はない。
ソフィア  ユスティヌス2世の皇后。ユスティヌスの皇帝即位、ナルセスの失脚を画策したといわれる。ユスティヌス2世が発狂すると保身のためにユスティニアヌス朝の皇族を皇帝候補から外し、ティベリウス(2世)に帝冠を授けた。
ナルセス  ユスティニアヌス1世時代の功臣。宦官のイタリア総督。ランゴバルド族の侵入の直前に解任されナポリに追放された。
ロンギヌス  ナルセスの後任のイタリア総督。アルボイン率いるランゴバルド族のイタリア侵入の阻止に失敗。ローマ以北の地は再び蛮族の支配に戻った。
アルボイン  ランゴバルド王。アヴァール族と同盟しゲビデ族を滅ぼす。総督ナルセスの失脚により不安定な情勢にあったイタリアに侵入。メディオラムを含む半島北部を占領した。ロンバルディアと呼ばれるこの地方の語源は、ランゴバルド族の名に由来する。
 なお、この時にランゴバルド族の攻撃から逃れる為に、海上に避難したのがヴェネチアの起源である。
ロザモンド  ゲビデ族出身のアルボインの妻。陰謀によりアルボインを暗殺。報復をおそれて、イタリア総督ロンギヌスに降伏したが、自身もその後暗殺された。この一連の陰謀劇により、ランゴバルド族のイタリア征服事業は中断。以降、イタリア半島に小国が分立する契機となった。
ホスロー1世  ペルシア王。財政難から貢納を停止したローマを攻撃した。

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

ティベリウス2世帝
578〜582

 ユスティヌス2世配下の部将。バルカン方面司令官の職を経て首都コンスタンティノポリスの親衛隊長を勤めていた。ティベリウス2世の美貌に引かれたユスティヌス2世の皇后ソフィアの推薦により、精神疾患状態のユスティヌス2世と形式的な養子縁組を行い、皇帝に即位した。
 ティベリウス2世は、先帝の皇后ソフィアとの権力闘争に勝利し、イタリアへの食料援助を行うなど、様々な財政改革を行った。ギボンはティベリウス2世を極めて高く評価している。
 しかし、ティベリウス2世は即位後4年で病床の身となりペルシア戦線で功績を挙げたマウリキウスを後継者に指名して、まもなく死去した。
 ユスティニアヌス朝とは血縁のない皇帝。このティベリウス2世の時代にイスパニアの領土は再び西ゴートに奪い返されている。

同時代人

人    物    評

ソフィア  先帝ユスティヌス2世の皇后。プルケリア(アルカディウスの娘や)アリアドネ(レオ1世の娘)の様に、自身がティベリウスと結婚してアウグスタ(女帝)としての権力保持を望んだが、ティベリウスに拒絶された為、ゲルマヌスの息子ユスティニアヌスと共謀してクーデターを計画した。しかし、計画は事前に露見しティベリウスに捕らえられて、以後は年金生活をすごした。
ユスティニアヌス  ユスティニアヌス1世の甥ゲルマヌスの息子。ソフィアのクーデターに参加したが、ティベリウス2世に許された。
アナスタシア  ティベリウス2世の皇后。ユスティヌス2世とソフィアの娘。ソフィアとの結婚を望まないティベリウスが妻とした。
マウリキウス  東部国境の司令官。対ペルシア戦の軍功から、ティベリウス2世の養子に指名された。

 

 

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