ローマ帝国史略


繁栄の陰に

 バシレイオス1世によって、創始されたマケドニア朝。およそ180年に渡るこの王朝の時代、ローマ帝国は再び興隆の時代を迎える。
 ローマ帝国の支配領域は、かつての五賢帝時代はもちろんのことユスティニアヌス1世の栄光の再征服の時代に比べても遠く及ばない領土ではあったが、周辺諸国を圧倒する軍事力と古代から文化を継承し続ける首都コンスタンティノポリスの繁栄は、この時代の西欧諸国を大きく凌駕するものだった。
 これまでの時代とは違い、卑賤の出身者が皇帝となることはあったが、ロマヌス1世、ニケフォロス2世、ヨハンネス1世といった軍人皇帝達は、マケドニア王家と姻戚関係を結び、自身の権威を確保したものの、正統なマケドニア王家の血筋を滅ぼすことはしなかった。軍人皇帝達は征服戦争を繰り返し東西でローマの領域は拡大を続ける。そして、バシレイオス2世は、ついに長年に渡ってローマの脅威となっていたブルガリアを征服し、バルカン半島を完全にローマ帝国の領土とした。
 しかし、一方でこの長年に渡る安定の時代に


 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

バシレイオス1世帝
867〜886

 アルメニア系の貧農を出自とする軍人。バシレイオス1世の生家のあったトラキアががマケドニア・テマに属していたことから、マケドニア朝の名が取られている。
 ブルガリア王クルム・ハンによってブルガリア領内に拉致されていた住民の中にバシレイオス1世も含まれており、バシレイオス1世とこの住民たちはテオフィロス時代にローマ海軍によって救出されている。その後、マケドニア・テマで軍人となったバシレイオス1世は、ミカエル3世の御前剣闘試合でブルガリア人の剣闘士に勝利したことからミカエル3世に取り立てられて、ミカエル3世の側近となった。この頃のバシレイオス1世は、ミカエル3世の同性愛の相手を務めたとも言われている。ミカエル3世の愛人だったエウドキア・インゲリナと結婚したバシレイオス1世は、ミカエル3世の叔父で自身の政敵でもあるヴァルダスへのミカエル3世の猜疑心を利用して、ミカエル3世の面前でヴァルダスを暗殺し、これによりミカエル3世の共治帝にまで成り上がった。そして、バシレイオス1世はミカエル3世をも暗殺し、ついに単独皇帝となった。
 しかし、こういったバシレイオス1世の栄達の経緯から、即位当初のバシレイオス1世は不人気な皇帝だった。その為、バシレイオス1世はミカエル3世時代からの懸案となっていた“フォティウスの分離”の解決を目指し、ローマ教会によって承認を拒否されていたコンスタンティノポリス総主教フォティウス1世を解任し、先代の総主教であるイグナティウスを復権させている。しかし、結果的にフォティウス1世の罷免は、ローマ教会との融和には結びつかず、バシレイオス1世はフォティウス1世を再びコンスタンティノポリス総主教に登用した。
 西方世界で評判の悪かったイコン破壊運動の継続とブルガリアの勢力伸長によって、後退を強いられていたバルカン半島において、バシレイオス1世は再征服を押し進める。アドリア海においてアグラブ朝の海軍を撃退し、ローマはダルマティアにテマを置き、アグラブ朝、フランク王国との係争地となっていた南イタリアにも干渉を繰り返し、バーリを獲得している。また、キプロス島を一時的にではあるものの、7年間に渡って再占領した。その一方で、シチリア島に残された重要拠点だったシラクサをアグラブ朝に奪われている。
 東方においても、小アジアに広がっていた異端のパヴリキアン派の勢力を滅ぼし、指導者のフリソヘリスを戦死させた。さらに、アッバース朝との国境を巡って紛争を繰り返した。
 バシレイオス1世の時代には、法学書の改定が積極的に行われている。「ユスティニアヌス法典」と「エクロゲ」の手引書となる「プロヒロン」を編纂し、さらに「プロヒロン」を発展させる形で「エバナゴイ」が編纂されている。
 バシレイオス1世は、狩猟の際の落馬事故が下で死去する。後継者としては、最初の妻マリアとの子であるコンスタンティヌスが早逝していたことから、エウドキア・インゲリナとの子であるレオ(6性)が帝位を継承した。
 ローマ史において卑賤の身から立身して皇帝となった事例(ユスティヌス1世、レオ3世など)はいくつかあるが、異民族の支配地において奴隷同然の境遇から皇帝にまで栄達したバシレイオス1世は、その中でも特筆すべき経歴の持ち主である。その為か、フォティウス1世はバシレイオス1世はかつてのパルティアのアルサケス王家の血筋であるとの捏造まで行っている。しかし、皮肉なことにバシレイオス1世が始祖となるマケドニア朝以降、貴族の世襲化が進み、極端な成り上がり者が皇帝の地位を得ることはなくなってしまうことになる。

同時代人

人    物    評

コンスタンティヌス  バシレイオス1世と最初の妻であるマリアの子。バシレイオス1世の共治帝となるが、早逝する。
レオ(6世)  バシレイオス1世とエウドキア・インゲリナの子。異母兄のコンスタンティヌスと共に、バシレイオスの1世の共治帝となる。
アレクサンデル  バシレイオス1世とエウドキア・インゲリナの子で、レオの弟。異母兄のコンスタンティヌスの死後、バシレイオス1世の共治帝となる。
エウドキア・インゲリナ  バシレイオス1世の皇后。先帝のミカエル3世の愛人だったことから、レオ(6世)はミカエル3世との不義の子であるとの噂があったとされる。
フォティウス1世  コンスタンティノポリス総主教。ミカエル3世時代から続く“フォティウスの分離”の解決を図ったバシレイオス1世によって総主教位を解任される。しかし、フォティウス1世の解任後もローマ教会とコンスタンティノポリス教会の関係に改善は見られず、バシレイオス1世はフォティウス1世をコンスタンティノポリス総主教位に再任し、最終的にローマ教会もこのフォティウス1世の総主教位を承認した。
 フォティウス1世は即位前のレオ6世の家庭教師役も務めている。
イグナティウス  コンスタンティノポリス総主教。フォティウス1世の先代の総主教だったが、バシレイオス1世がフォティウス1世を解任した為、総主教位に返り咲いた。新たにキリスト教国となったブルガリアの管轄を巡って、ローマ教会と対立した。
 イグナティウスの死後、再びコンスタンティノポリス総主教位にはフォティウス1世が任じられている。
ニケフォロス・フォカス  バシレイオス1世配下の部将。東西の前線で、イスラム教徒との戦いに参加。
ハドリアヌス2世  ローマ教皇。ブルガリアの管轄権を巡ってコンスタンティノポリス総主教イグナティウスと対立する。
ヨハネス8世  ローマ教皇。自身の支持者であったカロリング朝の皇帝であるカール2世の死によって、窮地に陥ったヨハネス8世はコンスタンティノポリス教会に援助を求めたことの代償として、復位したフォティウス1世のコンスタンティノポリス総主教位について承認を与えた。
ボリス1世  ブルガリア王。ブルガリア領内における、ローマ及びコンスタンティノポリス教会の影響力の増加に対処する為、ローマ教会とも交渉を行い、自国語であるスラブ語によるキリスト教の布教を目指した。
ルードヴィヒ2世  カロリング朝の皇帝。シチリア島とイタリア南部に勢力圏を持つアグラブ朝からバーリを占領したことから、この領有権を巡ってローマと対立する。
 同時代人で同名の東フランク王ルードヴィヒ2世とは別人。
カール2世
(シャルル2世)
 カロリング朝の皇帝。初代西フランク(≒フランス)王でもある。仏、独、伊のもとが作られたヴェルダン条約、メルセン条約の当事者。ルードヴィヒ2世の死によってカール2世はイタリアを占領し、ローマ教皇ヨハネス8世の戴冠により皇帝となった。しかし、カール2世はまもなく死去し、ヨハネス8世は自身の庇護をコンスタンティノポリス宮廷に求めることになる、

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

レオ6世帝
886〜912

 バシレイオス1世とエウドキア・インゲリナの子。結婚前のエウドキア・インゲリナはミカエル3世の愛人であり、その関係はバシレイオス1世との結婚後も継続していたことから、レオ6世はミカエル3世の私生児であるとの噂があったようで、バシレイオス1世、レオ6世の両者もそのことを意識しており、親子関係は険悪なものだったと考えられている。即位前のレオ6世はバシレイオス1世によって投獄されていたことすらあり、本来はレオ6世の異母兄であるコンスタンティヌスへの帝位継承が既定路線だったが、コンスタンティヌスが早逝したことから、レオ6世は皇帝に即位することとなった。
 レオ6世はフォティウス1世の薫陶を受けており、非常に博識な人物だったとされる。レオ6世は修辞的な文章をを記し、技巧をこらした演説を行っていたと伝えられている。しかし、バシレイオス1世との不仲もあり、レオ6世とフォティウス1世との関係は悪化しており、レオ6世の即位後フォティウス1世は失脚した。
 レオ6世の治世においても、バシレイオス1世時代から継続して積極的に法典の整備事業が行われており、ローマ法の集大成と言われる「ヴァシリカ」が編纂されている。
 その一方でレオ6世は自身の後継者となる男子を得るべく4度の結婚を行いコンスタンティノポリス総主教ニコラウス1世と激しく対立する。レオ6世の4度目の妻となったゾエ・カルブノプシナとの間に生まれたコンスタンティヌス(7世)を嫡出子として帝位を相続させる為に、ゾエ・カルブノプシナとの婚姻は無効であると主張するニコラウス1世を罷免した。
 軍事的にはブルガリアのシメオン1世に敗退し、貢納の約束とテッサロニカ近郊までの領土割譲を条件に和約を結んだ。また、キエフ・ルーシ公国のオレグの派遣した海軍によって、コンスタンティノポリスは攻撃を受け、これに譲歩したローマは通商条約を結んでいる。
 晩年、病床の身となったレオ6世は、我が子コンスタンティヌス(7世)の身を案じ、不仲だった弟アレクサンデルをコンスタンティヌス(7世)の後見人に指名し、罷免したニコラウス1世を復権させた。死の床で、レオ6世は4度の結婚を悔い改め、ニコラウス1世に赦免されたと伝えられている。
 レオ6世は、同時代の歴史家からは賢帝と称されている博識な皇帝だった。この時代に編纂された「ヴァシリカ」は、ギリシア語によるローマ法の集大成として、後世にまでローマ法を伝える資料としても重要な位置を占めている。その一方で、レオ6世の4度の結婚によるコンスタンティノポリス教会との対立や、軍事的敗退によるブルガリア王シメオン1世への譲歩など、レオ6世の治世は万全なものではなかった。バシレイオス1世との複雑な父子関係など、評価の分かれる人物である。

同時代人

人    物    評

アレクサンデル  レオ6世の弟。父帝のバシレイオス1世時代には、共治帝となっていたが、レオ6世とは不仲で、実権は失っていた。
 しかし、レオ6世と4番目の妻であるゾエ・カルブノプシナとの息子であるコンスタンティヌス(7世)が誕生すると、レオ6世はアレクサンデルをコンスタンティヌス(7世)の後見人とした。
コンスタンティヌス(7世)  レオ6世とゾエ・カルブノプシナの子。子宝に恵まれなかったレオ6世の初めての男児であり、アレクサンデルを後見人としてレオ6世の共治帝となる。
スティリアヌス・ザウティス  レオ6世の側近で、ゾエ・ザウツィナの父。ローマ法の集大成とも言われる「ヴァシリカ」の編纂は、スティリアヌス・ザウティスの貢献が大きい。
フォティウス1世  コンスタンティノポリス総主教。レオ6世によって解任され、アルメニアに追放され、現地で死去した。
ステファヌス1世  コンスタンティノポリス総主教。レオ6世の弟。フォティウス1世を解任したレオ6世によって、コンスタンティノポリス総主教に指名される。
ニコラウス1世  コンスタンティノポリス総主教。フォティウスの甥。レオ6世の4度目の妻となった、ゾエ・カルブノプシナとの子であるコンスタンティヌス(7世)の洗礼の条件として、ニコラウス1世は、ゾエ・カルブノプシナとの婚姻を破棄することを求めた。しかし、レオ6世はゾエ・カルブノプシナとの離婚を実行せず、ニコラウス1世はコンスタンティノポリス総主教位から罷免、追放された。その後、レオ6世によって、ニコラウス1世は復権させられ、再びコンスタンティノポリス総主教に復職している。
テオファノ  レオ6世の最初の妻。子宝に恵まれずに死去する。
ゾエ・ザウツィナ  レオ6世の2番めの妻。スティアヌス・ザウティスの娘。テオファノと同じく、子宝に恵まれずに死去する。
エウドキア・ベアナ  レオ6世の3度目の妻。3度の結婚は本来違法であるが、コンスタンティノポリス教会の特別な許可により認められる。レオ6世との間に男児を産むが、エウドキア自身も男児もお産の際に死去している。
ゾエ・カルブノプシナ  レオ6世の4番目の妻。レオ6世の愛人だったが、男児(コンスタンティヌス7世)を産んだことから、レオ6世の皇后となった。
イメリオス  ローマ海軍の司令官。クレタ遠征の帰路、イスラム海軍にキオス島近郊で敗北する。
ステファヌス6世  ローマ教皇。ヨハネス8世が承認したフォティウス1世のコンスタンティノポリス総主教位に異議を唱え、これがレオ6世のフォティウス1世廃位の一因となったとされている。
ボリス1世  ブルガリア王。長子のウラディミルに王位を譲って隠遁生活を送っていたが、ウラディミルの政治姿勢に不満を持ったボリス1世は、ウラディミルの弟シメオンと結んで逆クーデターを起こして、ウラディミルを廃位し、復位した。
ウラディミル  ブルガリア王。ボリス1世の長男。ボリスが1世修道院に入り退位した際に、王位を継承した。しかし、ウラディミルはローマとの対決姿勢を明確にし紛争を引き起こしたため、復位したボリス1世と弟のシメオンによって廃位され、目を潰された上で、幽閉された。
シメオン1世  ブルガリア王。ボリス1世の息子でウラディミルの弟。若年時はコンスタンティノポリスにおいて、留学あるいは人質として神学を学んでいた。シメオンは帰国後に、ボリス1世の逆クーデターに協力して、兄のウラディミルを廃位し、復位したボリス1世からブルガリア王位を継承した。シメオン1世は北方においては、ローマと同盟を結んだ新興のマジャール族の侵入を許し、遷都したプレスラスを略奪されるなど劣勢を強いられるが、ローマ本国に対してはハドリアノポリス近郊で勝利を収め、貢納と領土の割譲を約束させた。
レオン・トリポリティス  イスラム教へ改宗したギリシア人の部将。イスラム海軍を率いてテッサロニカを占領、略奪し、これに乗じたブルガリア王シメオン1世の軍事行動を誘発する。また、キオス島近郊の海戦で、イメリオス率いるローマ海軍を撃破した。
オレグ  キエフ・ルーシ公国君主。コンスタンティンポリスに海軍を派遣し、ローマと通商条約を結ぶ。

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績
アレクサンデル帝
912〜913

 バシレイオス1世の子で、レオ6世の弟。異母兄のコンスタンティヌスの死後に、バシレイオス1世の共治帝となり、レオ6世時代にも引き続き共治帝の地位にあったが、アレクサンデル自身に政治的な実権はなかった。しかし、レオ6世が4度目の妻であるゾエ・カルブノプシナとの間の子であるコンスタンティヌス7世への帝位継承を望んだことから、アレクサンデルはレオ6世からコンスタンティヌス7世の後見人として指名され、レオ6世の死後アレクサンデルは、コンスタンティヌス7世を共治帝として正帝となった。
 帝位に就いたアレクサンデルは、レオ6世に対する報復人事とも言える行動を実行する。レオ6世によって復権させられていたニコラウス1世を再びコンスタンティノポリス総主教に任命し、クレタ遠征の失敗を口実にレオ6世時代に功績のあった部将のイメリオスを投獄した。さらに、コンスタンティヌス7世の生母であるゾエ・カルブノプシナを修道院に入れた。
 対外的には、アレクサンデルはレオ6世時代に条約を結んでいたブルガリアへの貢納を停止し、ブルガリア王シメオン1世のローマ領への侵入を引き起こした。
 このようにアレクサンデルの治世は、レオ6世時代の政策の否定を目指したものであり、現実に即した有効なものではなかった。アレクサンデルは酔っぱらってポロをしている際に事故死した為、1年あまりの帝位は終わりを告げ、レオ6世が望んでいた本来の後継者であるコンスタンティヌス7世が単独皇帝となった。

 コンスタンティヌス7世帝
913〜959

 レオ6世とゾエ・カルブノプシナの子。生母のゾエ・カルブノプシナは元々はレオ6世の愛人であり、レオ6世自身にとっても4度目の結婚であったことから、この婚姻はコンスタンティノポリス総主教ニコラウス1世には認められていなかった。その為、コンスタンティヌス7世の立場は不安定なものであり、レオ6世によって早くから共治帝の地位に就けられていたものの、レオ6世の死後も叔父アレクサンデルが皇帝となり、ゾエ・カルブノブシナは修道院に入れられ、自身は共治帝の立場のままとなっていた。しかし、アレクサンデルは即位後まもなく事故死し、これによってコンスタンティヌス7世はようやく単独皇帝となることが出来た。
 しかし、アレクサンデルの生存時から継続していたブルガリアとの戦争により、ブルガリア王シメオン1世の侵攻軍はコンスタンティノポリス城下にまで迫り、これに屈服したコンスタンティヌス7世はシメオンの娘と婚約し、コンスタンティノポリスに入城し戴冠したシメオン1世の皇帝位を承認させられた。
 これに不満を持ったゾエ・カルブノプシナは政治の表舞台に復帰し実権を握ると、コンスタンティノポリス総主教ニコラウス1世と協力し、シメオン1世の皇帝位の承認を拒否する。一時はゾエ・カルブノプシナの指導の下で、ローマは軍事的にもブルガリアやイスラム勢力に優位に立ったが、再びローマ領内に侵入したブルガリア王シメオン1世の軍にアケロスの戦いで敗退し、さらにコンスタンティノポリス近郊でも迎え撃ったローマ軍が敗北したことから、ゾエ・カルブノプシナの権威は失墜した。
 この情勢を見てとった海軍司令官のロマヌス・レカベノスは、自身の率いる軍勢を伴ってコンスタンティノポリスに上陸すると宮廷を占領し、コンスタンティヌス7世はロマヌス・レカベノスの娘ヘレネと結婚させられた。そして、ロマヌス・レカベノスはゾエ・カルブノプシナを再び修道院に入れ、自身はコンスタンティヌス7世の共治帝ロマヌス1世となり、コンスタンティヌス7世は完全に実権を奪われる。さらにロマヌス1世は自身の息子であるクリストフォロスを共治帝とした為、コンスタンティヌス7世は序列3位の共治帝の身分に甘んじることになった。この時代のコンスタンティヌス7世は、生来の資質があったと思われる学術研究や読書に没頭していたとされる。
 しかし、ロマヌス1世が後継者に望んでいた筈のクリストフォロスは早逝し、ロマヌス1世はコンスタンティヌス7世を自身の後継者として指名した。さらにこれに反発するロマヌス1世の子であるステファヌス、コンスタンティヌスの兄弟がクーデターを起こし、ロマヌス1世を修道院に幽閉すると、コンスタンティヌス7世はマケドニア王家の正統な血筋である自身へのコンスタンティノポリス市民の支持を背景に、帝位簒奪を狙うステファヌス、コンスタンティヌスの両兄弟を排除し、ついに単独皇帝に返り咲いた。
 ロマヌス1世が実権を握っている間に、既にブルガリアは弱体化しており、復権後のコンスタンティヌス7世の治世下では、東方にローマ軍の戦力を集中し、ニケフォロス・フォカス、ヨハネス・ツィイミスケスといった有能な部将の指揮の下、メソポタミアとシリアに勢力を伸ばした。また、キエフ・ルーシの摂政オリガはコンスタンティノポリス(もしくはキエフ)において、洗礼を受けたと伝えられている。
 コンスタンティヌス7世は、後継者として息子のロマヌス(2世)を共治帝としており、自身の著書である「帝国統治論」はロマヌス(2世)への教育を目的としたものと言われている。
 コンスタンティヌス7世の渾名である“緋御殿生まれ(ポルフュロゲニトゥス)”とは、皇族の出産が行われるポルフィラ宮殿にある緋色の石壁に覆われた部屋に由来しており、コンスタンティヌス7世こそが正統な皇帝の嫡出子であるとの意味が込められている。かつて、自身の出自に対しての正統性が疑われ続けていたコンスタンティヌス7世にとっては、皮肉な渾名と言えるが、ロマヌス1世に実権を奪われながらも軽挙妄動にかられることなく保身を果たし、マケドニア朝の血筋を後代に残したコンスタンティヌス7世の人生を象徴した渾名とも言えるだろう。

ロマヌス1世帝
920〜944
 アルメニア出身の軍人で海軍司令官。ブルガリアとの戦争により、コンスタンティヌス7世とゾエ・カルブノプシナの勢力が後退していたことを契機に、ロマヌス1世はコンスタンティノポリスへ海軍を率いて上陸し宮廷を占領する。ロマヌス1世は、コンスタンティヌス7世を自身の娘ヘレネと結婚させることによって皇帝の義父として実権を握り、コンスタンティヌス7世の摂政役だった生母のゾエ・カルブノプシナを修道院に入れた。
 さらに、ロマヌス1世はコンスタンティヌス7世の共治帝として正帝となると、自身の息子であるクリストフォロスをも共治帝に任命し、コンスタンティヌス7世を序列3位の共治帝の立場に追いやり、名実ともにロマヌス1世は皇帝としての権力を持つことになった。しかし、ロマヌス1世はコンスタンティヌス7世を殺害することなく、その権威を血縁関係によって利用するに留めていた。また、ヘレネの妹達を有力貴族に降嫁させることによって、ロマヌス1世の一族であるレカベノス家の権威を高めようとした。
 実権を握ったロマヌス1世は、まずブルガリアの侵攻への対処に迫られる。ロマヌス1世は、ブルガリア王シメオン1世が同盟を結ぼうとしていたエジプトのアラブ人との連携を妨害した。さらにロマヌス1世は、バルカン半島のクロアート族、セルビア族と同盟を結んだ。ブルガリアは、ハドリアノポリスを占領し、セルビアを壊滅させることによって、バルカン半島全域に勢力を伸ばしていたが、シメオン1世は急死してしまう。これによって、ブルガリアの勢力は後退し、ロマヌス1世は新たにブルガリア王となったペタル1世と和約を結んだ。
 シメオン1世の死によってバルカン半島の情勢が安定したことによって、東方においては名将クルクアス指揮下のローマ軍はタウロス山脈を越えてメソポタミアに侵攻し、ユーフラテス川にまで軍を進めた。
 しかし、ロマヌス1世が後継者と考えていた息子の共治帝クリストフォロスはロマヌス1世に先立って死去してしまう。ロマヌス1世の実子であるステファヌスらは無能であったとされ、ロマヌス1世は自身が事実上廃位していたコンスタンティヌス7世を政治の表舞台に復権させてロマヌス1世の後継者に指名した。このことに反発したステファヌスは、弟のコンスタンティヌスと共謀してクーデターを起こし、ロマヌス1世を強制的に退位させて修道院に隠棲させてしまった。このクーデターの結末は、コンスタンティヌス7世がマケドニア王家の嫡流である自身の権威によって、ステファヌス、コンスタンティヌス兄弟を排除し勝者となったが、ロマヌス1世が再び帝位の座を占めることはなく、プロテイ島の修道院でその波乱の生涯を終えたものと思われる。
 マケドニア朝という時代を象徴する軍人皇帝。東西において目覚ましい軍事的成果を残しており、ローマの中興に大きく寄与している。ロマヌス1世の権威は、娘のヘレネを嫁がせたコンスタンティヌス7世のマケドニア王家の血筋に依存していた。最終的にコンスタンティヌス7世は復位し、マケドニア朝の血筋を後代に残すことになったことも、ロマヌス1世の功績と言えるかもしれない。

同時代人

人    物    評

ゾエ・カルブノプシナ  レオ6世の寡婦で、コンスタンティヌス7世の母。アレクサンデルが即位すると、コンスタンティヌス7世は共治帝の地位を保っていたものの、ゾエ・カルブノプシナはアレクサンデルの意向によって修道院に入れられた。
 アレクサンデルの死後、ゾエ・カルブノプシナは修道院を出て単独皇帝となったコンスタンティヌス7世の摂政役として実権を握る。既にコンスタンティノポリス総主教ニコラウス1世によって戴冠していたブルガリアのシメオン1世の皇帝位の承認を拒否し、ブルガリアに軍事的圧力を加えた。しかし、このことによってブルガリアの再侵攻を招き、アケロスの戦いにローマ軍は敗北し、ゾエ・カルブノプシナの権威は失墜する。
 さらに、この機に乗じたロマヌス1世がコンスタンティヌス7世の共治帝として正帝帝となると、ゾエ・カルブノプシナは再び修道院に入れられた。
ニコラウス1世  コンスタンティノポリス総主教。コンスタンティノポリスに入城したブルガリア王シメオン1世に戴冠した。
クリストフォロス  ロマヌス1世の長子。皇帝に成り上がった父であるロマヌス1世によって、本来の正帝である筈のコンスタンティヌス7世より上位の共治帝となったが、ロマヌス1世に先立ち早逝した。
ステファヌス  ロマヌス1世の子で、クリストフォロスの弟。ロマヌス1世が、息子である自身ではなくコンスタンティヌス7世を後継者に指名したことに反発し、弟のコンスタンティヌスと共にクーデターを起こし、ロマヌス1世をプロティ島の修道院に入れたが、コンスタンティノポリス市民の支持を得ることは出来ず、コンスタンティヌス7世によって流刑に処せられた。
コンスタンティヌス  ロマヌス1世の子で、クリストフォロス、ステファヌスの弟。ステファヌスのクーデターに協力し、ロマヌス1世を失脚させることには成功したが、帝位に就くことは叶わずコンスタンティヌス7世によって流刑に処せられた。
テオフュラクトゥス  ロマヌス1世の子で、クリストフォロス、ステファヌスらの弟。ロマヌス1世の意向で去勢されて、宦官となり、聖職者としてコンスタンティノポリス総主教となった。テオフュラクトゥスは、ロマヌス1世の失脚後もその地位を保っている。
ヘレネ  ロマヌス1世の娘。マケドニア王家との姻戚関係を望んだロマヌス1世の意向により、コンスタンティヌス7世の妻となる。ステファヌス、コンスタンティヌス兄弟のクーデターに際しては、コンスタンティヌス7世に協力し、兄達の陰謀を通報した。
ロマヌス(2世)  コンスタンティヌス7世とヘレネの子。ロマヌス1世が失脚し、コンスタンティヌス7世が単独皇帝となった後に、共治帝となった。
テオファノ
(アナスタシア)
 ロマヌスの妻。平民の出身で、ロマヌスと結婚する際に本名のアナスタシアからテオファノに改名した。コンスタンティヌス7世の死因はテオファノによる毒殺との醜聞があるが、おそらくは冤罪か。
シメオン1世  ブルガリア王。アレクサンデルが貢納を停止したことから、ローマ領に侵攻しコンスタンティノポリスにまで軍を進めた。コンスタンティヌス7世が皇帝となると、コンスタンティノポリス城下にまで軍を進めたシメオン1世は、コンスタンティノポリスに入城して戴冠式を挙行し、皇帝の称号をローマに認めさせた。但し、この皇帝とは“ブルガリア人の皇帝”という限定的な地位であり、“ローマ人の皇帝”という普遍的な地位を意味するものではない。
 シメオン1世はその後もローマ領に侵入して、アケロスの戦いでローマ軍を撃破。さらに、ハドリアノポリスを占領し、セルビア族、クロアート族とも戦いを繰り返し、バルカン半島全域に支配権を及ぼした。また、シメオン1世の時代にブルガリアに総主教座を設置させた。
 しかし、シメオン1世の急激な拡張政策はブルガリアの国力を超えた無謀なものであり、シメオン1世の急死によって破綻し、ブルガリアの勢力は大きく後退していくこととなった。
ペタル1世  ブルガリア王。シメオ1世ンの子。シメオン1世の死後、ブルガリア王となり、ローマと和約を結び、ロマヌス1世の孫娘であるマリアと結婚した。
イメリオス  レオ6世配下の部将。レオ6世時代の敗戦を口実に、アレクサンデルによって幽閉された。
レオン・フォカス  バシレイオス1世時代の部将ニケフォロス・フォカスの子。アケロスの戦いでブルガリア軍に敗退する。ブルガリアとの敗戦により、レオン・フォカスの後ろ盾となっていたゾエ・カルブノプシナが失脚しロマヌス1世に実権が移ると、これに危機感を持ったレオン・フォカスは反乱を起こしたが、ロマヌス1世に鎮圧され、目を潰された。
クルクアス  ロマヌス1世配下の部将で、トラヤヌス帝やベリサリウスにも比肩すると言われる名将。ハムダーン朝支配下のメソポタミアの再征服を目指し、タウロス山脈を越えて侵攻を繰り返した。また、キエフ・ルーシのイーゴリがコンスタンティノポリスを襲撃した際にも、クルクアスが撃退の指揮を取った。
ヴァルダス・フォカス  レオン・フォカスの兄弟(弟?)。ロマヌス1世の失脚後に単独皇帝となったコンスタンティヌス7世に引き立てられて、東方の軍司令官となる。ハムダーン朝の軍との戦いに敗れる。
 ニケフォロス・フォカス  ヴァルダス・フォカスの子。父のヴァルダス・フォカスが戦傷したことにより、東方の軍司令官の地位を引き継ぎ、シリアに軍を展開する。
ヨハネス・ツィミスケス  コンスタンティヌス7世配下の部将。メソポタミアに侵入し、サモサタを占領する。
サイフ・アッダウラ  ハムダーン朝君主(アミール)。アルメニア、シリア、メソポタミアを巡って、クルクアスや他の部将が指揮するローマ軍と紛争を展開した。
イーゴリ  キエフ・ルーシ公国君主。2度に渡ってコンスタンティノポリスを攻撃したが、ロマヌス1世に撃退されている。
オリガ  キエフ・ルーシ公国の摂政。イーゴリの妻で、スヴャトスラフ1世の母親。コンスタンティノポリス(あるいはキエフ)において、キリスト教に改宗したと伝えられている。この改宗はあくまで、オリガの個人的なものではあったが、これ以降キエフ・ルーシにおいてのキリスト教の布教が進むこととなった。

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

ロマヌス2世帝
959〜963

 コンスタンティヌス7世とヘレネの子。父コンスタンティヌス7世の生前時より共治帝に就いており、父帝の死により単独皇帝となった。
 初めて政治の表舞台に立つこととなったロマヌス2世は、皇后のテオファノの意向にを受け入れる形で、母親のヘレネを摂政役から遠ざけ、5人の姉妹達を修道院に隠棲させた。ヘレネはこのことの心労により、まもなく死去している。
 軍事的には、コンスタンティヌス7世時代から東方軍司令官となっていたニケフォロス・フォカスは、イスラム海賊の根拠地となっていたクレタ島を占領し、ハムダーン朝の首都であるアレッポを一時的にではあるが占領下においた。ロマヌス2世自身は政治への関心はなく、有能な宦官官僚であるブリンガスを信任していた。
 ロマヌス2世狩猟に出かけた際の事故によって、急死してしまう。後継となるべきバシレイオス(2世)とコンスタンティヌス(8世)は、若年の幼児に過ぎず、マケドニア朝の皇族達は、再び軍人皇帝の庇護の下にある極めて不安定な境遇となった。

同時代人

人    物    評

テオファノ  ロマヌス2世の皇后。テオファノが宮廷内において権勢を誇る為に、ロマヌス2世の母であるヘレネを政界から追放し、ヘレネの娘でロマヌス2世の5人の姉妹を修道院に隠棲させた。ロマヌス2世の急死についても、テオファノの陰謀を疑われているが、これについては冤罪か。
ヘレネ  コンスタンティヌス7世の寡婦でロマヌス2世の母后。ロマヌスの2世皇后であるテオファノの意向により政界から追放される。
ブリンガス  ロマヌス2世に重用された宦官の官僚。
ニケフォロス・フォカス  コンスタンティヌス7世時代からの部将。長年イスラム海賊の拠点となっていたクレタ島を占領し、東地中海の制海権をローマに取り戻し、コンスタンティノポリスで凱旋式を挙行した。また、ハムダーン朝の支配地であるシリアのアレッポを一時的に占領し、東方におけるローマの優位を決定づけた。
ヨハネス・ツィミスケス
サイフ・アッダウラ  ハムダーン朝君主。ニケフォロス・フォカスから、シリアに攻撃を受けアレッポを占領される。
オットー1世  東フランク王。初代神聖ローマ帝国皇帝。
ヨハネス12世  ローマ教皇。

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

ニケフォロス2世帝
963〜969

 マケドニア朝に仕える名門貴族の軍人。ヴァルダス・フォカスの子。コンスタンティヌス7世の復権後に頭角を現し、クレタ島の再征服やアレッポの占領など、部将として絶大な功績を残した。
 ロマヌス2世の死により、帝位はバシレイオス(2世)とコンスタンティヌス(8世) の共同相続とされたが、いずれも幼児に過ぎず、不安定な政局を回避する為に両者の母后であるテオファノは、ニケフォロス2世と再婚することにより、ニケフォロス2世を皇帝に擁立しようとする。。
 ニケフォロス2世はこの即位に反対するブリンガスの軍をコンスタンティノポリス市街で破り、コンスタンティノポリス総主教ポリュエウクテスによって戴冠され、正帝となった。
 皇帝となったニケフォロス2世は、ロマヌス2世の治世下の自身も指揮を取っていた対外攻勢を継続し、東部国境に軍を進める。ニケフォロス2世はタウロス山脈を越えてシリアに軍を展開し、3世紀振りにアンティオキアを占領し、ローマの支配下に置くことに成功する。さらに、ハムダーン朝の拠点であるアレッポをロマヌス2世時代に続き再び占領し、ローマの宗主権を認めさせた。また、地中海においてもキプロス島を占領した。
 この一方で、西方においては、東フランク王のオットー1世はカロリング帝国に続く新たなローマ皇帝位を自称し、イタリア半島の大半を勢力下に置き、ニケフォロス2世と対立する。

同時代人

人    物    評

テオファノ  ロマヌス2世の寡婦で、ニケフォロス2世の皇后。
バシレイオス(2世)  ロマヌス2世の子。ロマヌス2世の死によって、弟のコンスタンティヌス(8世)と共に皇帝となったが、ニケフォロス2世の登位によって、共治帝として傀儡とされた。
コンスタンティヌス(8世)  ロマヌス2世の子でバシレイオス(2世)の弟。ロマヌス2世の死後、兄のバシレイオス(2世)と共に皇帝となったが、ニケフォロス2世が皇帝となった為に、共治帝の地位に留められた。
ヴァルダス・フォカス  ニケフォロス2世の父親。ニケフォロス2世によって、カエサルの称号を与えられる。
レオン・フォカス  ニケフォロス2世の兄弟(弟?)。ニケフォロス2世によって、西方の軍司令官に任命される。
ブリンガス  宦官。コンスタンティヌス7世、ロマヌス2世の2代に使えた有能な官僚。ニケフォロス2世の即位に反対したことから、ニケフォロス2世によってコンスタンティノポリスから追放された。
バシレイオス・ノソス  ロマヌス1世とブルガリア人奴隷の間に生まれた庶子で、宦官。ニケフォロス2世の即位を支持し、ニケフォロス2世の即位に反対するブリンガスとコンスタンティノポリスで軍を展開した。
ヨハネス・ツィミスケス  コンスタンティヌス7世、ロマヌス2世の治世下で活躍した軍人。ロマヌス2世の死後、ニケフォロス2世の即位を支持し、東方の軍司令官の地位を得る。しかし、ニケフォロス2世の猜疑心から、コンスタンティノポリスを追放される。
 その後、皇后のテオファノの計画するニケフォロス2世暗殺の陰謀に、ヨハネス・ツィミスケスも黒幕の一人として協力する。
ポリュエウクテス  コンスタンティノポリス総主教。
リウトプラント  クレモナ司教。神聖ローマ皇帝(東フランク王国)オットー1世の使節として、コンスタンティノポリスを訪問する。この成果が得られなかったこともあり、極めて偏見に満ちたローマ帝国の見聞録を記している。

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

 ヨハネス1世帝
969〜976

 

 

   

同時代人

人    物    評

 ポリュエウクテス  コンスタンティノポリス総主教。
テオファノ  ロマヌス2世、ニケフォロス2世の2人の皇帝の寡婦。ヨハネス1世と結んで、ニケフォロス2世暗殺の
テオドラ  コンスタンティヌス7世の娘で、ロマヌス2世の妹。

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

 バシレイオス2世帝
976〜1025

 ロマヌス2世の子。ロマヌス2世の死後、弟のコンスタンティヌス8世と共に皇帝になるが、両者共に幼少であったことから、ニケフォロス2世、ヨハネス1世の2代の軍人皇帝に実権を奪われ、名目上の共治帝の地位に

 

   

同時代人

人    物    評

   
   

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

 コンスタンティヌス8世帝
1025〜1028

 ロマヌス2世の子で、バシレイオス2世の弟。バシレイオス2世の治世時から、共治帝に就いていた。

 

   

同時代人

人    物    評

   
   

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

 ロマヌス3世帝
1028〜1034

 

 

   
ミカエル4世帝
1034〜1041
ミカエル5世帝
1041〜1042

同時代人

人    物    評

ゾエ  コンスタンティヌス8世の長女。
   

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

 ゾエ帝
1042

 コンスタンティヌス6世の娘。

 

   
テオドラ帝
1042、1055〜1056
 コンスタンティヌス6世の娘で、ゾエの妹。

同時代人

人    物    評

   
   

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績
コンスタンティヌス9世帝
1042〜1055

 ゾエと

 

   
ミカエル6世帝
1056〜1057

同時代人

人    物    評

イサキウス・コムネノス  
   

 

 

 

 

 

ローマ帝国史略

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