ローマ帝国史略


イスラムとの戦い〜イサウリア朝〜

 イスラム教徒との断続的な戦争により、ローマは大半の属州を喪失し、世界の中心コンスタンティノポリスは幾度となく異教徒の軍勢によって包囲された。ローマ帝国は滅亡の危機に直面する。
 しかし、ローマ帝国は滅びなかった。
 コンスタンティヌス4世は二度に渡ってイスラムの軍勢を撃退し、レオ3世はコンスタンティノポリス征服を夢見たカリフ、スレイマーンの派遣した大軍をも退けた。
 帝国最大の危機を克服した皇帝レオ3世は、イスラム教徒から小アジアを奪回し、ローマ帝国の威信を回復することに成功する。さらにレオ3世はイスラム世界に対抗しキリスト教世界の統一をはかるため、イコン破壊運動(イコノクラスムス)を推し進める。レオ3世の後を継いだ息子コンスタンティヌス5世によって強化されたこの宗教政策は、皮肉なことに蛮族への布教にイコンを必要とする西方のカトリック世界とローマ教皇をローマ帝国から引き離していくことになる。
 751年、イタリアのランゴバルド族によりラヴェンナ総督府は陥落し、ローマ市は蛮族の征服の矢面にさらされる。その時ローマ教皇ステファヌス3世が救援を求めたのは、コンスタンティノポリスの皇帝コンスタンティヌス5世ではなく、蛮族フランク人の国王ピピン3世だった。


 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

フィリピクス・バルダネス帝
711〜713

 ユスティニアヌス2世配下の部将。指揮官としてクリミア半島のケルソンへの遠征軍を率いていたが、遠征先の敵国である筈のハザール・ハン国と内通し、帝位簒奪を計画する。フィリピクスは前線から兵を率いてコンスタンティノポリスへ進軍するのと共に、刺客を放ち、暴政によって人心を完全に失っていたユスティニアヌス2世を暗殺。コンスタンティノポリスへ入城し、皇帝に即位した。
 しかし、フィリピクスが単性論の信者であったことから正統派を奉じるローマ教皇コンスタンティヌス1世と対立し、ローマ市では反皇帝の暴動まで起こった。
 ブルガリア王テルヴェルとの間での紛争が起こると、戦況はローマに不利に進み、首都コンスタンティノポリスはブルガリア軍に包囲される。その包囲戦の最中、フィリピクスは自身の誕生日の祝祭中に泥酔していたところを襲われ、目を潰された上で廃位され、おそらくはその後殺害された。

アナスタシウス2世帝
713〜715

 フィリピクスの書記官。本名はアルテミウス。フィリピクスがクーデターによって廃位されると、アルテミウスはコンスタンティノポリス元老院によって皇帝に擁立され、アナスタシウス2世と名を改め皇帝として即位した。
 フィリピクスと違い、アナスタシウス2世は正統派の信徒であったことから、単性論信仰を廃してフィリピクス時代には対立関係にあったローマ教皇コンスタンティヌス1世との和解に成功する。
 トラキアを巡って紛争状態だったブルガリア王テルヴェルとは和約を結び、バルカン方面の安定を図った。しかし、オプシキオン・テマの軍によって擁立されたテオドシウス(3世)がコンスタンティノポリスに海軍を派遣すると、これに破れたアナスタシウス2世はテッサロニカの修道院に入り退位した。
 その後、レオ3世時代にアナスタシウス2世は復位を企図し、クーデターを計画したが露見し、レオ3世によって処刑されている。

テオドシウス3世帝
715〜717

 小アジアの徴税士。オプシキオン・テマの軍が反乱を起こすと、自身は乗り気ではなかったようだがテオドシウス3世は皇帝として擁立され、コンスタンティノポリスへ海軍による遠征軍を派遣する。数ヶ月に渡る海戦を経て、オプシキオン・テマ軍はアナスタシウスを廃位し、テオドシウス3世は新帝としてコンスタンティノポリスへ入城した。
 しかし、イスラム教徒が小アジアの領内への軍事行動を開始すると、この混乱に乗じて、アナトリコン・テマ長官のレオとアルメニコン・テマ長官のアルタヴァスデスが挙兵する。テオドシウス3世を擁立したオプシキオン・テマ軍とアナトリコン、アルメニコン両テマ軍の争いの様相を呈したが、テオドシウス3世は敗北し、レオによって捕らえられた。テオドシウス3世はレオと交渉し、自身と一族の安全を確保した上で退位させられ、エフェソスの修道院に入った。

同時代人

人    物    評

コンスタンティヌス1世  ローマ教皇。東方教会の優位を主張するユスティニアヌス2世には従属していたが、単性論を奉じるフィリピクスが即位すると皇帝との関係は悪化し、ローマ市では単性論に反対する暴動が発生した。
レオ(3世)  アナトリコン・テマの長官。テオドシウス3世の即位の承認を拒否。イスラム教徒と同盟を結んで、アルタヴァスデスと共に挙兵。ニコメディアでテオドシウス3世を捕虜とし、強制的に退位させた。
アルタヴァスデス  アルメニコン・テマの長官。レオと共に挙兵し、テオドシウス3世を退位させた。
テルヴェル  ブルガリア王。ユスティニアヌス2世時代には復位に協力して、カエサルの称号を得ていた。ユスティニアヌス2世が失脚すると、コンスタンティノポリスを包囲するなど、帝国の領域を浸食していった。
ワリード1世  ウマイヤ朝カリフ。ブルガリアとローマの戦争の隙をついて、ユスティニアヌス2世が奪回していたアンティオキアを再占領した。また、西方ではアフリカからイスパニアに侵攻し西ゴート王国を滅ぼしたのも、このカリフの時代である。

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

レオ3世帝
717〜741

 ユスティニアヌス2世に登用された部将。本名はコノンであり、通称となっているレオの名は獅子を意味する渾名であるといわれている。テオファネス年代記の記述ではイサウリアのレオと呼ばれ、それが王朝名の通称(イサウリア朝)として使われているが、実際にはウマイヤ朝統治下にあった北シリアのゲルマニケイア出身である。
 ユスティニアヌス2世の植民政策によってトラキアへ移住。コンスタンティノポリスでユスティニアヌス2世に登用され、アナスタシウス2世時代にはアナトリコン・テマの長官に栄達していた。アナスタシウス2世がテオドシウス3世によって廃位されると、アルメニコン・テマ長官のアルタヴァスデスと共に挙兵し、ニコメディアでテオドシウス3世を捕虜とし退位させ、コンスタンティノポリスに入城後、皇帝に即位した。
 レオ3世即位時のコンスタンティノポリスは、危機的状態にあった。ウマイヤ朝カリフスレイマーンの弟マスラマに率いられた軍勢によって包囲され、海上もイスラム海軍によって封鎖されていた。レオ3世は巧みな戦術とギリシア火を主力武器としたローマ海軍、そしてブルガリア王テルヴェルの援軍によって、マスラマの遠征軍を撃退。さらに息子コンスタンティヌス(5世)とハザール・ハン国の王女を結婚させることによってハザール・ハン国と同盟を結び北方の防衛を確保。断続的に侵入を繰り返すイスラム教徒と戦いを繰り返し、最終的にアクロイノンの戦いに勝利したことによって、小アジアでのローマ帝国の軍事的優位を確定させることに成功した。
 国内政策としては、レオ3世はイスラム世界に対抗する必要から、イコン破壊運動(イコノクラスムス)を推し進めていく。この宗教政策は、イスラム教、単性説などイコンに批判的な教義を持つ住民が多い東方においてはローマ皇帝の権威を強化することに成功したが、イタリアを中心とする西方世界においては、逆にイコン破壊運動は全く受け入れられずローマ教会とローマ皇帝の関係は修復不可能なまでに悪化してしまい、イコン擁護派からは“サラセン好み”の渾名で呼ばれた。
 また、レオ3世の時代には「ユスティニアヌス法典」に代わって、ローマ法の手引き書として「エクロゲ」が編纂、発布され、マケドニア朝の時代にまで採用されている。
 レオ3世によって、東方の領土は回復され、ヘラクレイオス朝時代から続く、ローマ帝国の危機的状況は終わりを告げた。滅亡寸前のローマ帝国を復興した救国の英雄と言うべき皇帝。しかし、バルカン半島ではブルガリアやスラブ諸族によって多くの領土は失われたままであり、イコン破壊運動によってイタリアのローマ教皇との対立関係は悪化し皇帝の権威は西方世界には届かなくなっていた。いわゆる“ビザンツ帝国”もしくは”中世ローマ帝国”と呼ばれる時代の、区切りの一つとも言える皇帝である。

同時代人

人    物    評

コンスタンティヌス(5世)  レオ3世の子。ウマイヤ朝に対抗する為、レオ3世の意向で、ハザール・ハン国の王女と政略結婚し、同盟関係を構築した。
アルタヴァスデス  レオ3世の即位に協力した盟友。オプシキオン・テマの長官の地位を与えられ、レオ3世の娘アンナと結婚した。
スレイマーン  ウマイヤ朝カリフ。ワリード1世の弟。コンスタンティノポリス征服を目的として、弟マスラマを主将としてシリア・エジプトの軍勢を派遣した。スレイマーン自身はコンスタンティノポリス包囲戦の最中、シリアで病死している。
マスラマ  スレイマーンの弟。コンスタンティノポリス遠征軍を率いたが、ローマの反撃とブルガリアの援軍に苦戦。スレイマーンの死後、ウマル2世がカリフに即位し、退却命令が下されると、コンスタンティノポリスから軍勢を引き上げた。
テルヴェル  ブルガリア王。フィリピクス時代にはローマと抗争状態だったが、アナスタシウス2世時代に和約を結んでいた。ウマイヤ朝の軍勢がコンスタンティノポリスを包囲すると、レオ3世に協力しトラキア方面のイスラム教徒の軍を撃退した。
グレゴリウス2世  ローマ教皇。レオ3世のイコン破壊運動を批判。ランゴバルド王リウトプラントと結んでイタリア独立を画策した形跡もあったが、最終的にはレオ3世への忠誠を維持し、僭帝ペタシウス討伐に協力している。
グレゴリウス3世  ローマ教皇。レオ3世のイコン破壊運動を批判し、レオ3世を含むイコン破壊派を破門。レオ3世は、討伐に艦隊を差し向けたが、暴風によって失敗している。
リウトプラント  ランゴバルド王。グレゴリウス2世のイコン擁護政策を支持し、レオ3世と対立する。

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

コンスタンティヌス5世帝
741〜775

 レオ3世の息子。その宗教政策からイコン擁護派によって、コプロニュムス(糞)の渾名をつけられた皇帝としても知られている。
 ハザール・ハン国の王女(イレーネ)を皇后としレオ3世時代から、既に共治帝であった。レオ3世の死と共に、コンスタンティヌス5世の単独統治に移行するかに思えたが、レオ3世の盟友であったオプシキオン・テマの長官アルタヴァスデスが皇帝即位を宣言して、挙兵。小アジアを行軍中のコンスタンティヌス5世は急襲され、アモリオンまで逃亡した。オプシキオン、アルメニコン、トラキア・テマはアルタヴァスデスを支持したが、東方の諸テマにおいてはコンスタンティヌス5世の権威は健在であり、サルデスでアルタヴァスデス軍を、次いでモドリニでアルタヴァスデスの息子ニキタス軍を撃破。コンスタンティノポリスに連行したアルタヴァスデスと2人の息子の目を潰して、この反乱は鎮圧された。
 コンスタンティヌス5世は、ウマイヤ朝、ブルガリアに対して攻勢を繰り返し、小アジア、バルカン半島での領土の回復に成功する。キプロス近郊のケラメア港外の海戦に勝利したことによって、東地中海の制海権は再びローマのものとなった。また、ウマイヤ朝も内紛によって崩壊し、後継となったアッバース朝は小アジアから後退し、東方国境はローマ優位で安定する。
 しかし、その一方でイコン破壊運動によって決定的に関係が悪化していたローマ教会は教皇ステファヌス3世の密謀により、ローマ帝国からの離反を目的としてフランク王ピピン3世と結びつき、ランゴバルド族によって奪われたラヴェンナ総督領をフランクの軍事力によって自領とし、事実上のローマ帝国からの分離独立を達成する。ブルガリアとの戦争に追われていたコンスタンティヌス5世は、この西方の危機に有効な手だてを打つことが出来ず、ブルガリア王テレリグ討伐の為の遠征中、前線で病死した。
 コンスタンティヌス5世は、父レオ3世時代に続いて、イコン破壊運動を支持。イコン擁護派の司教や修道士に対しては、破門や地位剥奪、処刑も断行された。この強硬な宗教政策は、人々に嫌われコプロニュムス(糞)の渾名も、イコン擁護派によってつけられたものである。また、ローマ教皇ステファヌス3世がフランク王国と結びつき離反した原因もこの宗教政策に求められる。
 レオ3世に続いて、ローマ帝国の復興に尽力した名君。766年に行われた大規模な水道工事は、首都コンスタンティノポリスの人口が増加したことの証明とされている。しかし、西方世界の離反に歯止めをかけることは出来ず、イコン破壊運動はその傾向に拍車をかけることになってしまった。

同時代人

人    物    評

アルタヴァスデス  オプシキオン・テマの長官。レオ3世の死を契機に、イコン擁護派と結んで反乱を起こし、コンスタンティノポリスで戴冠した。自身がかつて支配していたアルメニコン、オプシキオン両テマとトラキア・テマはアルタヴァスデスを支持したが、それ以外のテマはイコン破壊派が優勢でコンスタンティヌス5世の支配下に留まった。
 オプシキオン・テマ軍を率いてコンスタンティヌス5世と戦ったが、サルデスで敗北。息子ニキタスの軍も破れて、コンスタンティヌス5世の捕虜となり目を潰され廃位された。
ニケフォロス  アルタヴァスデスの息子。アルタヴァスデスの共治帝となったが、反乱の失敗により、公衆の面前で辱めを受け目を潰された。
ニキタス  アルタヴァスデスの息子で、ニケフォロスの弟。アルメニコン・テマ軍を率いてコンスタンティヌス5世と戦ったが破れ、公衆の面前で辱めを受け目を潰された。
アナスタシウス  コンスタンティノポリス総主教。イコン擁護に同意しアルタヴァスデスに帝冠を与えたが、コンスタンティヌス5世が復帰すると再びイコン破壊派に転向してその地位を保った。
マルワーン2世  ウマイヤ朝カリフ。内紛状態にあったウマイヤ朝の立て直しに尽力し、一時はそれに成功する。しかし、アブー・アル・アッバースがカリフ位を宣言すると、マルワーン2世は大ザーブ河畔で決戦を挑んだが破れ、その後逃亡先のエジプトで殺害された為、ウマイヤ朝は滅亡した。
アブー・アル・アッバース  アッバース朝初代カリフ。イラクのクーファでカリフ位を宣言し、大ザーブ河畔の戦いでウマイヤ朝軍を撃破し、新王朝アッバース朝を創設した。アブー・アル・アッバースは、その後もウマイヤ家の生き残りを根絶やしにするべく、各地で繰り返し残党狩りを行った。
 このイスラム側の内乱により、ローマ帝国へのイスラムの軍事的脅威は激減することになる。
テレツ  ブルガリア王(ハン)。トラキアの領土奪回を目論むコンスタンティヌス5世にアンキアロスの戦いで、敗北。戦後、反乱によって殺害された。
テレリグ  ブルガリア王(ハン)。テレツの死後、混乱状態にあったブルガリアを立て直し、コンスタンティヌス5世と対峙。コンスタンティヌス5世の遠征軍にリリソリアの戦いで大敗する。
ステファヌス3世  ローマ教皇。ランゴバルド族のラヴェンナ占領に危機感を持ち、フランク王ピピン3世と密謀して出兵を要請。ラヴェンナ総督領を自領とし、イコン破壊運動で対立関係にあったコンスタンティヌス5世からの離反に成功する。(ローマ教皇領の成立)
ハドリアヌス1世  ローマ教皇。ランゴバルド王デシデリウスの軍事的圧力に対抗する為、フランク王カール1世に出兵を要請した。
アイストゥルフ  ランゴバルド王。ローマ帝国のイタリア支配の拠点だったラヴェンナを占領。ローマ市に圧力を加えた。ローマ教皇ステファヌス3世が、救援を求めたフランク軍が来寇すると、これに抗しきれずフランク王ピピン3世に屈服し、ラヴェンナはローマ教皇へ譲渡された。
デシデリウス  ランゴバルド王。ローマ教皇領への軍事的圧力をかけ、フランク王カール1世の共同統治者だった弟カールマンの遺児をフランク王として擁立しようと画策する。しかし、教皇ハドリアヌス1世の出兵要請に応えたカール1世が、軍勢を差し向けるとパヴィアに籠城したが抗しきれず、カール1世によって修道院に幽閉された。
ピピン3世(小ピピン)  フランク王。形骸化していたメロヴィング朝を廃して、カロリング朝を創設して王位を獲得した。ランゴバルド族の勢力拡張に危機感を持ったローマ教皇ステファヌス3世から、フランク王位の正統性の承認を得、その見返りとしてイタリアに進軍しランゴバルド族と戦いラヴェンナを占領し、ステファヌス3世に寄進した。
カール1世  フランク王。ハドリアヌス1世の要請によって、イタリアに出兵。ランゴバルド王国を滅ぼし、イタリアをフランク王国の勢力圏とした。また、ピピン3世のラヴェンナ総督領の寄進も、カール1世によって再承認が与えられている。

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

レオ4世帝
775〜780

 コンスタンティヌス5世の息子。母親がハザール・ハン国の王女だったことから、ハザール人の渾名で呼ばれていた。
 イコン擁護派のイレーネを妻としたことから、レオ4世はレオ3世、コンスタンティヌス5世時代とは違い、イコン破壊運動に消極的な政治姿勢を取った。このイコン擁護への方針転換は、レオ4世の死後もイレーネによって強硬に推し進められていくことになる。
 また、周辺諸国との領土交渉を有利に進める為に、滅亡したランゴバルドの王子アタルギスや、内乱によって王位を失ったブルガリア王テレリグの亡命を受け入れている。シリアでは、アッバース朝の皇太子ハールーン・アッラシードの軍勢と紛争を繰り返していた。
 レオ4世は虚弱体質だったこともあり、30才の若さで病死。帝位は息子のコンスタンティヌス(6世)へ継承された。

同時代人

人    物    評

コンスタンティヌス(6世)  レオ4世の息子で共治帝。父帝の死後、単独統治へ移行。
イレーネ  アテネ出身のレオ4世の皇后。レオ4世のイコン破壊運動への消極的姿勢は、イレーネの影響と言われる。
ニケフォロス  レオ4世の弟。ニケフォロスの支持者が簒奪の陰謀を企んだとして、クリミア半島のケルソンへ流刑にされたことがあったが、ニケフォロスやその他の弟達は許されたようである。
ミカエル・ラハノドラコン  レオ4世配下の部将。小アジアで、アッバース朝の皇太子ハールーン・アッラシードの軍勢を撃退した。
テレリグ  ブルガリア王(ハン)。王位を巡る内乱に敗北して、コンスタンティノポリスへ亡命した。
アタルギス  最後のランゴバルド王デシデリウスの子。カール1世がイタリアに出兵するとヴェローナに籠城していた。アタルギスは、ランゴバルド王国滅亡後、コンスタンティノポリスへ亡命している。

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

コンスタンティヌス6世帝
780〜797

 レオ4世とイレーネの子。レオ4世時代から共治帝であり、父帝の死により母后イレーネを摂政として10才にして単独皇帝となった。
 イコン崇拝復活を目指すイレーネによって、ニケーア公会議でイコン破壊令は破棄され、イコン破壊運動に参加した聖職者は処分された。
 コンスタンティヌス6世が成人すると、イコン破壊派とコンスタンティヌス6世は結託し、アルメニコン・テマの軍とミカエル・ラハノドラコンの支持の下、コンスタンティヌス6世を唯一の皇帝であるとの宣言を行ってイレーネをコンスタンティノポリス郊外のエレフセリオス宮に追放して、政治の実権を奪うことに成功した。しかし、イコン擁護派は再三に渡ってイレーネの復帰を要求した為、コンスタンティヌス6世はこれに抵抗出来ずにイレーネは再びコンスタンティノポリスに戻った。
 イレーネに対する優柔不断な政治姿勢とブルガリアとの戦争で敗北したことをきっかけに、レオ4世の弟ニケフォロスを首魁とする反乱が勃発する。この反乱はコンスタンティヌス6世によって鎮圧され、ニケフォロスの目を潰し、その弟達の舌を切断した上でイレーネの故郷であるアテネに幽閉することで決着する。しかし、この事件に連座する形で、アルメニコン・テマ長官のアレクシオスの目を潰したことから、アルメニコン・テマで再び反乱が起こり、皇帝コンスタンティヌス6世への不満が高まっていった。
 コンスタンティヌス6世が聖人フィラレトスの孫娘でもある皇后のマリアを離縁して、宮廷の使用人セオドティと再婚したことによって、多くの聖職者から批判を浴び、コンスタンティヌス6世はコンスタンティノポリス教会と対立した。この機会に便乗したイレーネはブルサで挙兵。東方遠征中だったコンスタンティヌス6世配下の軍を煽動して反乱を起こさせる。イコン破壊派、イコン擁護派のいずれからも見限られてしまったコンスタンティヌス6世は、イレーネの捕虜となりポルフィラ宮殿で目を潰され廃位された。
 母后イレーネへの対応の不味さが評価の全てというべき皇帝。個人的には、ネロ帝にちょっと似てるような気がします。

同時代人

人    物    評

イレーネ  コンスタンティヌス6世の母后で、事実上の共治帝。先帝レオ4世の時代からイコン崇拝の復活に尽力し、第二次ニケーア公会議でこの目的を達成する。成人したコンスタンティヌス6世が、イコン破壊派と結んでクーデターを起こすと、一時コンスタンティノポリスから追放されたが、イコン擁護派の支援によってコンスタンティヌス6世と和解し、政界に復帰した。
 コンスタンティヌス6世が、マリアと離縁して聖職界からの支持を失うと、ブルサで挙兵。軍隊の反乱を煽動してコンスタンティヌス6世を捕らえ、目を潰した上で廃位し自身が単独皇帝となった。
マリア  聖人フィラレトスの孫娘。イレーネの意向によって、美人コンテストでコンスタンティヌス6世の皇后となった。
セオドティ  コンスタンティヌス6世の宮廷における家庭教師。マリアと離縁したコンスタンティヌス6世の皇后となった。
ミカエル・ラハノドラコン  トラケシマン・テマの長官。イコン破壊派である為、イレーネによって、解任されたが、コンスタンティヌス6世との関係は良好だった。コンスタンティヌス6世とイレーネの政争では、コンスタンティヌス6世に協力してイレーネの追放に貢献した、
スタウラキウス  宦官。イレーネの相談役。
ニケフォロス  先帝レオ4世の弟。他の兄弟と共謀して、レオ4世時代から数えて三度に渡って帝位簒奪を計画。三度目の陰謀の失敗後、ニケフォロスは目を潰され、他の兄弟は舌を切断された上で、最終的にアテネに幽閉され、生涯を閉じた。アテネに送還される前に、コンスタンティノポリスで不虞となった兄弟が、無実を訴えたこともあったようである。
アレクシウス  アルメニコン・テマ長官。コンスタンティヌス6世とイレーネの政争時には、コンスタンティヌス6世を支持しイレーネの追放に貢献した。しかし、ニケフォロスの帝位簒奪を目的とした反乱が起こると、それに連座して目を潰され、アルメニコン・テマ軍の反乱を誘発した。
カール1世  フランク王。コンスタンティヌス6世の母后イレーネと協議して、自身の娘ロトルートとコンスタンティヌス6世を婚約させたが、結婚には至らなかった。

 

 

 

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