ローマ帝国史略


西の帝国、東の帝国

 イコン破壊派とイコン擁護派が対立し、混乱するローマ帝国。イコン崇拝の復活を目指すレオ4世の寡婦イレーネは、我が子コンスタンティヌス6世の目を潰して廃位し、自らローマ史上初めての単独の女帝としてコンスタンティノポリスに君臨した。
 この東方世界の混乱に乗じたフランク王カール1世は、ローマ教皇レオ3世と結託して、西方のローマ皇帝として即位を宣言する。往年の力を喪失して久しいコンスタンティノポリス宮廷は、この蛮族の暴挙を食い止めることは出来なかった。これ以降イタリアを初めとする西方世界は、コンスタンティノポリスのローマ帝国から完全に切り離された別の歴史を歩んでいくことになるのである。

 イコン破壊運動(イコノクラスムス)による政治的混迷はこれ以降も続く。イレーネが復活させたイコン崇拝は、レオ5世の時代には再び否定され、イコン崇拝の是非は帝位を狙う簒奪者達の大義名分に利用され続ける。
 しかし、この宗教運動はあくまで皇帝や軍人たちの主導によるものであり、結果的にこれに振り回されることになったローマ帝国内の聖職界の発言力は低下し、次代のマケドニア朝におけるローマ帝国の飛躍の一因となることになるのである。


 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

イレーネ
797〜802

 アテナの平民出身のレオ4世の皇后でコンスタンティヌス6世の母親。レオ4世、コンスタンティヌス6世両帝の時代において、イコン擁護の政治姿勢を示し、コンスタンティヌス6世の治世には、若年の息子の摂政として第2次ニケーア公会議をイレーネ自らが主催し、イコン破壊運動を撤回させることに成功した。
 その後、成人しイコン破壊派と結んだコンスタンティヌス6世と政治の主導権を巡って政争を繰り返したイレーネは、ブルサで挙兵し軍の反乱を煽動してコンスタンティヌス6世を捕虜とした上で目を潰して廃位し、ローマ史上初めて単独の女帝となった。
 イレーネはコンスタンティノポリス市民の人気取りの為に、イコン破壊運動によって追放されていた聖職者を呼び戻して復権させ、国庫を無視する大幅な減税を行った。
 皇帝の称号としては、女性形のバシリサではなく、敢えて男性形のバシレウスを使っていた。これは、皇帝が持つ軍の指揮権を女性が行使することに問題があり、そのことを意識していた為だと考えられている。
 コンスタンティヌス6世時代から、小アジアを巡ってアッバース朝と紛争を繰り返していたが、ハールーン・アッラシードの軍勢にコンスタンティノポリス沿岸にまで侵入を許し、貢納を条件に和睦を結んだ。
 ローマ教皇レオ3世は、法理論上は今なおローマ帝国の属領であるローマ教皇領を完全にローマ帝国から切り離すことを目的として、女性であるイレーネの簒奪を承認せず、代わってフランク王カール1世に帝冠と皇帝の称号を授けた。イレーネはこの蛮族の横暴に対して、カール1世の帝位の承認は拒否したものの、実質的にカール1世の即位を阻止することは出来なかった。
 イレーネの放漫な経済政策と対外的な威信の低下を危惧したと思われる財務総監のニケフォロスは、コンスタンティノポリス総主教タラシウスと結んでクーデターを起こし、イレーネを廃位し自ら皇帝となった。イレーネは、最初はプリンギポス島に、その後にレスボス島へ流刑され、現地で死去した。
 イレーネは、生涯の政治課題として来たイコン崇拝の復活により、ギリシア正教会では聖人に列せられている。しかし、コンスタンティヌス6世時代の、イコン破壊運動を巡る母子の内紛と、それに伴いミカエル・ラハノドラコンら有力な軍人を粛正したことにより、アッバース朝やブルガリアに大幅な譲歩を許すことになった。また、この混乱に乗じたローマ教皇とフランク王国は、独自の皇帝を選出してそれを既成事実化し、ローマ帝国の権威を大きく失墜させることとなった。

同時代人

人    物    評

ニケフォロス(1世)  財務総監。イレーネの放漫な経済政策に危機感を持ち、クーデターによって、イレーネを流刑にし、帝位を簒奪した。
カール1世  フランク王。ローマ教皇レオ3世と共謀し、正帝(アウグストゥス)の地位を自称する。
レオ3世  ローマ教皇。形式的には、コンスタンティノポリスのローマ皇帝の臣下の立場にあった、ローマ教皇の立場を強化する為に、フランク王カール1世にローマ皇帝を自称させた。
ハールーン・アッラシード  アッバース朝カリフ。イコン崇拝を巡るローマの混乱に乗じて、小アジアに侵入。ローマに対して、貢納を約束させた。

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

ニケフォロス1世
802〜811

 アラビア系の移民を祖先とする財務官僚。ニケフォロス1世自身もイコン崇拝の支持者であったこともあり、イレーネに取り立てられて財務総監にまで栄達した。
 コンスタンティヌス6世からイレーネに帝位が移ると、イレーネは簒奪者で女帝であるというその不安定な地位を維持するべく、自らの支持母体でもあるイコン擁護派への人気取りの為に、国庫を無視した放漫な財政政策を行った。このことに危機感を持ったと思われるニケフォロス1世はクーデターによってイレーネを幽閉し、その後イレーネをレスボス島へ流刑した上で、ニケフォロス1世自らが帝位に就いた。
 皇帝となったニケフォロス1世はイレーネのばらまき政策を改めて、緊縮財政を推し進める。さらに、財務官僚出身であるという経歴を活かしてニケフォロス1世は全国規模の税務調査を行い、様々な新税を創設する。ニケフォロス1世は帝国内の住民からは憎まれることになったが、財政の再建には成功する。また、ニケフォロス1世は、スラブ諸族の侵入によって放棄していたバルカン半島へ住民を強制的に移住させ、植民を推し進めた。テオファネス年代記には、ニケフォロス1世の実施したこれらの経済政策について10大悪政として記されている。
 コンスタンティヌス6世の軍事的失敗により、ブルガリアとスラブ諸族によって後退を余儀なくされていたバルカン半島で、ニケフォロス1世は攻勢に打って出ることになる。マウリキウス帝の時代より200年以上に渡って、支配権を失っていたペロポネソス半島を再びローマ領に組み込むことに成功し、ブルガリアとも戦端を開いた。ニケフォロス1世自ら率いる遠征軍によって、一時は2度に渡ってブルガリアの首都ブリスカを占領し、略奪を行った上でこれを焼き払った。しかし、この戦勝に奢ったニケフォロス1世は、ブルガリア王クルムが提示する和平を受け入れず、進軍の途上ブルガリアの伏兵に襲われ敵地で戦死した。ニケフォロス1世の頭蓋骨はクルムによって、酒杯にされたと伝えられている。
 徹底的な重税主義を採用したことから、ニケフォロス1世に対する同時代人の評価は低いが、近年の史家の間にはこの経済政策を評価する声も高い。ブルガリアに対する決定的な軍事的失敗さえなければ、ニケフォロス1世は名君として名を残すことも出来た皇帝だったのかも知れない。

スタウラキウス
811

 ニケフォロス1世の息子。ニケフォロス1世の生前から共治帝に就いており、ニケフォロス1世のブルガリア遠征に従軍していた。ニケフォロス1世がブルガリアとの戦闘で戦死したことによって、スタウラキウスは結果的に遠征先で単独皇帝となった。
 スタウラキウスは敗兵を率いてローマ領内への帰還には成功するが、ブルガリアとの戦闘によって負傷しており、満足に政務を取ることは出来ない状況にあった。スタウラキウスの妹の夫であるミカエルは、この状況に乗じて宮廷の支持を集めて帝位に就くと、スタウラキウスは修道院に隠棲し、まもなく死去したといわれる。

同時代人

人    物    評

ミカエル(1世  ニケフォロス1世の娘婿。ニケフォロス1世がブルガリアで戦死し、生き残ったスタウラキウスも重傷を負っていたことから、ミカエルは宮廷内で帝位継承者と見なされていた。ニケフォロス1世の寡婦テオファノは、ミカエルの即位に反対しており、スタウラキウス自身も退位に同意しなかった為、ミカエルはクーデターによって簒奪を既成事実化し、スタウラキウスを退位させた。
テオファノ  ニケフォロス1世の皇后。ニケフォロス1世の死後も、ミカエルの即位に反対していた。
バルダネス  アナトリコン・テマ長官。後の皇帝である、レオ(5世)やミカエル(2世)、そして反乱者のトマスが配下にいたことで知られる。ニケフォロス1世に対して反乱を起こすが、レオやミカエルらの裏切りの為に失敗する。おそらく、後世の捏造だと考えられるが、レオとミカエルが皇帝となることと、トマスの破滅を予言していたとされる。
クルム  ブルガリア王(ハン)。フランク王国との戦争によって疲弊したアヴァール族からその支配地を奪取し、さらにトラキアへの侵攻を行った。バルカン半島の再征服を目指すニケフォロス1世の遠征軍に対しては、首都ブリスカを二度に渡り占領される。しかし、クルムは、山地においてローマ軍を撃退、ニケフォロス1世をも戦死させた。
ハールーン・アッラシード  アッバース朝カリフ。コンスタンティヌス6世、イレーネの時代から続いていた貢納をニケフォロス1世が停止したことにおり、小アジアに侵入しキプロス島で略奪を行い、ニケフォロス1世に再び貢納を約束させた。

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

ミカエル1世
811〜813

 ニケフォロス1世の娘プロコピアの夫。ニケフォロス1世がブルガリア遠征で戦死し、その後を継いだ息子のスタウラキウスも戦傷により公務を取ることが困難な状況にあったことから、ミカエル1世は宮廷内の支持を集めてクーデターを起こし帝位に就いた。
 ミカエル1世の帝権は安定しておらず、宮廷内有力者の意向に左右されることが多かった。その為、ニケフォロス1世の時代に実施された反発を招く経済政策のいくつかは撤回されたようである。
 宗教的にはミカエル1世はイレーネ時代から引き続いてイコン擁護派の皇帝であり、教会の保護に努めた。
 イレーネ時代に皇帝即位を宣言していたフランク王カール1世に対しては、ミカエル1世は従前の方針を覆してこの帝位を承認し、その見返りに係争地となっていたヴェネチアをローマ領とする条約をカール1世と結んだ。
 ブルガリア王クルムが再びトラキアに侵入するとハドリアノポリス近郊でこれを迎え撃った。しかし、アナトリコン・テマ長官のレオが離反したために、この戦いに敗北する。
 さらに、コンスタンティノポリスに軍勢を伴って転進したレオが帝位を要求すると、コンスタンティノポリス市民、元老院、聖職界のいずれもがミカエル1世の支持を約束していたにも関わらず、ミカエル1世はレオの反乱軍に抵抗することなくレオに帝位を譲り、まもなく病死したとも、30年以上の余命を保ったとも言われる。
 ミカエル1世の融和政策により、フランク王カール1世の皇帝即位は承認を与えられた。しかし、これはあくまで皇帝(アウグストゥス)の称号を認めたのみで、“ローマ人の皇帝”たる資格を認めた訳ではない。この経緯により、以降の時代には意識的に“ローマ人の皇帝”という称号が使用されるようになった。

同時代人

人    物    評

 レオ(5世)  アナトリコン・テマの長官。ブルガリアとの会戦において、配下の軍勢を率いてコンスタンティノポリスに転進し、ミカエル1世を退位させて自ら皇帝に即位した。
プロコピア  ニケフォロス1世の娘でミカエル1世の皇后。
カール1世  フランク王。ヴェネチアを巡ってローマ軍と紛争を繰り広げたが、ヴェネチアをローマ領と認めることの見返りに、ローマにカール1世の皇帝位を承認させた。
 クルム  ブルガリア王。 トラキアに侵入し、ハドリアノポリス近郊の戦いでローマ軍を破った。

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

レオ5世帝
813〜820

 アルメニア系の軍人。その出自から“アルメニア人”の、変節を重ねた経歴から“カメレオン”の渾名で知られる。バルダネスの反乱を裏切ったことからニケフォロス1世に登用されたが、その後不正によって解任された。ミカエル1世によって再び登用され、レオはアナトリコン・テマの長官に任命された。ブルガリアのクルム・ハンとの戦いの最中に、レオ5世は自身の率いるアナトリコン・テマの軍勢によってコンスタンティノポリスを急襲。ミカエル1世を退位させ、レオは皇帝に即位した。
 レオ5世の即位後も続いていたブルガリアの侵攻に対して、コンスタンティノポリスの陥落は免れたものの、ハドリアノポリスが占領・略奪されるなど、ローマは大きな損害を被った。しかし、クルムの病死により、レオ5世はトラキアの割譲と引き換えにブルガリアと和平を結んだ。また、小アジアにおいても、ハールーン・アッラシードの死後は、アッバース朝の内紛によって東方においても国境は安定する。
 宗教的には、レオ5世はイコン破壊派であり、イレーネ以降の治世では停止されていたイコン破壊運動を再開させる。イコン擁護を支持するコンスタンティノポリス総主教ニケフォロス1世を解任し、イレーネが主催しイコン崇拝を復活させた第2次ニケーア公会議の決定を否定した。しかし、レオ5世のイコン破壊運動の再開は、帝国内で広い支持を集めることは出来なかったようである。
 かつての同僚だったミカエルと対立すると、レオ5世はミカエルを逮捕し、処刑を宣告する。しかし、たまたまクリスマスだったことから、処刑が延期された。この機会に便乗したミカエルの支持者は、聖ソフィア寺院での祈祷中のレオ5世を切り殺して、ミカエルを皇帝に擁立した。

同時代人

人    物    評

 ミカエル(2世)  即位前のレオ5世と共に反乱者バルダネスの部下だった軍人。レオ5世の盟友として、皇帝となったレオ5世の統治下で栄達した。しかし、レオ5世に謀反の嫌疑を着せられた上で、逮捕され処刑の宣告まで行われる。ミカエルは絶望的な状況にあったが、ミカエルの支持者はレオ5世の暗殺に成功。ミカエルは死刑囚の身から、一転して帝位に就くこととなった。
ニケフォロス1世  コンスタンティンポリス総主教。イコン破壊運動の再開を目指すレオ5世に抵抗し、イコン崇拝の正当性を主張したが、廃位された。
クルム  ブルガリア王。ミカエル1世の退位とそれに伴うレオ5世の即位の混乱中も、ローマ領への侵攻を継続。2年近くに渡ってコンスタンティノポリスを包囲し、ハドリアノポリスを占領、略奪するなどローマに大きな損害を与えたが、急死する。
オムルタグ  ブルガリア王。クルムの死後、ブルガリア王位を継承する。レオ5世と30年を期限とする和約を結んだ。

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

ミカエル2世帝
820〜829

 レオ5世と共に反乱者バルダネスの部下だった軍人。ミカエル2世以降3代に渡るアモリア朝の創始者。吃音だったことから、“吃り”の渾名でも知られる。
 バルダネスの死後はニケフォロス1世に仕え、その後レオ5世の同士として即位に協力した。しかし、政権の主導権を巡ってレオ5世と対立を深めると、レオ5世によって捕えられ処刑を宣告されるに至ったが、その間際にミカエルの支持者によってレオ5世は暗殺され、ミカエル2世は皇帝に即位した。あまりにも急激な即位劇だったこともあり、ミカエル2世は足枷がついた状態で玉座に座ったとも伝えられている。
 ミカエル2世の即位後、アナトリコン・テマ長官のトマスがアッバース朝の支援の元に帝位を僭称し、大規模な反乱を起こした。トマスはアジア側のテマから帝位を承認され、コンスタンティノポリを2年以上に渡って包囲を続けたが、ミカエル2世はブルガリア王オムルタグと同盟を結び、ブルガリアの援軍によってトマスの包囲は解かれ、後にトマスを捕虜とし処刑した。
 ミカエル2世はトマスの反乱の鎮圧には成功したものの、この混乱によって、地中海の重要拠点であるクレタ島を占領され、シチリア島もアグラブ朝の攻撃を受けている。また、コンスタンティノポリス包囲戦の際に、ローマ領内が無政府状態となったことが、軍管区制(テマ制)の崩壊のきっかけとなったと言われている。
 ミカエル2世は皇帝としての権威を安定させる為、廃帝コンスタンティヌス6世の娘であるエウロフシュネと結婚している。また、レオ5世に続いてミカエル2世もイコン破壊派ではあったが、イコン擁護派への積極的な迫害は行っていない。

同時代人

人    物    評

トマス  アナトリコン・テマの長官。帝位に就く前のレオ5世やミカエル2世と共に、反乱者バルダネスの部下だった軍人。イコン擁護派の支持を背景に、自身が廃位されたコンスタンティヌス6世であると自称して、反乱を起こした。アッバース朝カリフマームーンと同盟し、アジア側の諸テマに帝位を承認させた。しかし、コンスタンティノポリスの包囲戦で、ミカエル2世と同盟したブルガリア軍に敗れる。その後ミカエル2世に捕らえられ、四肢を切断にされ見せしめにされるという残酷な方法で処刑された。
エウロフシュネ  イレーネに廃位されたコンスタンティヌス6世の娘。コンスタンティノポリス元老院の要請によりミカエル2世の皇后となったが、子宝には恵まれなかった。
オムルタグ  ブルガリア王。ミカエル2世と同盟を結び、コンスタンティノポリスを包囲していたトマスの反乱軍を敗走させる。
マームーン  アッバース朝カリフ。ローマの内紛に介入し反乱者のトマスと同盟を結んでいたが、トマスの敗死によりマームーンの目論見は失敗に終わる。
アブ・ハーフス  後ウマイヤ朝から出奔した私掠船団の首領。エジプトのアレクサンドリアでアッバース朝と干戈を交えた後に、ローマ帝国統治下のクレタ島を占領した。

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

テオフィロス帝
829〜842

 ミカエル2世の息子。イコン破壊運動(イコノクラスムス)を支持した最後の皇帝としても知られる。
 ミカエル2世の生前から共治帝となっており、その死後単独皇帝となった。当初はイサウリア朝の後裔でもある義母エウロフシュネを摂政としていたが、テオドラと結婚して以降はテオフィロス自身が政権を運営した。
 テオフィロスは厳格な性格であったとされ、父帝レオ5世がミカエル2世に対して起こしたクーデターに協力した人々を処刑にしたエピソードがしばしば紹介される。
 テオフィロスの治世は、周辺のイスラム勢力の絶え間ない侵入への対応に追われることになる。東方においてはアッバース朝の、イタリアにおいてはアグラブ朝の軍勢とそれぞれ紛争を繰り返した。アッバース朝カリフムスタシムの大遠征に対しては、テオフィロス自らがローマ軍を率いて戦ったが敗北し、小アジアの拠点であり王朝(アモリア朝)発祥の地でもあるアモリアンが占領された。次いで、同時期にイタリアにおいてもタレントを占領されている。
 テオフィロスの治世において、行われた最後のイコン破壊運動は苛烈なものだったようで、イコン擁護派の聖職者に対して数々の弾圧を行ったことが伝えられている。
 晩年のテオフィロスは病床の身となり、若年の後継者である息子ミカエル(3世)の身を案じ、反乱を起こしたことがあるテオフォブスを処刑。皇后のテオドラを含む多くの廷臣にミカエル(3世)を託して病没した。

同時代人

人    物    評

エウロフシュネ  ミカエル2世の寡婦でテオフィロスの義理の母親。即位時のテオフィロスの側近を務めたが、テオフィロスがテオドラと結婚した後に、修道院に隠棲した。
テオドラ  美人コンテストによって選ばれたとされるテオフィロスの皇后。テオフィロスは熱心なイコン破壊派だったが、テオドラはイコン擁護派として見なされていた。
テオフォブス  イスラム勢力に滅ぼされたペルシアの王族の血縁とされる部将。テオフィロスの妹を妻としていた。テオフォブスは亡命ペルシア人の軍団の司令官を任されていたが、反乱が起き、このペルシア人兵士達に同国人の王となることを望まれたものの、テオフォブスはこれを拒絶しテオフィロスへの忠誠を保持した。しかし、テオフィロスによって、テオフォブスは息子であるミカエルへの帝位継承の障害であるとみなされ、処刑された。
ムスタシム  アッバース朝カリフ。マームーンの弟。小アジアに大規模な遠征軍を送り込み、テオフィロス自ら率いるローマ軍を破り、アモリオン、アンカラを占領した。

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

ミカエル3世帝
842〜867

 テオフィロスの息子。マケドニア朝の史家によって、“酔っ払い”との不名誉な渾名がつけられている。
 ミカエル3世の即位時は僅か8歳に過ぎなかった為、即位当初は母后のテオドラと宦官のテオクティストゥスが摂政役として政治を取り仕切った。テオドラがイコン擁護派だったこともあり、ミカエル3世の即位直後にイコン破壊令は破棄され、イコン崇拝の復活が宣言され、これ以降イコン破壊運動(イコノクラスムス)は終息に向かっていくことになる。
 ミカエル3世が成人すると、私生活にまで干渉を行うテオドラにミカエル3世は不満を持ち、テオドラの兄の叔父ヴァルダスと結んで逆クーデターを起こし、テオドラを失脚させ、テオクティストゥスを処刑した。
 ミカエル3世の治世下では、対イスラムの軍事行動が活発に行われている。イタリア方面においては、アグラブ朝に多くの都市を占領されるなど劣勢を強いられ、シチリア島においてはシラクサ周辺のみに支配権は縮小したが、小アジアにおいては、アッバース朝の侵攻を幾度も撃退し、さらにエジプトのダミエッタへ2度に渡って海軍を派遣して城塞を破壊している。さらに、バルカン半島へも勢力を伸ばし、ブルガリア王ボリス1世を屈服させ、キリスト教(ギリシア正教)へ改宗させている。
 ミカエル2世の親政と共にコンスタンティノポリス総主教に就任したフォティウス1世の指導の下、メトディオス、キュリロス兄弟による各地への布教が行われた。また、俗人出身であるフォティウス1世のコンスタンティノポリス総主教位を巡ってローマ教皇ニコラウス1世とコンスタンティノポリス教会は対立し、いわゆる“フォティウスの分離”と呼ばれる事態が起こった。しかし、この事件によってローマ教会は歴史的に有していたコンスタンティノポリス教会への優位性を失うという結果を招き、ブルガリアのギリシア正教会への改宗に伴うブルガリア王ボリス1世への洗礼もフォティウス1世によって行われている。
 ミカエル3世の護衛役を務めていたバシレイオス(1世)は、ミカエル3世がヴァルダスに不信感を持っていることを利用して、ミカエル3世の黙認の下にヴァルダスを暗殺し、ミカエル3世の共治帝となった。ミカエル3世はバシレイオス1世に対しても、猜疑心を持ち解任しようとしたが、バシレイオス1世は先手を打って酒宴で泥酔していたミカエル3世を暗殺した。
 ミカエル3世を暗殺したバシレイオス1世が次代のマケドニア朝の創始者だったこともあり、ミカエル3世は同時代人やギボンなど史料研究が進んでいない時代の史家から不当な評価を受けているが、実際には無能な皇帝ではない。ヴァルダス、フォティウス1世、キュリロスなど有能な人材の活躍により、マケドニア朝におけるローマ帝国の中興の基盤はこのミカエル3世の治世において準備されていたものであり、日本においても今後の再評価が望まれる人物である。

同時代人

人    物    評

テオドラ   テオフィロスの寡婦でミカエル3世の母后。幼少で即位したミカエル3世の摂政役として、実質的に政務を主導した。テオフィロスの治世時から、イコン擁護派と目されており、コンスタンティノポリス総主教に同じくイコン擁護派のメトディオス1世を任命して、イコン崇拝の復活を宣言させた。また、異端のパヴリキアン派を徹底的に迫害した。
 しかし、成人したミカエル3世がヴァルダスと結んで逆クーデターを起こすと、政治の主導権を奪われ、その後復権を図ったものの、それにも失敗し修道院へ幽閉された。
テオクティストゥス  テオドラの側近の宦官。テオドラの治世の有能な補佐役だったが、ミカエル3世が逆クーデターを起こした際に処刑された。
ヴァルダス   テオドラの兄。ミカエル3世の逆クーデターに協力したことから、副帝(カエサル)に昇進した。ミカエル3世の親政において、実質的に政権の運営を担った。2度目のエジプト遠征はヴァルダスの主導の下に行われている。しかし、ヴァルダスとミカエル3世との関係が悪化すると、廷臣のバシレイオスはミカエル3世を唆して、ミカエル3世の黙認の下にヴァルダスはバシレイオスによって暗殺された。
シンヴァティオス  ヴァルダスの養子。ヴァルダスが暗殺されたことから、反乱を起こすがバシレイオスに鎮圧される。
バシレイオス(1世)  トラキア出身の軍人。ミカエル3世の護衛役から立身しミカエル3世の愛人だったエウドキア・インゲリナと結婚した。ヴァルダスに不信感を持っていたミカエル3世の黙認の下にヴァルダスを暗殺し、ミカエル3世の共治帝となった。その後、ミカエル3世がバシレイオスを解任しようとすると、先手を打って酒宴の際にミカエル3世をも暗殺した。
エウドキア・インゲリナ  バシレイオスの妻にしてミカエル3世の愛人。バシレイオスとの結婚後もミカエル3世との関係は続いており、バシレイオス(1世)との間の子であるレオ(6世)は実はミカエル3世の子であるとの噂があったようである。
イグナティウス  コンスタンティノポリス総主教。ミカエル1世の実子であり、父帝の死後去勢され宦官となるという特異な経歴の人物。テオドラが失脚した時に、総主教の地位から退任した。その後もコンスタンティノポリス教会内において、イグナティウスの権力は健在であり、イグナティウス派とフォティウス1世派の間で主導権争いが繰り返されている。
フォティウス1世  コンスタンティノポリス総主教。フォティウス1世が聖職者の経歴を持たない俗人出身だったことから、ローマ教皇ニコラウス1世と対立し、いわゆる“フォティウスの分離”と呼ばれる東西教会の分裂状態を招いた。
 また、メトディオスとキュリロスのハザールやスラブ人への布教を命じたことや、ブルガリア王ボリスへの洗礼を行った人物としても、よく知られている。
メトディオス  テッサロニカ出身の聖職者。弟のキュリロスと共にモラヴィア、キエフ、ハザールなどへの布教を行った。
キュリロス  テッサロニカ出身の聖職者。本名はコンスタンティヌス。兄のメトディオスと共にモラヴィア、キエフ、ハザールなどへの布教を行った。聖書をスラブ語に翻訳し、現在のスラブ・アルファベットの母体となるキリル文字を創始したと伝えられている。
 ニコラウス1世  ローマ教皇。俗人出身のコンスタンティノポリス総主教フォティウス1世の承認を拒否し、コンスタンティノポリス教会と対立する。
ボリス1世  ブルガリア王。東フランク王ルードヴィヒ2世と同盟を結んだことにより、危機感を持ったローマ軍の侵攻を誘発した。ボリスは、ローマ軍と戦端を交えることなく屈伏。キリスト教(ギリシア正教)への改宗を受け入れた。
ルードヴィヒ2世  東フランク王。ブルガリア王ボリスに接近したことから、ローマのブルガリア侵攻を誘発した。ちなみに、同時代のカロリング朝の皇帝ルードヴィヒ2世は、中フランク王国の系譜になる別人。

 

 

ローマ帝国史略

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