ローマ帝国史略


再建者達

 ローマ帝国の崩壊を食い止めるべく奮闘を続けたガリエヌスは、目的を果たすことなくこの世を去った。西方においてはポストゥムス亡き後もガリア帝国は健在であり、東方においてもパルミュラの実権を握ったオダイナトゥスの寡婦ゼノビアの反乱により、ローマの支配権は及ばなくなっていた。
 しかし、イリュリクム出身の軍人皇帝達は、この危機を乗り切る。クラウディウス2世は32万人と呼称するゴート族の侵入を阻止し、アウレリアヌスはパルミュラを滅ぼしゼノビアを虜囚の身とし、ガリエヌスが征服し得なかったガリア帝国をも屈服させ、再び地中海世界はローマの元に統一された。世界の復興者アウレリアヌスは凶刃に倒れ、その後も混迷の時代は続いたが、ディオクレティアヌスの登位によって軍人皇帝時代はようやく終わりを告げる。
 絶え間ない内乱と相次ぐ外敵の侵入は、ローマ帝国の国力を著しく低下させた。五賢帝時代にトラヤヌスが獲得した属州ダキアは蛮族の手に引き渡され、周辺異民族を圧倒する軍事力の故に城壁を必要としなかったローマ市にすら、アウレリアヌスは城壁を築かせた。まだ先の時代のことではあるものの、実際にこのアウレリアヌスの長城を巡ってローマ軍と蛮族は攻防を繰り広げることになるのである。


 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

クラウディウス2世帝
268〜270

 ガリエヌス配下の部将。イリュリュクム出身。ゴルディアヌス2世の私生児との噂もあったようだが、おそらくは卑賤の出自である。
 ガリエヌスの僭帝アウレオルス討伐戦に参加していたが、クラウディウス2世自身が関与していたとも言われるガリエヌスの暗殺によって、配下の軍隊によってクラウディウス2世は皇帝に擁立された。
 クラウディウス2世はミラノに籠城するアウレオルス軍を降伏に追い込み、捕虜としたアウレオルスを処刑した。さらに、クラウディウス2世はガリア帝国へ遠征軍を送り込み、ローヌ川以東の地を奪還し、ガリア帝国に帰属していたイスパニアをローマの支配下に取り戻すことに成功した。
 クラウディウス2世はゲルマン系の蛮族にも対処を迫られる。イタリア半島にまで侵入していたアレマンニ族を撃退。さらに、クラウディウス2世はガリエヌス時代から継続していたゴート族との紛争を引き継ぎ幾度も勝利を重ねた。ゴティクスの尊称は、この対ゴート戦における戦勝に対するものである。
 しかし、その一方でパルミュラの支配者となったオダイナトゥスの寡婦ゼノビアは、ローマに反旗を翻して挙兵。属州エジプトに兵を進めた。
 クラウディウス2世はゴート族に対する軍事行動を優先していたこともあり、ガリア帝国の再征服もパルミュラの反乱の鎮圧に着手することも叶わなかった。クラウディウス2世はゴート族を襲った疫病に自身も感染してしまい、そのまま病死した。
 軍人皇帝時代の後半に活躍するイリュリクム出身の皇帝の最初の一人。ローマ帝国の再統一はアウレリアヌスによってなされるが、クラウディウス2世もアウレリアヌスに引けを取らない有能な皇帝である。また、クラウディウス2世は、ほとんどの皇帝が寿命を全うできなかった軍人皇帝時代において、自然死した数少ない人物の一人としても有名である。

クインテルス帝
270

 クラウディウス2世の弟。クラウディウス2世が前線で病死した時は、アクレイアでイタリアの守備を任されていた。
 クインテルスは元老院によって、皇帝の即位を認められる。しかし、その直後にドナウ軍はクインテルスの即位の承認を拒否し、騎兵隊司令官アウレリアヌスの皇帝即位を宣言した。元老院もこのアウレリアヌスの即位を追認する。
 クインテルスはアウレリアヌス挙兵の報を聞くと、元老院もクインテルスを見放してしまった状況に絶望し、医者に自らの血管を切開させ自殺した。

同時代人

人    物    評

アウレリアヌス  騎兵隊司令官。クラウディウス2世から、クインテルスへの帝位継承を承認せず、皇帝即位を宣言して挙兵する。
ポストゥムス  ガリア帝国皇帝。配下のラエリアヌスの反乱を鎮圧した際に、自軍に略奪を許可しなかった為に、配下の兵士に殺害されてしまった。
ラエリアヌス  ポストゥムス配下の高地ゲルマニア総督。ポストゥムスに対して、帝位を僭称し反乱を起こしたが鎮圧された。
マリウス  ガリア帝国皇帝。ポストゥムスの死後帝位に就くが、間もなく口論によって殺害された。
ウィクトリアヌス  ガリア帝国皇帝。マリウスの死後皇帝に即位する。クラウディウス2世の遠征軍によって、ローヌ川以東の地をローマに奪還され、イスパニアの属州タラコネンシス、ルシタニア、パエティカはウィクトリアヌスの即位を承認せず、ローマに寝返った。ウィクトリアヌス自身は、部下の妻を寝取ったことを恨まれ殺されている。
ゼノビア  オアダイナトゥスの寡婦にして、パルミュラの実質的な支配者。ローマに反旗を翻し、属州エジプトに軍を進める。
ヴァバラトゥス  オダイナトゥスとゼノビアの子。名目上のパルミュラ領主。

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

アウレリアヌス帝
270〜275

 ガリエヌス配下の部将。イリュリュクム出身。ガリエヌスの治世時から騎兵隊司令官の地位にあり、僭帝アウレオルス討伐の際のミラノ包囲戦におけるガリエヌスの暗殺は、アウレリアヌスの主導によるものとも言われる。
 クラウディウス2世が病没した際には、アウレリアヌスはドナウ沿岸で軍務に就いており、クラウディウス2世の後継者たらんとしたクインテルスの帝位を承認せず、アウレリアヌスは自ら即位を宣言して挙兵した。元老院は既にクインテルスの即位を承認していたものの、実力者のアウレリアヌスの皇帝宣言を追認することによってクインテルスを自決に追い込み、アウレリアヌスは単独皇帝となった。
 アウレリアヌス即位時のローマ帝国は、西方のガリア帝国と東方のパルミュラによって、多くの属州はローマの支配の及ばない状態にあり、ローマ領に侵入を繰り返す蛮族への対処も求められる状況にあった。
 アウレリアヌスはガリエヌス、クラウディウス2世が継続していた蛮族との紛争の為に、即位後すぐにドナウ沿岸に引き返し、ヴァンダル族、サルマタエ族の侵入を阻止した。さらに、イタリア半島にまで侵入していたユトゥンギ族とマルコマンニ族を苦戦の末に撃退した。アウレリアヌスは、イタリア半島にまで次々と蛮族が侵入する状況に対し、ローマにいわゆる“アウレリアヌスの長城”の建築を命じている。
 さらに、アウレリアヌスはドナウ北岸に進軍し、ゴート族に打撃を与えたものの、属州ダキアの維持は困難であるとしてその領有を放棄した。
 東方においては、パルミュラ女王ゼノビアによって、エジプト、シリア、小アジアの支配権を奪われていたが、アウレリアヌスは自ら軍勢を率いて、アンティオキア郊外の戦いでパルミュラ軍を撃破。パルミュラを包囲し、逃亡しようとするゼノビアを虜囚の身とすることに成功し、パルミュラを降伏させた。その後、再びローマに反旗を翻したパルミュラに対し、アウレリアヌスは占領、略奪を行い、徹底的に破壊している。
 西方のガリア帝国に対しても、アウレリアヌス自らが親征し、シャロン・スュル・マルヌの戦いでガリア帝国軍を破って、最後のガリア帝国皇帝テトリクスを降伏させることに成功し、アウレリアヌスはローマを15年振りに統一した。
 アウレリアヌスはローマ市で凱旋式を挙行し、捕虜としたゼノビアやテトリクス父子を市民の前で晒し者にしている。アウレリアヌスはこれらの功績によって、元老院から“世界の復興者”の称号を与えられた。
 アウレリアヌスはさらにペルシアへの遠征を計画し、ペリントゥスまで軍を進めた所で、アウレリアヌスに処罰を受けることを恐れた秘書官エロスの陰謀によって暗殺されてしまった。
 アウレリアヌスは、パルミュラとガリア帝国の征服によって、ローマを再統一し、蛮族に対しても幾度も勝利を重ねた、最も優秀な軍人皇帝である。しかし、属州ダキアの放棄とローマに城壁を築かせるという決断は、ローマ帝国が衰退しつつあることを端的に示している。
 アウレリアヌスは、自身に対しても他者に対しても非常に厳格な人物だったとされ、厳しい軍立を自身の側近であっても適用しそれが原因となって命を失っている。その一方でアウレリアヌスは、ゼノビアやテトリクスといったローマに反旗を翻した首謀者を処刑することなく寛大な処遇を与えるといった、不思議な二面性を持った人物である。

同時代人

人    物    評

ウィクトリア  ウィクトリアヌスの母親。ウィクトリアヌスの死後、軍隊に賄賂を贈ることによってアクィタニア総督テトリクスをガリア皇帝に擁立した。
テトリクス  ガリア帝国皇帝。アクィタニア総督の地位にあったが、ウィクトリアによって皇帝に擁立される。アウレリアヌスの遠征軍にシャロン・スュル・マルヌの戦いに敗北したテトリクスは、アウレリアヌスに降伏し、ガリア帝国は滅亡した。
 テトリクスはその後も生き延び、アウレリアヌスによってイタリアのルカニア総督の地位を与えられている。
(小)テトリクス  ガリア帝国皇帝テトリクスの同名の息子。テトリクスによって、副帝(カエサル)の地位を与えられていた。父子共にアウレリアヌスに降伏した後には、アウレリアヌスによって(小)テトリクスも元老院の地位を与えられている。
 ゼノビア  パルミュラ女王。クラウディウス2世の治世時よりローマへの反乱を継続。エジプト、シリア、小アジアに支配権を確立して独立勢力を築き、息子のヴァパラトゥスを皇帝に擁立した。しかし、アウレリアヌスの遠征軍によってパルミュラは包囲され、ゼノビアはペルシアに援軍を要請する為に脱出を図ったがローマ軍に捕らえられた。
 その後、ゼノビアはアウレリアヌスによってローマの凱旋式で見せしめにされ、まもなく死去したとも、別荘を与えられて余生を保ったとも伝えられる。
ヴァバラトゥス  ゼノビアの息子にして、パルミュラの名目上の領主。ゼノビアによって皇帝に擁立される。
セプティミウス・アンティオクス  ゼノビア失脚後のパルミュラ領主。オダイナトゥスの次子とも言われるが、真偽は不明。アウレリアヌスがパルミュラから退去した後に、ローマの守備兵を殺害し、パルティアの実験を握り、セプティミウス・アンティオクスは皇帝即位を宣言した。しかし、引き返して来たアウレリアヌスの奇襲に敗れ、パルミュラは徹底的に破壊された。
フィルムス  エジプトの豪商。アレクサンドリアで帝位を僭称したが、パルミュラ遠征中のアウレリアヌスの軍に敗退、処刑された。
フェリキシムス  解放奴隷出身の貨幣鋳造所の監理官。アウレリアヌスの行おうとしていた貨幣の改鋳に対して反乱を起こしたが、カエリウス丘上の戦いに敗れ、鎮圧された。
エロス  アウレリアヌスの秘書官。不当収奪について、アウレリアヌスに叱責を受けたことから身の危険を感じ、将兵を扇動してアウレリアヌスを暗殺した。その後、陰謀が露見し、エロスは生きたまま身を引き裂かれて、処刑された。

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

タキトゥス帝
275〜276

 老齢の元老院議員。同名の歴史家タキトゥスの血縁を自称していたとされるが、おそらくは自身による捏造か。アウレリアヌスが暗殺され帝位が空白になった際に、目立った帝位候補者がいなかった為に、軍隊と元老院が談合した結果タキトゥスは皇帝に擁立された。
 タキトゥスはアウレリアヌスが率いていたペルシア遠征軍の指揮を引き継ぎ、その軍を伴い小アジアまで行軍した所で、病死したとも暗殺されたとも言われる。
 タキトゥスは、ローマ元老院が主体的に皇帝に指名したほぼ最後の皇帝と言える。ガリエヌス時代以降の元老院の地位の低下は、タキトゥスの死後により顕著となっていくことになる。
 余談だが、タキトゥスはクラウディウス2世と同様に、軍人皇帝時代に自然死した(少なくともその可能性が高い)皇帝の一人であのだるが、一般向けの書籍などでは何故かクラウディウス2世しか取り上げられず、タキトゥスの名前は言及されないことが多い。

フロリアヌス帝
276
 親衛隊長。タキトゥスの異父弟とされるが、真偽は不明。タキトゥスの死後、元老院に指名される前に即位を宣言した。元老院は、このフロリアヌスの即位劇を承認する。
 しかし、フロリアヌスがヘルリ族との紛争中に、属州エジプトとシリアの軍団によってプロブスが対立皇帝として擁立された。フロリアヌスはこの反乱を鎮圧する為に、シリア近郊のタルソスでプロブス軍と対峙したが、配下の兵士にクーデターを起こされてしまう。フロリアヌスは説得を試みたが、叶わず、そのまま殺された。

同時代人

人    物    評

マエキウス・ファルトニウス  タキトゥス即位時のコンスル。ローマ元老院で、タキトゥスの即位を支持する演説を行った。
プロブス   東方属州の軍団の司令官。プロブスの即位に対して、配下の軍団によって皇帝に擁立された。

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

プロブス帝
276〜282

 ヴァレリアヌスに登用された部将。イリュリクム出身。ヴァレリアヌスがペルシアで虜囚の身となって以降は、ガリエヌスの下で昇進を重ね、アウレリアヌスがパルミュラを征服して以降は、東方のローマ軍団の指揮を任されていた。フロリアヌスが皇帝となると、プロブスはこの東方の軍団によって皇帝に擁立され、フロリアヌスとタルソスで対峙。フロリアヌスがクーデターによって謀殺されたことから、プロブスは単独皇帝となった。
 帝位に就いたプロブスは、ライン河を超えてガリアに侵入する蛮族への対処を実行に移す。プロブスは、2年に渡ってゲタエ族、ヴァンダル族、リギア族といったゲルマン系の蛮族との紛争を繰り返し、これの撃退に成功した。さらに、各地の属州で帝位を僭称する反乱を鎮圧した。
 これらの戦勝を記念して、プロブスは即位後初めてローマに入城して凱旋式を挙行した。この凱旋式は極めて大規模なものであり、何百頭ものライオンやヒョウなどの猛獣狩りや、捕虜とした蛮族の兵士の剣闘士試合を見世物としてローマ市民に提供したことが記録に残っている。
 プロブスは戦闘で打ち破ったゲルマン系の蛮族をローマ領内に定住させ、その多くを軍隊に編入させている。また、プロブスは平時においては軍隊の規模を縮小することを公言しており、ローマ帝国内の各地に葡萄畑を作ることを奨励し、軍隊にこの作業に従事させていた。このようなプロブスの姿勢に不満をまった兵士たちによって、プロブスは反乱を起こされてしまい、惨殺されてしまった。
 この時代に活躍したイリュリクム出身の軍人皇帝の一人。アウレリアヌスと違い、プロブスは側近に対しては温和な人物であり、元老院との関係も良好だった。軍人皇帝時代の混乱により疲弊していたローマ領の国土の復興を目指すプロブスの思惑は必ずしも、自らの支持母体でもある軍隊には受け入れられていなかった。

同時代人

人    物    評

リュディウス   イサウリア人の盗賊の指導者。小アジアの広範囲で匪賊集団を率いていたが、プロブスの討伐軍との戦いで戦死した。
セムノ  ゲルマン系とされるリギア族の王。ガリアに大軍で侵入したが、プロブスの軍との決戦に敗北し、捕虜の身となった。セムノは解放されたが、それ以降のリギア族についての記録は残っていないようである。
ボノスス  プロブス配下の部将。ケルンでプロクルスと共に帝位を僭称したが、プロブスの軍に敗北し、自殺した。
プロクルス  プロブス配下の部将。ケルンでボノススと共に帝位を僭称したが、プロブスの軍に敗北し戦死したとも、フランク族を頼って落ち延びたものの、プロブスの元に送還されて処刑されたとも言われる。
サトゥルニヌス  シリア総督。アレクサンドリアで帝位を僭称したが、自身の配下に殺された。
カルス  親衛隊長。プロブスが暗殺された後に、軍隊によって皇帝に擁立される。この暗殺劇は、事前にカルスが計画していたものとの説もあるようである。

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

カルス帝
282〜283

 ガリア出身の部将。プロブスが暗殺された際には、ライン河近郊で新兵の訓練に従事していたが、軍隊がカルスを皇帝に指名するとシルミウムに駆けつけ即位した。
 皇帝となったカルスは、自身の息子のカリヌスとヌメリアヌスを副帝(カエサル)に指名し、さらに長子のカリヌスは正帝(アウグストゥス)に昇進させ西方属州の統治を任せた。
 カルス自身は、既にプロブスが計画していたペルシア遠征を実行に移す。カルスの遠征軍は、メソポタミアを征服し、セレウキアとクテシフォンを無血開城した。しかし、カルスはこの遠征中に、突然落雷によって亡くなったと伝えられている。
 カルスは歴代皇帝の中でも極めて特異な死因を持つとされる皇帝だが、実際は親衛隊長のアペル、もしくは護衛隊長のディオクレスの陰謀による暗殺であるとも言われている。

同時代人

人    物    評

カリヌス  カルスの長子。カルスによって、弟のヌメリアヌスと共に副帝(カエサル)に指名され、その後正帝(アウグストゥス)に昇進し、カリヌスは西方の統治を任された。
ヌメリアヌス  カルスの次子。カルスによって、兄のカリヌスとともに副帝(カエサル)に指名された。ヌメリアヌスは、カルスのペルシア遠征軍に従軍していたが、遠征先のメソポタミアで眼病に罹患し失明している。
バーラム2世  ペルシア王。アフガニスタン、インド方面に軍を展開していたこともあり、カルスのローマ軍にメソポタミアを奪われ、クテシフォンを占領された。
 アペル  親衛隊長。カルスのペルシア遠征に従軍していた。カルスの死にも関与していたとの説もある。
ディオクレス  皇帝の護衛隊長。カルスのペルシア遠征に従軍していた。カルスの死にも関与していたとの説もある。

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績
カリヌス帝
283〜285
 カルスの長子。カルスが皇帝に即位すると、弟のヌメリアヌスと共に副帝(カエサル)の称号を与えられ、カルスのペルシア遠征の直前には正帝(アウグストゥス)に昇進した。
 同僚皇帝である父のカルスによって、カリヌスは西方の統治を委ねられていた。カリヌスはドナウ国境でクアディ族を打ち破り、ブリタニアにも遠征している。
 しかし、カルスが率いていたペルシア遠征で、父であるカルスと弟のヌメリアヌスが死んでしまった。最終的に東方で皇帝に擁立されたディオクレティアヌスとカリヌスは、マルグス川で戦ったが、その戦闘中にカリヌスは配下の兵士に暗殺されてしまった。
 カリヌスは、同時代人の史家に、贅沢に耽り、同性愛に没頭し、9人ももの妻を持っていた醜聞を列挙されている。しかし、こういったスキャンダラスな記述の多くは、内戦の勝者となったディオクレティアヌスの正統性を高める為の創作と思われる。

ヌメリアヌス帝
283〜284

 カルスの次子。カルスが皇帝に即位すると、兄のカリヌスと共に副帝(カエサル)の称号を与えられた。
 カルスのペルシア遠征にヌメリアヌスも従軍していたが、元々病弱だったこともあり、ヌメリアヌスはメソポタミアで眼病を患い失明していた。その後、カルスが落雷(もしくは暗殺)によって死んだ為、ヌメリアヌスはこのペルシア遠征軍の指揮権を引き継ぎ皇帝となった。
 ヌメリアヌスは、カルスの生前にクテシフォン近郊でペルシア軍に勝利していたこともあり、遠征からの撤退を命じた。しかし、ヌメリアヌスはニコメディアに到着する前に、臥輿に乗ったまま死去していた。このヌメリアヌスの不審死は、親衛隊長のアペルによる暗殺とされているが真相は不明である

同時代人

人    物    評

 アペル  親衛隊長で、ヌメリアヌスの妻の父。カルスから帝位を継承したヌメリアヌスを、ニコメディア近郊で暗殺した。しかし、事件はすぐに露見し、アペルは新たに皇帝となった護衛隊長のディオクレス(ディオクレティアヌス)によって処刑された。
 アペルはカルスとヌメリアヌスの2人の皇帝の不審死に関与しているとされるが、冤罪の可能性も考えられる。この辺りの事情は、最終的に皇帝となったディオクレティアヌスによって、相当の脚色がなされていると考える方が妥当だろう。
ディオクレス
(ディオクレティアヌス)
 皇帝の護衛隊長。ペルシア遠征からの撤退中、新皇帝のヌメリアヌスが不自然な状況で死んだことを契機に、ディオクレスはアペルをヌメリアヌスの暗殺犯と断定して処刑。ディオクレスは軍隊によって皇帝に選ばれ、自身の名前をディオクレティアヌスと改めた。
 東方の皇帝となったディオクレティアヌスは、西方を統治していたカリヌスに決戦を挑んだ。マルグス川の戦いの最中に、カリヌスは配下の兵士によって暗殺され、ディオクレティアヌスはローマを再統一し、単独皇帝となった。
バーラム2世  ペルシア王。カルスが突然死したことにより、帝位を継いだヌメリアヌスと和約を結んだ。
マグニア・ウルピカ  カリヌスの妻。

 

 

ローマ帝国史略

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