ローマ帝国史略


野望の後に〜ヘラクレイオス朝〜

 ランゴバルド族のイタリア征服事業の中断により、いわゆる“ゲルマン人の大移動”は終わりを告げた。しかし、ローマ帝国の外敵が存在しなくなった訳ではなかった。野心あるペルシア王ホスロー2世はシリア、エジプト、小アジアを占領し、北方のアヴァール族と同盟してコンスタンティノポリスを包囲した。
 帝国滅亡の危機に、重い腰を上げて立ち上がったヘラクレイオスは敵地に侵攻を行い、英雄叙事詩に詠われた劇的な勝利によって、このペルシア遠征は成功に終わった。ローマの危機は終わりを告げたかにみえた。
 しかし、ローマ・ペルシアという大国同士の泥沼の戦争の間に、予想も出来なかった新たな勢力が生まれていた。預言者ムハンマドの創始したイスラム教はアラビア半島を席巻し、砂漠の民ベドウィンの軍事力はイスラム教の元で一つにまとめられた。
 ムハンマド亡き後のカリフ達は、アラビア半島の外への征服事業を開始する。瞬く間にペルシアは滅ぼされ、ローマはシリア、エジプトという重要な属州を失った。
 ユスティニアヌス1世の夢見た偉大なるローマ帝国、それはもはやそこにはなかった。地中海の主役はローマ帝国からイスラムへと移り変わったのである。


 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

マウリキウス帝
582〜602

 カッパドキア出身の軍人。ペルシア戦争で軍功を挙げたことにより、病弱で後継者を欲していたティベリウス2世の娘コンスタンティナと結婚。まもなくティベリウス2世が病死した為、マウリキウスは皇帝に即位した。
 アルボインの死後中断していたランゴバルド族のイタリア征服事業を防ぐために、かつての西帝国の首都ラヴェンナに総督府を設置。また、同じく直接統治が困難なアフリカの拠点としてカルタゴにも総督府をおいている。
 ペルシアでの王位継承争いで、ホスロー(2世)がローマ領内に亡命して来ると、これを支援して復位に協力。以後マウリキウスの治世においては、ホスロー2世との同盟関係により東方国境を安定させることに成功した。
 バルカン半島に侵入していた北方のアヴァール族、スラブ族との断続的な戦争の勝利を確定させるために、遠征軍にドナウ北岸での冬営を命じると、それに激怒した軍隊は100人隊長フォカスを首隗として反乱を引き起こす。息子テオドシウスの女婿ゲルマヌスがフォカスに内通するなど、急速に人望を失っていったマウリキウスはコンスタンティノポリスから逃亡するが、乗船していた船が難破した為カルケドン近郊で捕らえられ、フォカスの命によって自身の息子達と共に処刑された。
 帝国領土の縮小傾向に歯止めをかけるためにマウリキウスが設置したラヴェンナやカルタゴの総督府は、後のテマ制の先駆的存在といわれる。かつて軍人であったマウリキウスも帝位につき、前線から離れた生活を送っていたことによって、軍隊の支持を失っていたことに気づけなかったのが致命的だった。この後の展開でマウリキウスとホスロー2世の友情が、ローマ・ペルシアに最悪の状況を生みだしていくことになるというのは歴史の皮肉なのかもしれない。

同時代人

人    物    評

フォカス  対アヴァール戦に従軍していた100人隊長。アヴァール族の勢力圏内での冬営を命じられたことに反発した軍に擁立されて、挙兵。コンスタンティノポリスに入城し、皇帝即位を宣言。マウリキウスと5人の子供を処刑した。
テオドシウス  マウリキウスの皇太子。フォカスの反乱が起こると、父帝の恩義を頼りにペルシア王ホスロー2世に救援を求めた。
ゲルマヌス  マウリキウスの皇太子テオドシウスの女婿。反乱を起こしたフォカスとの内通し、帝位を狙ったが、フォカスの支持者に誘拐され、おそらく殺された。
ホスロー2世  ペルシア王。父王ホルムズドの王位が反乱者バーラムによって簒奪されると、ローマに亡命。マウリキウスの支援を得て、バーラムからペルシア王位を奪回した。この経緯がヘラクレイオス時代にまで続く、ローマ・ペルシア戦争の遠因となっている。
エヴァグリウス  歴史家。マウリキウスの伝記を史書としてマウリキウスに捧げた。
コンスタンティナ  ティベリウス2世の娘。マウリキウスの皇后となった。
ベラギウス2世  ローマ教皇。西ゴート族を正統派信仰へ改宗させた。
グレゴリウス1世  ローマ教皇。欧州内陸部への布教を押し進めた。ランゴバルド族の侵攻により、ローマの勢力が後退したためランゴバルド族と独自外交をを行い、マウリキウスと対立した。
レカレド  西ゴート王。ベラギウス2世の布教により、アリウス派から正統派へと改宗した。

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

フォカス帝
602〜610

 マウリキウス時代の対アヴァール戦に参加していたトラキアの100人隊長。敵地のドナウ北岸での冬営を命じられて、反乱を決意。軍隊の支援を得てコンスタンティノポリスに入城。逃亡したマウリキウスとその子供を残酷に処刑して、皇帝に即位した。
 ユスティニアヌス家の血縁に連なる先帝マウリキウスの皇后コンスタンティナの娘との血縁関係を望んだが、コンスタンティナはそれを拒否。コンスタンティナの主導する2度に渡るクーデターの計画が発覚し、フォカスは止むを得ず、コンスタンティナとその娘達を処刑する。簒奪によって得た帝位を守るためにフォカスはコンスタンティノポリスに恐怖政治をしき、単性論やユダヤ教を迫害した。
 フォカスの簒奪劇に不満を持った各地の軍団は、反乱を続発する。シリアの将軍ナルセスはペルシアのホスロー2世にマウリキウスの仇討ちを要請。ホスローは絶好の機会と見てシリアを占領。小アジアに軍を進めた。
 アフリカ総督ヘラクレイオスは首都コンスタンティノポリスへの税の納付を拒否し、同名の息子ヘラクレイオスに海軍を託しコンスタンティノポリスへ派遣する。猜疑心の虜となり、暴政をしいて人心を失っていたフォカスは娘婿クリスプスの裏切りにより、ヘラクレイオスに捕らえられ、船内へ連れ去られ処刑された。
 一介の兵士から成り上がった軍人皇帝で、代表的な暴君の1人。しかし、正統派を奉じローマの首位権を認めて異端を迫害したことから、時の教皇グレゴリウス1世には賞賛されている。

同時代人

人    物    評

(大)ヘラクレイオス  アフリカ総督。マウリキウスとその一族を残酷に処刑したフォカスに人望がないことを見て取り、反乱を決意。息子小ヘラクレイオスに海軍を託してコンスタンティノポリスへ派遣した。
(小)ヘラクレイオス  アフリカ総督大ヘラクレイオスの息子。父の反乱の指揮をとり、海軍をコンスタンティノポリスに派遣。先帝マウリキウスの支持者と合流し、コンスタンティノポリスを占拠し、フォカスを海軍の船内へ拉致して、なぶり殺しにした。
ホスロー2世  ペルシア王。マウリキウス帝の支援により王位を獲得したという経緯を口実に、フォカスの帝位簒奪に承認を与えず、シリア、小アジアに侵攻を始めた。
テオドシウス  先帝マウリキウスの息子。ペルシア王ホスロー2世に救援を求め逃亡していたが、フォカスに捕らえられニケーアで処刑された。
コンスタンティナ  先帝マウリキウスの皇后で先々帝ティベリウス2世の娘。フォカスの簒奪と先帝マウリキウスの処刑の復讐を決意。陰謀を企てフォカスの暗殺を試みた。女性であるため、一度は許され聖ソフィア寺院に軟禁されたが、再度の陰謀が発覚したため、マウリキウスとの3人の娘と共にカルケドンで処刑された。
クリスプス  フォカスの娘婿。フォカスに実子がいなかった為、コンスタンティノポリス住民から、帝位継承者と見なされ、フォカスに競争者として猜疑心を持たれていた。ヘラクレイオス父子の反乱が起こると、これに内通して反乱軍に投降した。
 その後ヘラクレイオスにカッパドキア司令官の地位を与えられたが、半強制的に修道院へ隠居させられた。
グレゴリウス1世  ローマ教皇。フォカスがローマ教会に対して正統派内の首位権を認めた為、フォカスを賞賛し記念碑をローマに建造した。

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

ヘラクレイオス帝
610〜641

 同名のカルタゴ総督ヘラクレイオスの息子。父ヘラクレイオスがフォカスの暴政に挙兵すると、海軍を率いてコンスタンティノポリスを占拠しフォカスを処刑して皇帝に即位した。
 ヘラクレイオス即位時の帝国は、フォカス時代からのペルシアの侵入によりシリア、エジプト、小アジアといった東方領土を次々に奪われるという危機的状態だった。ヘラクレイオスは一時カルタゴへの逃亡を計画したが、財宝を積み込んだ船が難破した為に、ペルシアとの戦いを決意。シリア、エジプトといった東方属州から、ペルシアを撤退させるために、7度に渡る遠征で直接敵地へ侵攻。アヴァール族と結んだペルシアのコンスタンティノポリス包囲への防衛は、コンスタンティノポリス司教セルギオスに委ね、ニネヴェの戦いでホスロー2世を撃破。ホスロー2世の後を継いだカワードと和議を結び、ローマの危機は去ったかに見えた。
 しかし、ローマ・ペルシアという2大国の戦争の間にアラビア半島で生まれた新興宗教イスラム教は宗教国家を建設。創始者ムハンマド亡き後、征服戦争を開始する。初代カリフ、アブー・バクルの命によりシリアに侵入したサラセン軍を迎え撃ったローマ軍はヤルムーク河畔の戦いで大敗。ペルシアから奪回したばかりのシリアは再びローマから失われた。これ以後、ローマはイスラム教徒の侵攻により次々と東方属州を奪われていくことになる。
 また、北方のアヴァール族の侵攻を食い止めるために、スラブ系のセルビア人、クロアチア人の領内定住を許可している。
 一方、ヘラクレイオスの国内政策はペルシア、イスラム教との断続的な戦争により、大きな変革を迫られる。皇帝にバシレウスの称号を採用し、ギリシア語を公用語とした。エジプト、シリアという穀倉地帯の支配権を失ったため、コンスタンティノポリスへの食糧配給を停止。いわゆる「パンとサーカス」のシステムはこれで終焉する。また、宗教的には正統派と単性論の融和を目指し、ローマ教皇ホノリウス1世が提唱した単意論を採用した。
 雄大なペルシア遠征と屈辱的なヤルムーク河畔の戦いに象徴される古代世界の終焉を伺わせる皇帝。1人の皇帝の尽力では、時代の流れをせき止めることは出来ないということか。ヘラクレイオスが単性論が有力な東方属州をローマ領に留めることを目的にした単意論の採用は、後の東西教会の分離の端緒となったのは皮肉な話である。

同時代人

人    物    評

ホスロー2世  ペルシア王。マウリキウスの仇討ちを口実にローマ領に侵入。ヘラクレイオスの皇帝即位により大義名分を失っても、侵略を継続。一時はシリア、エジプト、小アジアを占領して、北方のアヴァール族と同盟して、コンスタンティノポリスを包囲したが、ヘラクレイオスの反撃により、首都クテシフォンは陥落。コンスタンティノポリスの包囲戦も撃退された。
カワード2世  ペルシア王。ニネヴェの戦いでヘラクレイオスの遠征軍に敗退したホスロー2世からクーデターで王位を簒奪。ヘラクレイオスと和議を結んで、ローマ領内の占領地を放棄した。
 なお、聖十字架をヘラクレイオスの返還したとの伝説の真否は不明のようである。
アスパルフ  アヴァール王(汗)。ホスロー2世と同盟し、アヴァール族、ブルガール族を率いてペルシア軍と共にコンスタンティノポリスを包囲した。
セルギオス  コンスタンティノポリス司教。ペルシア遠征に出撃したヘラクレイオスの留守を預かり、コンスタンティノポリスをペルシア・アヴァール連合軍の攻撃から守り抜く。
エウドキア  ヘラクレイオスの皇后。ヘラクレイオス・コンスタンティヌスの母親。
マルティナ  ヘラクレイオスの姪。ヘラクレイオスの先妻エウドキアの死後皇后となり、ペルシア遠征にも同行した。ヘラクレイオスが病死すると、ヘラクレイオスの遺言を盾に皇帝即位を目論んだが市民の反対により、失敗する。
ヘラクレイオス・コンスタンティヌス  ヘラクレイオスとエウドキアの子。マルティナの女帝即位失敗により、弟ヘラクロナスと同格の皇帝となった。
ヘラクロナス  ヘラクレイオスと後妻マルティナの子。マルティナの女帝即位失敗により、兄ヘラクレイオス・コンスタンティヌスと同格の皇帝となった。
ホノリウス1世  ローマ教皇。両性論(正統派)と単性論との和解を目指して、単意論(キリストに神性と人性が相通じる一つの意志があったろする説)を提唱。東方属州の維持を目指すヘラクレイオスによって、採用された。
 単位論は、後に第3次コンスタンティノポリス公会議で異端宣告を受け、ホノリウス1世自身も死後でありながら破門されることになる。
テオドシウス  ヘラクレイオス配下の部将。ヤルムーク河畔の戦いで、サラセン軍に敗北。
ムハンマド  イスラム教の創始者。アラビア半島に宗教国家を樹立。苦境のヘラクレイオスがペルシア勝利することを預言した。
アブー・バクル  ムハンマドの叔父。初代カリフ。拡大ジハードを押し進め、長年の戦争で疲弊しているペルシア、シリアに軍勢を派遣した。
ウマル  イスラム教カリフ。ペルシアに軍勢を派遣し、カーディーシャの戦いに勝利。ペルシアに壊滅的な打撃を与えた。
ハーリド  アッラーの剣と渾名されたサラセン軍の前線指揮官。シリアに侵入し、ヤルムーク河畔の戦いでローマ軍を敗走させた。その後、アブー・バクルの死後カリフ位を継いだウマルと対立し、解任されている。

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

コンスタンティヌス3世帝
641

 ヘラクレイオスとエウドキアの子。マルティナの皇帝即位が失敗すると、異母弟ヘラクロナスと同格の皇帝として即位した。皇帝名としては、ヘラクレイオス2世と表記されることもあるようである。
 即位前から病弱であり、まもなく即位103日で死去。当時から、マルティナの毒殺を疑われているが、おそらくは冤罪か。

ヘラクロナス
641

 ヘラクレイオスとマルティナの子。マルティナの皇帝即位が失敗すると、異母兄ヘラクレイオス・コンスタンティヌス(コンスタンティヌス3世)と同格の皇帝として即位した。
 コンスタンティヌス3世が病死すると、実母マルティナと自身による毒殺との嫌疑をかけられる。聖ソフィア寺院でコンスタンティヌス3世の遺児コンスタンス(2世)を伴い、弁明に努めたが暴徒化した市民を抑えきれず、マルティナと共に鼻と舌を切断されて、ロードス島へ流刑された。

コンスタンス2世
641〜668

 コンスタンティヌス3世の子。ポゴナトゥスの渾名は息子のコンスタンティヌス4世ではなく、このコンスタンス2世のことのようである。
 コンスタンティヌス3世が急死すると、その共治帝ヘラクロナスとマルティナは失脚。正当な血筋はコンスタンティヌス3世の息子コンスタンスであるとして、帝冠を授けられた。
 祖父ヘラクレイオス時代から続くイスラム教の軍勢の侵攻により、即位直後に属州エジプトを占領された。さらにサラセン帝国のシリア総督ムアーウィアによって奪われていたキプロス島、ロードス島の奪回を目指してコンスタンス2世自ら海軍を指揮して決戦を挑んだが、ムアーウィアの海軍に帆柱の海戦で大敗し、ローマは東地中海の制海権を失った。
 宗教的にはコンスタンス2世はヘラクレイオスが主導していた単位論を支持し、これに反対する教義論争を禁止した。両性論(正統派)を支持するローマ教皇マルティヌス1世が単位論の異端を宣言すると、コンスタンス2世はマルティヌス1世を逮捕しコンスタンティノポリスへ連行し牢に繋いで、獄死させた。
 イスラム教徒の軍事的脅威に対応する為、コンスタンス2世はコンスタンティノポリスからシチリア島のシラクサへの遷都を計画し、実際に宮廷機能を移動する。しかし、シチリア滞在中にコンスタンス2世は使用人に暗殺され、それによってこの遷都の動きは頓挫することになった。ギボンはこの経緯を、宮廷における政争に敗れたコンスタンス2世が、コンスタンティノポリスから実質的に亡命したことに起因すると説明しているが、それは誤りのようである。
 コンスタンス2世は、マルティヌス1世連行事件で対立関係にあったローマ教会との和解の為に、ローマ市に赴いているが、これはローマ皇帝がローマ市に滞在した歴史上最後となる出来事である。
 イスラム教徒の侵攻という激動の中で、コンスタンス2世が長期の帝位を保持したのは特筆に値する。しかし、結局は有効な手だてが打てなかったことの責任をコンスタンス2世に帰するのは酷だろうか?これ以降、ポゴナトゥスの渾名が誰のものか長年不明だったことに象徴されるように、極端に史料が不足するローマの暗黒時代となる。

同時代人

人    物    評

マルティナ  ヘラクレイオスの姪にして後妻。マルティナ自身が女帝として即位する計画が挫折したため、コンスタンティヌス3世と自身の息子ヘラクロナスの共同統治に合意。しかし、コンスタンティヌス3世が病死すると、マルティナがコンスタンティヌス3世を毒殺したと市民から告発される。マルティナは鼻と舌を切断された上で、息子ヘラクロナスと共にロードス島に流刑された。
ヴァレンティヌス  カルケドンの軍司令官。コンスタンティヌス3世が病死すると、マルティナとヘラクロナスの毒殺を告発して、コンスタンティノポリス市民を扇動した。
テオドシウス  コンスタンティヌス3世の子で、コンスタンス2世の弟。皇帝となったコンスタンス2世によって、帝位簒奪の野心を疑われ殺された。
キュロス  エジプト総主教。アレクサンドリアに侵攻したアムル率いるイスラム軍に降伏したとされる。
マヌエル  ローマ軍の部将。アムルがエジプト総督から解任された際に、一時的にアレクサンドリアを奪回した。
ウマル  イスラム教カリフ。ペルシアを滅ぼし、ローマからはシリア・エジプトに軍を進め領土を大幅に拡大した。
ウスマーン  イスラム教カリフ。シリア総督ムアーウィアの征服事業により、地中海を制海権に収めた。
アムル  サラセン軍の前線指揮官。エジプトに軍を進め、ローマ軍を駆逐。新都フスタート(現在のカイロ)を建設した。
ムアーウィア  サラセン帝国のシリア総督。海軍を創設して、キプロス、ロードスを占領。帆柱の海戦で、コンスタンス2世を破り地中海の制海権を奪った。
マルティヌス1世  ローマ教皇。単意論を否定し、東方属州奪回の為、単位論を支持するコンスタンス2世と対立。コンスタンス2世により逮捕令が出され、コンスタンティノポリスに連れ去られた。
ウィタリヌス  ローマ教皇。ローマ教会とコンスタンス2世の和解を実現。ローマ市にコンスタンス2世を招いた。

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

コンスタンティヌス4世帝
668〜685

 コンスタンス2世の子。ポゴナトゥスの渾名は、この皇帝ではなく父帝コンスタンス2世のことのようである。
 ウマイヤ朝カリフムアーウィアの皇太子ヤジードの2度に渡るコンスタンティノポリス包囲を耐え凌ぎ、新兵器“ギリシア火”により阻止。コンスタンティヌス4世自ら艦隊を率いて、撤退するヤジードの遠征軍を追撃して打撃を与えている。
 また、ヘラクレイオス時代から単位論を巡る教義論争で対立を続けていたローマ教会との和解の為に、第3次コンスタンティノポリス公会議を主催し、単位論の異端を決定。これにより東西教会の和解が成立し、しばらくの間ローマ教皇の座は東方系の出身者によって占められることになる。
 息子ユスティニアヌス(2世)への帝位継承の為に、実弟のヘラクレイオス、ティベリウスの鼻を削ぎ、後顧の憂いを断った。
 ウマイヤ朝のコンスタンティノポリス包囲の撃退は、ヨーロッパのイスラム化を食い止めた歴史的な成果であるが、局地戦に過ぎないフランク人とのトゥール・ポワティエの戦いの方が重視されるのは釈然としない。このコンスタンティヌス4世の時代は、極端に史料に乏しく、コンスタンティヌス4世の死因もよく分からない。(何か文献があったら教えて下さい)数少ないこの時代の史料「テオファネス年代記」においても、ウマイヤ朝包囲の頃は1年につき1行の記述しかなかった。

同時代人

人    物    評

ヘラクレイオス  コンスタンティヌス4世の弟。アウグストゥスの称号を得ていたが、自身の息子ユスティニアヌスへの相続を望んだコンスタンティヌス4世によって、鼻を削がれた。
ティベリウス  コンスタンティヌス4世の弟。アウグストゥスの称号を得ていたが、自身の息子ユスティニアヌスへの相続を望んだコンスタンティヌス4世によって、鼻を削がれた。
ムアーウィア1世  イスラム教カリフ。シリア総督時代から先代カリフのアリーと政争を繰り広げ、アリーの死によりカリフ位を奪取し、ウマイヤ朝を創設。皇太子のヤジードを派遣して2度に渡りコンスタンティノポリスを包囲したが、失敗した。
ヤジード  ムアーウィア1世の子。ウマイヤ朝2代目カリフ。皇太子時代にコンスタンティノポリスを2度に渡って包囲したが、ギリシア火とローマ海軍に敗退した。
カリニコス  シリア系の技術者。ギリシア火を発明したとされる。
アガト  ローマ教皇。単位論を排除しようとする、コンスタンティヌス4世に協力して、第3次コンスタンティノポリス公会議を主催。
アスパルフ  ブルガリア王(ハン)。コンスタンティヌス4世と条約を結び、ドナウ以南の土地に建国した。(第一次ブルガリア帝国の成立)

 

皇 帝 名

皇  帝  評

政治
能力
軍事
能力
業績

ユスティニアヌス2世帝
685〜695、705〜711

 リノトメトス(鼻削がれ帝)。コンスタンティヌス4世の長子。
 縮小傾向にあった領土の拡大を目指し、各地の国境に軍勢を派遣。北方でバルカン半島ののスラブ族と争い、東方では一時ウマイヤ朝のアブド・アル・マリクからアンティオキアを奪回するなど、軍事的成果を挙げた。
 しかし、遠征軍を維持するために増税を繰り返したユスティニアヌス2世は民衆の支持を失い、レオンティウスの皇帝即位により失脚。ユスティニアヌス2世は鼻を削がれクリミア半島のケルソンに追放された。
 簒奪者レオンティウスからティベリウス3世に帝位が移ると、流刑先で結婚していたテオドラの助言により、ブルガリアに亡命。ブルガリア王(ハン)テルヴェルと同盟を結んで、ブルガリアの軍勢を率いてコンスタンティノポリスへ進軍。ティベリウス3世の軍を破って、ユスティニアヌス2世は復位を果たした。
 復位後のユスティニアヌス2世は復讐に熱中する。ユスティニアヌス2世から帝位を簒奪したレオンティウス、ティベリウス3世を残酷に処刑。自身の流刑地だったクリミア半島に対しても、軍勢を派遣して多数の住民を奴隷としたと言われる。
 また、ローマ教会に対しては、即位直後から東方教会に対して従属するよう要求し続けていた。
 政治を省みずに復讐に執心し人心を失っていたユスティニアヌス2世に対し、ハザール・ハン国はクリミア遠征軍を率いていたバルダネス(フィリピクス)の反乱を支援する。ユスティニアヌス2世の過酷な統治に反感を持っていた各地の軍勢もフィリピクスを支持し、ユスティニアヌス2世は最期にフィリピクスの刺客によって暗殺された。
 ユスティニアヌス2世は、ヘラクレイオスの血筋に相応しい実力の持ち主だったが、復位後あまりにも復讐に拘り続けたのが惜しまれる。この無用な混乱によって、父帝コンスタンティヌス4世と自身の尽力によって食い止められていた、ウマイヤ朝との軍事バランスが再びイスラム側に傾いてしまった。

レオンティウス帝
695〜698

 ヘラス・テマの長官。3年に渡る投獄中の身から、ユスティニアヌス2世に抜擢されたが軍隊と結託して反乱を決意。コンスタンティノポリス市民を扇動して皇帝に即位。既に人心を失っていたユスティニアヌス2世を捕らえて、鼻を削いでクリミア半島のケルソンへ追放した。
 即位3年後にゴート人部将アプシマル(ティベリウス3世)のクーデターにより失脚。ユスティニアヌス2世同様、鼻を削がれて幽閉された。ユスティニアヌス2世が復位すると、ティベリウス3世と共に処刑された。

ティベリウス3世帝
698〜705

 ゴート人の部将。本名はアプシマル。レオンティウスから帝位を簒奪し、ティベリウスの名を自称した。
 流刑先のクリミア半島に滞在しているユスティニアヌス2世の復帰を恐れて、ハザール・ハン国に暗殺を依頼したが、ユスティニアヌス2世はブルガリアへ逃亡。
 ブルガリアのテルヴェル・ハンの軍勢と共に帰国したユスティニアヌス2世に敗北。幽閉していたレオンティウスと共に処刑された。

同時代人

人    物    評

テルヴェル  ブルガリア王(ハン)。ハザールから亡命したユスティニアヌス2世を支援し、コンスタンティノポリスに進軍。ユスティニアヌス2世の復位を実現し、ユスティニアヌス2世から、カエサルの称号を授けられた。
バルダネス
(フィリピクス)
 ユスティニアヌス2世配下の部将。復位後のユスティニアヌスに命じられてクリミア半島に軍を進めたが、現地でハザールと同盟して、首都コンスタンティノポリスへ攻め上って帝位を簒奪した。
ハッサーン  ウマイヤ朝のアフリカ総督。カルタゴを巡って、ローマ軍と戦闘を繰り返す。最終的にローマ軍は駆逐されカルタゴはウマイヤ朝に占領される。以降アフリカは完全にローマの影響下から離れた。
テオドラ  ハザール人のユスティニアヌス2世の皇后。クリミアに流刑中のユスティニアヌスと結婚し、洗礼を受けた。ティベリウス3世が母国にユスティニアヌス2世の謀殺を要請すると、夫ユスティニアヌス2世に助言しブルガリアへ亡命した。

 

 

ローマ帝国史略

最初に戻る