ローマ帝国史略


第二章 蛮族による帝国の復興

(1)アラリックのローマ市占領
 410年に起こったローマ市占領事件は同時代人にとって驚くべき事件であった。西ゴート族に占領されたローマは3日間にわたって略奪された。しかし、それは整然と控えめになされたものだった。後に起こった東ゴート族と東ローマ帝国との戦争の際の被害の方がはるかに大きかった。にもかかわらず、当時の人々はこの事件に大きな衝撃を受けている。
 この事件についてアウグスティヌスは「東方の諸族はローマの没落を哀泣し、地の果てにいたるまで都会と田舎おしなべて、うろたえ、嘆いた。」*13と述べている。また、聖書をラテン語に訳したことで知られるヒエロニムスも「世界の燈台は消えた。ローマ市の滅亡はやがて全人類の滅亡である。」*14と哀しみの言葉を残している。
 西ゴート族はテオドシウス帝の政策により、トラキア州のモエシアに定住を許されていた。しかし、属州マケドニアを巡る東西両帝国の争いを利用した西ゴート族は、アラリック1世の指導の元、モエシアから南下しペロポネソス半島を略奪した。この際は西ローマ帝国の最高軍司令官のスティリコの援軍に鎮圧されている。
 401年、スティリコがアフリカで起こったムーア人ギルドーの反乱を鎮圧している間に西ゴート族はイタリアに侵入し、西ローマ帝国の首都メディオラムを包囲した。翌年戻って来たスティリコに、西ゴート軍は撃退されたが、アラリック1世はその後西ローマ政府の違約を理由に賠償金を受け取っている。西ローマ帝国はこの事件を契機に首都をメディオラムからラヴェンナに移している。
 スティリコが宮廷内の争いで粛清されると、アラリック1世は再度イタリアに侵入した。このスティリコの失脚は同時に多くのゲルマン人がローマ人に殺害されるという事件も引き起こし、このために多くのゲルマン人同盟部族の兵士がアラリック1世の旗下に合流した。
 アラリック1世は軍事的に優位を確保した後、西ローマ帝国と交渉を行った。アラリック1世は西ローマ帝国に対してパンノニアへの移住の許可と妥当と思われる程度の賠償金を要求した。しかし、西ローマ政府はこれを拒絶する。
 そこで、アラリック1世はローマ市の元老院と交渉し、ホノリウス帝の退位とアッタルス*15の皇帝即位を決議させる。しかし、アフリカに送った遠征軍の敗北により、この皇帝の擁立には失敗し、アラリック1世はローマ市を占領した。この時に、人質としてホノリウスの妹であるガッラ・プラキディアを連れ去っている。
 これがこの事件の概要である。アラリック1世はローマ市を3日間略奪した後、イタリア半島を南下し、シチリア島からアフリカに渡ろうとした。しかし、その年のうちに、そこで熱病にかかって病死してしまう。
 アラリック1世はローマ市の占領で歴史に名を残したが、それは必ずしもアラリック1世の意図したことではなかった。アラリック1世がローマに要求したことは、非現実的な実行不可能なことではなく、現実的なものに過ぎなかった。にもかかわらず、ホノリウス帝の西ローマ政府はアラリック1世の要求を拒絶し続けた。しかも、そのことに対する報復への有効な手段をとらなかったのである。西ローマ政府がしたことは、東ローマ帝国の援軍によってラヴェンナの守りを固めたことだけだった。
 アラリック1世はローマ帝国の権威を認め、その枠組みの中で最大限の利益を得ようとしていたに過ぎない。その代償として、アラリック1世はローマ帝国に協力する意志を示していた。テオドシウス1世の時代には、アラリック1世は西ゴート族を率いて反乱軍の鎮圧に協力したことさえある。にもかかわらず西ローマ政府は西ゴート族の権利を認めなかった。結局、西ローマ政府にとって西ゴート族は蛮族であり、排除すべき存在に過ぎなかったのである。

(2)アタウルフとの和平
 アラリック1世の死後西ゴート族の王になったのはアラリック1世の義弟のアタウルフである。アタウルフはローマとの和平を実現し西ゴート族をガリアに定住させた。
 「資料U」*16はアタウルフがナルボンヌの市民に語った言葉とされている。これはキリスト教史家であるオロシウスが「異教徒を駁する七巻の史書」に残した記録である。オロシウスがこの話を聞いた時にはヒエロニムスも同席していたと言われる。勿論この言葉を完全に信用してしまうことは出来ない。特にローマ帝国を滅ぼしてゴート族の帝国を作ろうとしたという件は疑わしい。しかし、これはアタウルフの、ひいては当時のゲルマン人がローマに対して何を考えていたか、ということについて大きな参考になる。
 アタウルフはアラリック1世がローマ市から捕虜として連れ去っていたガッラ・プラキディアと結婚し、ホノリウスの西ローマ政府と和解した。ナルボンヌにおいてアタウルフはローマ風の衣装をまとって、婚礼を行ったといわれている。この言葉は婚礼の儀式の後に語られた。その後西ゴート族は、アタウルフの指導の元イスパニアやガリアで起こったローマへの反乱を鎮圧し、最終的に南西ガリアに定住を許されることになる。
 アラリック1世もアタウルフもローマ帝国を崇拝しゲルマン人がローマ皇帝の地位を奪うことは不可能であると考えていた。西ゴート族の人口は十万人程度にすぎず、西ゴート族にとってローマとは打倒すべき敵ではなく、入って住むべき憧れの世界であった。これは他の蛮族についても同様である。
 アラリック1世はアッタルスを皇帝に擁立したが、自ら皇帝位に就こうとはしなかった。アタウルフもガッラ・プラキディアとの婚姻を望みはしたが皇帝になろうとはせず、むしろホノリウスの帝位を守るために奮闘した。後のテオドリック2世もアヴィトゥス帝を擁立した。アタウルフはガッラ・プラキディアとの間に産まれるであろう子供を皇帝にしようとしていたらしい。
 しかし、アタウルフは子供を残すことなく415年に部下に暗殺されてしまう。次に王位に就いたワリアも親ローマ的な王だった。ガッラ・プラキディアは帰国を許された。ワリアは西ローマ帝国の命令により、シリング・ヴァンダル族に壊滅的な打撃を与え、スウェヴィ族とも戦った。西ローマ政府は418年に南西ガリアに西ゴート族の定住を許可する。ワリアもアラリック1世のようにアフリカを目指していたようだが、後で述べるアエティウスに阻止され、それには失敗している。西ゴート族はローマの慣習法に従い、軍事力によってガリアを防衛する代わりに地主から土地の3分の1から3分の2、もしくはそれに変わる収穫物を要求した。
 西ゴート族はアタナリック、アラリック、アタウルフの三人の王による移動の時代を終え、ローマの同盟部族としてガリアに定住した。西ゴート族は長期にわたってローマとの友好関係を保ち続けた。フン族の侵入の際にはフランク族などと共に西ローマ帝国に協力し、カタラウヌムの戦いでテオドリック1世は戦死したほどである。西ゴート族は、狂信的なアリウス教徒であるエウリックが即位するまでは、西ローマ帝国との協調を維持し続けたのである。

(3)蛮族との協調
 ホノリウス帝の治世末期において、初めて蛮族とローマは協調し互いの利益を尊重することが出来た。ローマ領内に存在する蛮族の集団は、ローマ帝国の駐留軍として現地補給を許されたし、蛮族の軍隊はローマ帝国の秩序を守るために、反乱軍もしくは他の蛮族と戦った。ワリア時代の西ゴート族は、西ローマ政府の命令でシリング・ヴァンダル族に壊滅的な打撃を与え、スウェヴィ族を滅亡寸前に追い込んだ。
 このような蛮族とローマによる協調はガリアやイスパニアにおいては、スティリコの後継者であるコンスタンティウス、そしてコンスタンティウスの後継者であるアエティウスによる不断の努力により維持され続けた。
 コンスタンティウスは、西ゴート王アタウルフの死後帰国したガッラ・プラキディアと結婚しパトリキウスとなり西ローマ帝国の実権を握った。コンスタンティウスとガッラ・プラキディアの間には後の皇帝となるヴァレンティニアヌス3世が生まれている。コンスタンティウス自身も421年にホノリウス帝と同格の正帝コンスタンティウス3世となっている。
 416年に反乱を鎮圧したコンスタンティウスによってガリア、イスパニアの秩序は回復され、西ローマ政府によってブルグント族はライン中流域に、スウェヴィ族はルシタニアに、アスティング・ヴァンダル族はバエチカに、西ゴート族は南西ガリアに定住を認められ、それぞれローマと同盟部族条約を結んだ。蛮族たちは初めて、防衛のために国境付近に定住したのではなく、内部の属州に定住する事が出来たのである。
 蛮族の存在は西ローマ帝国の属州ではもはや動かすことの出来ない事実であった。417年にはコンスタンティウスの指導の元、アルルで蛮族とローマによるガリア会議が開かれ、秩序の維持が確認されている。少なくともガリアとイスパニアにおいては、蛮族とローマの良好な関係がアエティウスの死まで続いていた。
 勿論、それは完全な平和という意味ではない。しばしば、ゲルマン人はローマの権益を侵していたのだが、それに対するコンスタンティウスやアエティウスの軍事的、政治的圧力により重大な事態にはならなかったということである。451年にアッティラに率いられたフン族がガリアに侵入すると、西ゴート族やフランク族はローマと協力して戦っている。このことはローマにとっての利益が蛮族のそれと一致したことを示している。
 だが、蛮族とローマの協調は一時的なものに過ぎなかった。アエティウスとヴァレンティニアヌス3世が死に、テオドシウス朝が断絶するとこの秩序は簡単に崩壊してしまう。


*12ヴァンダル族、スウェヴィ族、アラン族がガリアに侵入した事件。フランク族はローマに協力したが、侵入を阻止できず409年にはヴァンダル族はイスパニアに到達する。
*13「世界の歴史2ギリシアとローマ」P485
*14「世界の歴史2ギリシアとローマ」P485
*15元老院議員。アタウルフの時代にも西ゴート族に従っていた。しかし、アタウルフに追放され、ホノリウス帝によってリパリ島に軟禁された。
*16「ローマ帝国衰亡史5」P74〜75

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