1983年度より、チッソ水俣病関西患者の会(チッソ水俣病関西訴訟原告団の母体)は、大阪チッソ水俣病を告発する会とともに、「水俣病被害の体験を子供たちに語り継ごう」と、交流学習会の運動を始めました。1983年度以来、これまでに延べ126校(主に小学校)に出かけて、およそ15,000名の生徒に水俣病被害を語り、生徒達に水俣病の体験を伝えてきました。
1984年2月7日、大阪府高槻市立富田小学校で5年生の社会科の授業に招かれ、患者4名が参加しました。これが初めての交流学習会でした。「子どもたちに何を話したらいいんだろう」「自分たちの経験をちゃんと分かってくれるだろうか」そんな不安な気持ちで小学生の前に立った患者さんたちに、生徒たちは、真剣に耳を傾けてくれました。「奇病」といわれた水俣病発生当初、家族に患者をかかえていた時に周りから受けた差別、採ってきた魚が売れずに苦しくなる一方の生活、そしてついに故郷を離れての都会での生活。言葉が通じにくいうえに、就職・医療での差別等々。話を聴いた子どもたちはたくさんの質問をしたり、感想を述べたりして最後に、「病気の苦しみに負けずに、これからもがんばって生きて行ってください」と患者を励ましてくれました。」 患者さん達は、「子どもたちは自分たちの気持を分かってくれた。話をしに来た甲斐があった」と安心もし、自分たちのやっていることの意義も理解できました。
1984年度からは交流学習会は、高槻市内の小学校を中心に、茨木市・門真市・大阪市・松原市・堺市・貝塚市・箕面市等大阪府内の学校に広がりました。さらに、富田小学校から転勤された先生の働きがけで、滋賀県下の小学校でも交流学習会が始まりました。こうして、昨年までに延べ126校(主に小学校)に出かけて、およそ15,000名の生徒に水俣病被害を語り、生徒達に水俣病の体験を伝えてきました。また、各地で行われた教職員や一般市民の研修会にも患者や支援者が呼ばれて参加しました。このほか、患者さんは参加しなかったものの、水俣病を扱ったビデオや映画を授業の中で使った学校(小~高校)は数多くあります。
「患者さんの話を聞いてからは、クラスのいじめが無くなった」「身近な環境問題に取り組むようになった」など、交流学習会を行った学校からは、その後の子供たちの変化や反響の大きさを伝える便りがたくさん届いています。
また、「子どもたちと文通することにより、生きる喜びがうんと増し、また、手紙を書くことで字も覚えたし、リハビリにもなった」(原告団団長の川上敏行さん)など、話をした患者さんも逆に励まされたといいます。 |