水俣病に対する政府と熊本県の責任
2001.10.15. 宮澤信雄&Aileen・美緒子・Smith

はじめに
 水俣病が公式に確認されて45年。水俣病はいまだに解決しない人類史上最大の悲劇の一つである。水俣病をこのような悲劇にした要因は、見る角度によってさまざまであろうが、われわれは、日本政府と熊本県の水俣病対策そのものを、最大の要因と考える。
 日本政府と熊本県にとっての水俣病対策とは、被害をくい止め被害者を洩れなく救済することではなかった。まったく逆に、
・水俣病によって水俣工場の生産(アセトアルデヒド生産)が妨げられないこと、
・水俣病にともなう補償負担を出来るだけ軽くすること、であった。
これを言い換えれば、彼らが加害者チッソの側に立ち続けた、ということである。
 そのような彼らの「努力」によって、水俣病は1960年に、一度終わったことにされた。そして今再び、世界中の人たちが見ている前で、永久に終わったと見せかけようとしている。水俣病の被害実態も、医学的研究も、責任の所在も、すべてあいまいなまま。

最初から対策はとられなかった
 1956年5月1日、水俣病の発生が公式に探知された。その6ヶ月後、熊本大学医学部研究班は、水俣病は水俣湾魚介類による食中毒であること、魚介類を汚染しているのはチッソ水俣工場の排水であること、を示唆した。しかし、そのもとを絶つ対策は何も講じられなかった。それから半年の間に、魚介類・工場排水への疑いはいよいよ確かなものになっていった。
 1957年1月17日、水俣市漁業組合は、工場に排水を止めてほしいと申し入れた。1月22日、組合は熊本県知事に、排水対策を講じるよう要請した。工場も県も排水対策は講じなかった。
 そのころまでに発見された患者は54人、その内17人が死亡していた。
 3月から4月にかけて、熊大研究班・厚生省科学研究班いずれも、魚介類・工場排水以外には水俣病の原因は考えられないという趣旨の報告をまとめ、学会でも発表された。
 そのころすでに、工場内部では、水銀を含んでいるアセトアルデヒド排水が奇病と関係あるのではないか、と気づいていた。しかし、工場に対して影響力を持っていた熊本県と通産省は、排水対策を命じようとしなかった。その理由(というより口実は)、「原因物質が究明されなければ対策は講じられない」だった。それでいて、政府・熊本県は、排水の安全性あるいは危険性について一切調べようとしなかったし、工場に調査を命じようともしなかった。
 熊本県にいたっては、対策会議で「奇病と工場とは関係ないということを前提とする」と申し合わせをした。住民が汚染魚介類を食べないようにする措置もとろうとしなかった。 食品衛生法を適用して、水俣湾の魚を採ったり売ったりすることを禁止することが、県の対策会議で決められたのに、知事は告示せず、厚生省から不適用という回答を引き出すことにした。厚生省は「水俣湾のすべての魚が有毒であるかは不明」という理不尽な理由で食品衛生法は適用できないと通知した。
 排水の流出は続き、ほかに生活の手段がない漁民達は、危険と知りながら少しずつでも魚を採って食べざるをえなかった。
 1958年7月 厚生省は、熊本県と通産省が被害防止策を講じることを期待して、「原因物質は不明だが、水俣病の原因は水俣工場の排水である」という公式見解を発表した。
チッソと通産省は、「原因物質が確定していないのに工場を名指しした」と反発した。熊本県も見解を無視した。
 しかし、工場は9月から、今まで水俣湾に流していたアセトアルデヒド排水を、反対側の八幡プールに送り、カーバイド残さを通して不知火海に流し始めた。排水中の水銀分をカーバイド残さに吸着させて減らしたうえ、不知火海で希釈させる目論見は見事にはずれた。1959年4月以降、水俣湾の外、不知火海で漁をしていた漁民が水俣病になった。各地の漁村で、ネコが狂い死にし始めた。

有機水銀とわかっても
 1959年7月22日、熊大研究班は、ハンターラッセルらの報告を手がかりにした研究をもとに、有機水銀が原因だと発表した。不知火海一帯の漁民が、排水停止・工場の操業停止を要求し始めた。チッソ・通産省は、全力を挙げて「有機水銀説」を否定しようとした。
 1959年11月12日、厚生大臣の諮問を受けた食品衛生調査会は、熊大研究班の結論を受け入れ、「水俣病は水俣湾魚介類を食べておこる中枢神経系の中毒疾患であり、主な原因はある種の有機水銀化合物である」と答申した。
 池田勇人通産大臣は(政府内でもっとも発言力があった)「水銀と結論するのは早すぎる」と、厚生大臣の報告を無視した。水俣工場のアセトアルデヒド工程と水俣病とを関連づけられたくなかったのだ。
 以後、チッソ、通産省、熊本県は、水俣病の原因と責任を明確にしないまま事件を終わらせることに全力をあげた。
 通産省はチッソに「排水浄化装置・サイクレータ」の完成を急がせ、排水を浄化したから水俣病の不安はなくなったと、世間を欺くことにした。
 水俣病患者には、「工場の責任ではないが、患者が気の毒だから見舞金を出す」ことが、県知事の仲介で決められた。ただし、認定審査会が水俣病と認定した患者に限ることが契約に盛り込まれた。
 政府は、水俣病の原因究明を最初からやり直すといって、1960年4月、経済企画庁が主宰する「水俣病総合調査研究連絡協議会」を発足させた。協議会は1年後、結論を出さないまま開かれなくなった。そのようにして、原因不明のままの状態を保ち続けた。

1960年以後すべきだったこと。排水について
 厚生省食品衛生調査会の答申「水俣病は水俣湾魚介類を食べておこる中枢神経系の中毒疾患であり、主な原因はある種の有機水銀化合物である」によって、1960年以後、水俣病の被害防止、被害者救済が実行に移されねばならなかった。
 水銀が含まれた排水がどの装置(アセトアルデヒド製造装置)から出ているか知っていたチッソと通産省は、当該排水を出さないか、完全に浄化するか、すべきだった。
 表向きは、排水は浄化装置・サイクレータを通して水俣湾に流していることになっていた。しかし、サイクレータでは、水に溶けた水銀化合物を取り除けないことを知っていたから、水銀を含んだ排水はサイクレータに通さなかった。サイクレータから出てくる汚泥と混ぜて、八幡プールに送り続けた。排水中のメチル水銀は、プールから不知火海へ流れ続けたとしか考えられない。
 熊本県衛生研究所・松島義一が調べ続けた、沿岸住民の毛髪水銀データ(1962年まで、のべ2700人分)は、時がたつにつれて、相対的に、水俣湾周辺では水銀量が減っていったが、不知火海ではむしろ増加する傾向を示した。松島は、報告書に、汚染源が絶たれていないと書いている。熊本県は、汚染源がどうなっているか調査しなかったし、住民の健康調査もしなかった。

原因物質が解明されても無策だった
 1963年2月、水俣病の原因物質・塩化メチル水銀がアセトアルデヒド工程で生成していたことが公表された。(熊大・入鹿山且朗教授が1962年6月頃抽出)
「原因が解明されたら対策をとる」と言っていた政府と熊本県は、排水に関して何もしなかった。全国のアセトアルデヒド工場に警告を与えなかった。
 その2年後、新潟県で第2の水俣病が発生した。政府の責任は明らかと言えよう。熊本では、1968年5月にアセトアルデヒド工程が廃止されるまで、不知火海にメチル水銀が流され続けた。
 新潟水俣病の原因をめぐって、数年前の水俣と同じ論争が繰り返された。業を煮やした新潟の被害者達は、昭和電工を訴えた。そのことが、忘れられていた熊本水俣病の記憶を呼び戻し、せめて原因をはっきりさせるべきだという声が起こり始めた。そのころ日本では、高度経済成長政策の結果、環境破壊が進み、公害に対する関心が高まっていた。
 国会や政府部内でさまざまな議論を経た後、1968年9月26日、政府(厚生省)は、「水俣病はチッソ水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で生成したメチル水銀が原因であった」という公式見解を発表した。その発表は遅くとも1963年に出来たはずである。ところで実は、見解発表の4ヶ月前、水俣工場のアセトアルデヒド工程(原料:アセチレン、触媒:水銀)は廃止されていた。すでに石油化学方式で生産されるアセトアルデヒドが需要を満たすようになったからだった。つまり政府は、水俣でのアセトアルデヒド生産を心ゆくまで行わせたことを見届けてから、水俣病の原因を確定したことになる。
さらに、信じられないことだが、政府が水俣の周辺海域を水質保全法の指定地域に指定し、排水にメチル水銀が含まれてはならないとしたのは、次の年1969年2月だった。

1960年以後すべきだったこと。被害者救済について
 被害者救済についても、1959年11月の厚生省食品衛生調査会の答申(水俣病は水俣湾魚介類を食べておこる中枢神経系の中毒疾患であり、主な原因はある種の有機水銀化合物である)は、重要な意味を持っていたはずだ。
 熊本県が水俣病についての年報の標題から「原因不明」という言葉を消し、「水俣湾産魚介類を多量摂取することによって起こる食中毒について」とあらためた事実から、熊本県がすべきことは明らかだったと言ってよい。汚染魚介類を食べ続けていた水俣湾と不知火海周辺住民の神経症状を調査し、経過を観察し続けることである。水銀汚染を受けていない地域の神経症状の現れ方と比較することで、有機水銀の影響がどのようなものであるかが解明され、患者は洩れなく救済されたはずだ。ところが、水俣病は終わったことにしたい政府・熊本県・水俣市は、それをしなかった。
 申し出た人についてだけ審査し、チッソの見舞金を受け取ることができる被害者かどうか認定する仕組みを作った。今日まで40年余り、水俣病の実態を覆い隠し、被害者を放置し続け、水俣病医学さえゆがめた「認定制度」である。本人申請の仕組みでありながら、申し出るように勧めたことは、ただの一度もなかった。
 水俣病は、探知された初期に「奇病・伝染病」と考えられたので、人々におそれられ、患者と家族は迫害差別を受けた。1960年から、患者が見舞金を受け取るようになると、人々は嫉妬と軽蔑を込めて「奇病になって金がもらえてよかね」などと言ったりした。
 チッソが水俣病の責任を認めないまま、金を恵んでやる、という態度をとり続けたからだ。奇病そのものと迫害差別を怖れて、水俣の人々は症状があっても申し出ようとしなかった。水俣の医師達は、水俣病の疑いがあると患者に告げなかった。水俣の人たちは、水俣病と認定されることを恥ずかしいこと、恐ろしいことと考えるようになった(今でもそう考える人は少なくない)。行政がチッソに責任を認めさせ、積極的に患者を発見救済しようとすれば、人々の恥と怖れは解消したであろう。

 1960年夏、熊大医学部の徳臣晴比古らは、患者多発地区で住民検診をし、神経症状を訴える人を多数見いだしたが、審査会では3人が水俣病と認定されただけだった。
のちに徳臣教授は「(水俣病で)補償問題が起こった際に水俣病志願者が出現したので、過去においてわれわれは、ハンター・ラッセル症候群を基準にすることにして処理した」
と告白した(1966年、日本内科学会)。認定制度が最初から、補償がらみの切り捨て手段であったことは明らかだ。
その後臨床研究者達は認定制度の運用に協力するだけで、本来の調査研究を放棄してしまった。行政と医学者達は、患者が名乗りでないのをよいことに、1960年で水俣病は終わったことにした。
 母親の胎内で重篤な障害を受けた胎児性患者達が、1962年に認定されるまで長くかかった要因の一つは、審査会の「政治的配慮」であった。すなわち、終わったはずの水俣病に再び衝撃を伴った関心が集まること、チッソの補償負担が増すこと、などに気を使ったのである。
研究者達が調査研究を放棄したことが、「水俣病でもっとも重要な症状とされる感覚障害は末梢神経の障害によるもの」とする決定的な過ちに陥った要因の一つと言ってよかろう。「感覚障害は大脳皮質の障害による」と改められ始めたのは、ごく最近のことだ。

「水俣病が発生したのは1953年から1960年まで、発生地域は水俣湾とその周辺、患者は111人、水俣病の症状は典型的なハンター・ラッセル症候群」
チッソの補償負担を軽減し、水俣病の被害を最小限に見せかける行政の努力は、認定制度によってそのような「成果」を上げて、1968年を迎えたのである。

政府見解発表後も不作為は続く

 1968年9月26日、水俣病の原因を認める公式見解を発表したとき、政府は111人の認定患者について見舞金をいくらか増額すれば、問題はすべて終わると考えていたようだ。
 ところが、1960年から放置されていた患者、その間に汚染魚を食べ続けてメチル水銀の影響を受けていた患者が、不知火海周辺に数え切れないほどいた。政府見解発表後、放置されていた患者が認定を求め始めた。
 審査会は、1969年、1970年にそれぞれ5人ずつ認定した。その他の患者は理由の説明もなく、水俣病ではないと言われた。本当の理由は、チッソの補償負担を軽くすることであった。1970年2月、熊本県が審査会委員に「補償との関連を考慮して審査するように」と話していたことが、審査会議事録に記されていた。また、審査会の席上、委員の一人が「5人も認定したら会社がつぶれやせんか」と言ったことが伝えられている。

認定制度との闘い
 1970年に認定申請を棄却された川本輝夫ら9人が、県の決定を調べなおしてほしいと厚生省に申し立てた(行政不服審査請求)。それから一年の間に川本と支援者達(原田正純医師を含む)は、審査会の診断が間違っていること、汚染魚を食べた人の神経症状はメチル水銀の影響と見るべきこと、不知火海周辺に深刻な水銀汚染が拡がっていること、などを立証していった。
 1971年8月、新しく発足した環境庁は、川本らの主張を認め、熊本県の棄却決定を取り消した。同時に、汚染魚を食べ続けた人に、水俣病に見られる神経症状が一つでも認められれば(それはほとんどの場合、感覚障害である)、水俣病として救済する、という通知を出した。疫学的に正しい考え方だ。
 認定を求める患者は次第に増え、1973年、裁判所がチッソの責任を認める判決を下すと、さらに申請者は増加した。チッソは補償負担に耐えられなくなり、熊本県と政府に助けを求めた。県は、補償金など水俣病に関するチッソの支出を肩代わりすることにした。 1977年環境庁は、医科学的な裏付けはないままに、複数の症状がそろわなければ、水俣病とはしないという判断条件に戻ることを決定した。認定される患者は急速に減り、やがてゼロになった。熊本県が立て替えていた補償金の負担は軽くなった。
 行政の認定制度では救われないと考えた被害者達は、チッソ・熊本県・国を相手に裁判を起こした。被害者が勝っても負けても、上級審での裁判が続くことになり、いつ終わるかわからない。行政は組織であり、何年たっても疲れない。被害者は病気を抱えた人間だから年をとり、症状を重くして死んでいく。生きているうちの救済を、という意見が強くなった。
 1995年政府は、救済を求めている人たちは、認定制度上水俣病ではない、政府には賠償責任はない、裁判は続けない、などを条件に、チッソと被害者との和解を仲介することにした。ほとんどの原告がそれを受け入れることにした。
 申し出て四肢末端に感覚障害があると判定された人は、チッソから260万円を受け取り(資金は国が立て替えた)、医療費の負担を免れることになった。これは「政治解決」と呼ばれているが、いかにも日本らしい曖昧なやり方である。
 症状があっても申し出なかった人、申し出ても感覚障害があると判定されなかった人(感覚障害は末梢神経障害によるという、従来の誤った考え方で判定されたことが大きい)が多数いることがわかっている。それでも、行政は、水俣病問題は終わったことにしようとしている。そればかりではない・・・

水俣病は終わらない
 不知火海周辺から関西方面に移り住んだ被害者は、政治解決を拒否して、裁判を続けていた。今年4月27日、大阪高等裁判所は、1960年以後被害防止策を講じなかった政府と熊本県の責任を認め、損害賠償を命じる判決を下した。合わせて、水俣病の感覚障害は、末梢神経ではなく、大脳皮質の障害によるものという正しい考え方を採用した。認定制度も医学研究も、出直さなければならないことは明らかなのだ。
 しかし、国と熊本県は、最高裁判所に上告した。裁判は今も続いていて、いつ終わるともしれない。政府と熊本県は、原告患者がすべて死に絶えるのを待っているに違いない。
とはいえ、関西訴訟が続いていること、行政が上告を取り下げないことは、水俣病が終わりないことの「あかし」にほかならない。


[BACK]