「夜間飛行appendix」

                     〜 オレンジ色のニクイ奴 U 〜(2)



 人類の歴史は地球という星の歴史に比べれば、まだ始まったばかりと言える。それでも

数千年に渡って五億人程度だった人口は、この二百年ほどで爆発的に増えた。あらゆる場

所であらゆる人種が増殖して、折しもこの一九九九年の十月には六十億人に届こうかとい

う数の人間が地球上で生活している。もちろんその中には突然進化的な変異を遂げる者も

いておかしくはない。何と言っても六十億もいるのだ。味覚のパターンだって六十億通り

ある。


 「ようこそいらっしゃいました、北川先生」


 「や、やあ、相沢。それに水瀬も。ここんとこ毎日で悪いな」


 「そんなことないよ。私たちこそ北川君のおかげで助かってるよ。さあ、上がって」


 「でも英語の家庭教師なら、俺より美坂の方がふさわしい気がしてならないんだが?」


 「何を言う。俺と名雪は、本場ハワイ帰りの北川に英語を教わりたいんだ」


 「そう言ってくれるのは嬉しいが・・・」


 その六十億人のうち何人がソレを許容できるかは判らないが、北川は恐らくその貴重な

人間の一人だということがあのお茶会の日に証明された。あの雄叫びの後、北川は二つ目

三つ目と葛まんじゅうを口に放り込んでは恍惚の表情を見せ続けた。その顔があまりに嬉

しそうだったので、祐一と名雪と香里の三人は北川が本当に壊れてしまったのだとその場

で合掌までして冥福を祈ったが、その後、取り乱した様子もなく祐一に礼を告げてきた北

川の姿を見て彼は本当にあのオレンジ色の物体を美味と感じたのだと、認めるに至った。


 「今日も思う存分食べていってくれ。いや、食べて行ってください。北川先生」


 「いつもろくすっぽ英語を教えてない気がするんだが、ホントにいいのか?」


 あの翌日から祐一と名雪は、北川に英語の勉強を教えて貰う名目で彼を水瀬家に呼び続

けている。香里ほどではないが祐一と名雪よりは成績が良い北川に英語を教えてもらうの

は、別におかしなことではない。ただ、学年トップの香里が同席しているのに、あえて北

川を召還したことが不自然と言えば不自然だ。


 「香里ばかりに全教科教わろうとすると、香里が大変なんだ」


 「英語は北川君も学年で十番以内にいるし、わたし達にとっては充分、先生だよ」


 家庭教師の報酬は、秋子お手製のオレンジ色のジャムだった。秋子は滅多に消費されな

いオレンジ色へのリクエストに喜び、北川も恐縮しながらもそれを承諾した。つまりこれ

はオレンジジャム掃討作戦以外の何ものでもないのだ。祐一達にとっては、北川はただ水

瀬家でジャムを食って帰ってくれればいい。それが目的である以上、北川に実際に勉強を

教えてもらう必要など無く、勉強に関しては結局、香里の負担は全く減りはしなかったの

だが、彼女も謎ジャムを撲滅したいと願う人間の一人に代わりはないので協力は惜しまな

かった。


 「ホンットにこういうことにはアタマ廻るわよね、祐一って」


 「細かいことは気にするな。全て世界平和のためだ」


 「そうだよ。香里だってこれからは、お母さんが出すおやつにビクビクしなくて済

  むんだよ?」


 「まあ、そうなんだけどね」


 「北川は好物のアレが食べられる。俺たちはアレの脅威から逃れられる。万々歳じゃ

  ないか」


 全ての人間を幸せに導く理想の方程式。その解答に従ってさえいれば、北川は毎日オレ

ンジ色のジャムを口にして精神的な満足感を得ることができ、祐一と名雪それに香里の三

人は、オレンジ色のジャムが徐々に減って行くことで脅威を取り除かれるのだ。さらにこ

の作戦で幸福を授けられたのは彼らだけではない。当のジャム製造担当者・水瀬秋子その

人までも幸せにした。それまで不味いと言われたことはないのに、誰一人積極的にそのオ

レンジ色のジャムを食べさせてくれと申し出てくれなかったことで、彼女は自分の人間関

係に不審を抱いていた。なるべくそれは考えないように努めていたつもりだが、家族であ

る名雪と祐一までにも社交辞令を使われているのではないかと、寂しく思っていたところ

だ。そこへ至福の笑みを浮かべながらあのオレンジ色のジャムを頬張る人間が現れたのだ。

それはジャム製造者としての彼女のプライドを取り戻させ、人間不信からの回帰を促した。


 「こんなに喜んでくれた人は初めてです。嬉しいですわ」


 「こんなに美味しいジャムは食べたことがありません。これはもはや芸術です」


 「北川さんったらお上手ね」


 「しかも作っている人が、こんな美人ですてきな方だなんて」


 「まあ。北川さんは違いが判る人なんですね」


 実の娘である名雪でさえも、材料が何であるか教えられていないオレンジ色の謎ジャム

は、そのマニアックな味ゆえに、水瀬家に足を踏み入れる人物を長いこと恐怖に陥れてき

た。秋子にそれを出されたとき、誰もがそれを口にしないための言い訳を考えることに腐

心させられたものだ。そこへ彗星のように現れた北川潤。その男はそのオレンジ色のジャ

ムを美味いといって平らげてくれる。全地球規模で見ても稀にみる味覚の持ち主であるこ

とは想像に易い。


 「美味い! 美味い! どうしてこんなに美味いんだ!」


 それぞれの思惑は異なるが、北川が水瀬家にやってきてオレンジ色のジャムを食うこと

で世界は平和へと導かれつつあった。

 祐一と名雪は、人類に数多くの嗜好を与えてくれた神に尊敬の念を抱くと共に、北川を

友人に持てたことを心から感謝した。恐らく彼らの人生の中で、ここまで変わった味覚を

持った友人は二度と現れないだろう。いや、味覚が変わってようが変わってまいがこの際

そんなことはどうでも良い。要はあのジャムを食ってくれさえすれば、変態だろうがロリ

コンだろうが構いはしない。そして北川が水瀬家に通い始めて一週間が経った日には、瓶

の底が見えはじめた。


 「むはははは。残り1cm。あと一回、奴が来ればオレンジ色のジャムは消滅する」


 「これで毎朝、怖い思いをしなくて済むよ〜」



                               * * * * *



 ところがジャムの残量がごくわずかとなり、北川を利用した謎ジャム掃討作戦が最終日

を迎えようというその日の放課後、彼らの野望をうち砕く大事件が発生した。


 「は、腹が痛え・・・」


 「大丈夫か!? 北川!」


 「どんな風に痛むの? いつから?」


 「キリキリ締め付けられるように・・・だ。もう三十分も前から・・・」


 「わかったわ。名雪、保健室の先生呼んできて。祐一は石橋に言って救急車呼んで

  貰って!」


 「うん。わかったよ」


 「お、おう」


 掃除の途中から脇腹を気にしていた北川が、突然腹痛を訴えて倒れた。北川は直ぐに救

急車で運ばれたが、行った先の病院で診察を受けた結果、盲腸炎であることが判明する。


 「大丈夫かしら、北川君」


 「心配だよね」


 「まさか、あのジャムの効果が現れてきたんじゃないだろうな」


 「盲腸って外的要因でそう簡単に起こるものじゃないわよ?」


 「でも、あのジャムだよ?」


 「そうだ。秋子さんのアレだぜ」


 「・・・」


 「ね?」


 「な?」


 「やっぱり、あのジャムの後にはセイロガンが要るってことかしら・・・」


 北川の盲腸炎は、発覚したときにはかなり進行していて、腹膜炎を起こしかけた危険な

状態になっていた。それがジャムに起因するものかどうかは定かではないが、北川は入院

したその日に緊急手術を受けることになった。そして手術は成功し、北川も大事に至らず

に済んだが、ジャムの掃討作戦はここで一時休止となった。ジャムの残量を考えれば祐一

達の勝ちは見えたはずだったのだが、北川が倒れたという知らせを受けた秋子は北川が退

院した時のお祝いのためにと、新しいジャムの製造に取りかかってしまう。


 「しまった! まさかそう来るとは」


 「これじゃ元の木阿弥だよ〜」


 「どのみち新作は作るつもりだったんじゃない? あれだけ喜んで食べてくれるファ

  ンがいるんだもの」


 「こりゃあ、とっととあいつが退院してきてくれないと・・・」


 「いつまたわたし達に矛先が向けられるか、わからないね」


 「大丈夫よ。たかが盲腸でしょ? 一週間もすれば退院してくるわよ」


 ところが腹膜炎を併発し掛かるほど重症だった北川の入院は、彼らの予想よりも長引い

た。おかげで秋子には様々なアレンジを試す時間が与えられ、一日一本、前日の物とは透

明度の異なるオレンジ色がデビューしてゆく。今回は困ったことに秋子には目的がある。

その目的は北川を満足させることであり、今までのように単なる趣味で作っている域は超

えなければならないと自分に言い聞かせて作っている。軍事技術が実戦に於けるデータを

採集することで、次第に完成度を高めるという試行錯誤を繰り返して進化するように、秋

子の新型ジャムにも実験は必要となる。その実験台、つまり味見役としてついに祐一と名

雪に白羽の矢が立てられる日がやって来た。


 「うへ・・・。お母さ〜ん、これの材料って何?」


 「企業秘密よ。味の方はどう?」


 「うえぇ・・・う、うーん。なんていったらいいんだろ・・・よく分かんないよ」


 「やっぱり・・・もうちょっと改良が必要ね。味が薄いってことは、わかってたん

  だけど」


 「こ、これで薄い方なの?」


 「ええ。三倍に希釈してあるわ」


 「わたし、もっと薄味で良いよ・・・」


 「そう?」


 「うん。濃い味は苦手なんだよ」


 「じゃあ、次回の味見は祐一さんに頼むとしましょう」


 北川が入院して十日が過ぎた頃には、水瀬家の冷蔵庫は美しいオレンジ色を放つ瓶がズ

ラリと並べられて、アーティスティックでポップな異次元空間と化していた。数年間一瓶

だけだったはずのオレンジ色はここへきて急激に増殖し、事態は悪化の一途を辿っている。


 「ひい、ふう、みい・・・八本か」


 「まだまだ配備は続くね・・・」


 もはや水瀬家には核ミサイルと同居するような緊迫した雰囲気が漂っていた。祐一と名

雪は持てる言い訳を駆使して、臨界核実験に付き合わされるのを避けようとする。


 「秋子さん、明日の朝食は、絶対、味噌汁がいいんですが」


 「祐一さん、最近、日本食がお好きみたいですね」


 「ええ、日本男児ですから。我が国の類い希なる味噌汁文化を理解するためにも、

  しばらく朝は御飯と味噌汁でお願いしたいんです」


 「わかりました。じゃあ味噌汁にあうジャムを作らないと・・・」


 「は?・・・はい?」


 なにより秋子に悪意がないのが最大の悩みなのだ。北川向けとはいえ、善意でジャムを

作っている秋子に止めろとはやはり言えない。困り果てた祐一と名雪は、第三者である香

里に相談を持ちかけた。


 「なあ香里。なんとか秋子さんにジャム作りを止めさせる方法はないか?」


 「でも、秋子さんの唯一の趣味だって名雪に聞いてるわよ? 止めさせたら可哀想

  じゃない」


 「要は、オレンジ色のジャムだけ作るのを止めてくれれば良いんだよ。お母さんが

  作る他のジャムは美味しいんだもん」


 「北川は既にこの世にいないものとして、もう水瀬家には来ないから作っても無駄

  だっていうのはどうだ?」


 「在庫分は誰が処分するの?」


 「それは・・・」


 もし今、秋子に北川はもう来ないと告げたらどんなに落ち込むことだろうか。最初に北

川を連れて来たのは自分たちなのだ。秋子を喜ばせるだけ喜ばせておいて今さらそんなこ

とを言えば、どん底にたたき落とされた秋子を目の当たりにして、罪悪感にさいなまれそ

うだ。何より香里の言うとおり、その後のジャムの行方が心配だ。味見用のスプーン一杯

で済んでいるうちはまだいいが、一瓶丸ごとでは致死量を完全にオーバーしてしまう。


 「むむう・・・奴を殺すとこっちまで死ぬな」


 「でしょ? 北川君が一日も早く復帰することを望むしかないんじゃない?」


 「でもこの勢いだと明日も新作の味見をさせられそうだんだよ。香里、なんとか良

  い知恵出してよ」


 「そうだ。もはや頼れるのはおまえだけなんだ」


 「そういわれても・・・」


 「香里、親友じゃない。助けてよ」


 「香里、俺がどうなっても良いのか?」


 「はぁぁ・・・」





                            〜 (3)へ つづく 〜