「美坂香里 愛の劇場」


 美坂香里は孤独だった。
 妹を見捨てたという負い目が、彼女の心に深く影を落としていた。香里は気丈な方であったが、それでもこの重圧に耐えきることは出来なかった。
 香里は町を出ることにした。記憶を捨て去り、圧迫から逃れるため。孤独な逃避行を始めるため。
 香里は、電車を使わず山越えすることにした。駅にも良い思い出がなかった。駅前のパン屋。あのパンを、遂にあの男に食べさせることが出来なかった・・・

 森の中を歩いていると、泉に遭遇した。

香里「・・・こんな所に泉があったかしら・・?」

香里が思案していると、泉の中から美しい女神様が現れた。

佐祐理「あなたが落としたのは、金の斧ですかぁ?それとも、銀の斧ですかぁ?」

香里「・・・・・・。」

香里は女神様を無視した。関わりたくなかったのだ。

佐祐理「・・・・よくも佐祐理を無視しましたね。」

女神さまは怒ったようだった。

佐祐理「ごきごきになぁれぇ♪」

女神様の魔法で。香里はごきごきにされてしまった。

香里「(な、何よこれ!)」

佐祐理「あははーっ。佐祐理の魔法で、ごきごきにしてあげましたよーっ。」

香里「(どうしてあたしがゴキブリにされなきゃいけないのよ!元に戻してよ!)」

佐祐理「あははーっ、香里さんがあんまり人の心を拒絶する態度をとってるからですよーっ」

本当の理由は違った。

香里「だからってごきごきなんてあんまりだわ!人間に戻して!」

佐祐理「あははーっ。元に戻りたかったら、自分の力で『真実の愛』を見つけてくださいねーっ。」

女神様はそう言い残して、BGMと共に池の中に消えていった。

残された香里は、途方に暮れていた。

香里「(真実の愛なんて、そんな簡単に見つかるはず無いじゃないのよ!)」

喚こうとしても、言葉にならなかった。ごきごきは人語を喋れない。
 仕方なく香里は、街に真実の愛を探しに出た。ごきごきの姿で山越えをしても、もはや意味はないと判断したのだ。

再び町に戻った香里は、商店街を歩いていた。
見慣れた商店街も、ごきごきの姿だとずいぶんと様子が違う、香里は少し感慨に浸っていた。

あゆ「そこのごきごきっ!どいてどいてっ!」

香里「(え?)」

かさかさかさかさ

 香里は逃げようとした。だが、ごきごきの体は扱い慣れていないので、思うように動かせなかった。

べちょっ

あゆ「あ、踏んじゃった・・・。でも、ごきごきだからいいよね?」

香里「(・・・・・・。)」

 香里は潰された。しかし、持ち前の精神力とごきごきになったことで得た生命力で、何とか生き延びた。

香里「(な、なんであたしがこんな目に・・・早いとこ真実の愛を見つけないと、またひどい目にあうわ)」

香里は真実の愛を見つけるべく、商店街を移動した。

真琴「・・・やっと見つけた。」

香里「(ヤな予感・・・)」

真琴「あなただけは、許さないから!」

べしっ

香里「(な、なんであたしがあんたに攻撃されなきゃいけないのよ!)」

真琴「ごきごきは人類の敵なのよっ!」

香里「(あなた人外じゃないのよっ!)」

真琴「あうーっ、関係ないのっ!」

べしべしべしべしっ

真琴の執拗なまでの攻撃に、香里は必死になって逃げるしかなかった。

香里「(ハアハア・・冗談じゃないわ・・)」

香里「(はっ、またいやな予感・・)」

「・・・。」

ザシュッ

香里「(やっぱりこうなるのね!)」

「・・・私は、ごきごきを討つものだから。」

香里「(あたしごきごきじゃないの!本当は人間なのよっ!)」

「・・・何言ってるかわからない。」

ザシュザシュザシュ

香里「(ひ、ひ?!)」

「・・・ごきごき、逃がさない。」

香里「(あたしは人間なのに〜)」

香里はまた必死に逃げた。

美汐「・・・・。」

香里「(あ、い、いいところに!助けて、追われてるの!)」

美汐「・・・私に、ごきごきを助けろと言うのですか?」

美汐「そんな酷なことはないでしょう。」

香里「(違うの、あたし、今はごきごきに見えるかもしれないけど、本当は人間なのっ!)」

美汐「お名前は?」

香里「(え?)」

美汐「人間なら人語を喋れるはずです。お名前は?」

香里「(美坂香里・・・)」

香里は自分の名前を言った。しかし、それは人語ではなくあくまでごきごきの言葉であった。

美汐「人語が話せないようですね。やはり人間ではありません。」

香里「(あなた、今まで言葉通じてたじゃないのっ!)」

美汐「言葉が通じればすべて人間だと判断するのは、倫理的に危険だと思いませんか?」

香里「(え?で、でもそれは・・・)」

美汐「これ以上、私を巻き込まないでください」

美汐は去っていった

「・・・ごきごき、見つけた。」

香里「(いやぁ〜!)」

香里はまた必死になって逃げた。

秋子「あらあら、ごきごき。」

香里「(あ、秋子さん・・・)」

秋子「こんな所にいたのね」

香里「(た、助けてくれるの・・・?)」                

秋子「助かるわ。最近ごきごきを見かけなくなって、困っていたのよ。」

香里「(え・・・・・)」

秋子「あのジャムも、そろそろ残り少なくなってますしね。」

香里「(あ、あのジャムって、・・・それってもしかして・・・まさか、まさかぁ・・・!)」

秋子「ちょっと少ないけど、作れないこともないわ。祐一さんが喜びますね★」

香里「(そ、そんな・・・あの、あのジャムの材料が、まさか、ごきごき・・・)」

香里は大きなショックを受けていた。それは、あのジャムの正体を知ってしまったことによるものだった。
自分がジャムにされてしまうという事実は、ジャムの正体を知ったことに比べれば些細な事柄だった。

香里「(みんなに知らせなきゃ・・・)」

香里の中に眠る、正義を愛する心がむくむくと動き始めていた。

香里「(「でも、どうやって。今のあたしは、ごきごきなのに・・・)」

香里が思案に暮れている間に、秋子さんは先端が超微細加工された箸で香里をつまみ上げていた。

香里「(「真実の愛!真実の愛さえあれば・・・)」

香里は今、切実に愛を求めていた。
 
 
 

名雪「・・・小さなおでん種。」

秋子「おでん種じゃありませんよ。」

名雪「・・・ごきごき?」

香里は小瓶に入れられたまま、水瀬家に輸送されていた。

香里「(名雪。そうだわ、名雪ならきっとわかってくれるわ。だってあたしたち、親友だもの。またレズ説たてられるかもしれないけど、この際背に腹は代えられないわ。だって人類の危機だもの!)」

香里は名雪にコンタクトをとろうとした。
が、この時点ですでに名雪の姿はなかった。身の危険を感じ取ったのだ。

香里「(名雪・・・・・!)」

叫んでもそれは、やはり人の言葉にはならなかった。

秋子「さて。準備しなくちゃね♪」

祐一「うー、腹減った腹減った。俺ってば思春期だから、腹減るんだよねえ」

秋子「あら祐一さん。」

祐一「わ、あ、あきこさん!い、いえ、俺は決して、台所にあるもの勝手につまみ食いしたりしようなんて」

秋子「あらあら。でも、ちょっと待ってくださいね。今、とびっきりいいものを作ってあげますから♪」

祐一「いいもの・・・」

香里「(違うの相沢君!ちっともいいものじゃないわよ!だまされちゃだめよ!)」

そのとき。祐一の視線が、香里の方に向けられた。

祐一「秋子さん、これ・・・」

秋子「なんですか?」

祐一「ごきごき・・・ですよね?」

秋子「・・・・さあ?」

祐一「秋子さん・・・念のために訊くけど・・・今作ってるものって・・・」

秋子「・・・・・。」

祐一「・・・なんですか?」

香里「(「ジャムよジャム!早く逃げないと食べさせられるわよ!)」

香里の言葉は、やはり祐一には通じていないようだった。

秋子「企業秘密です。」

祐一「・・・。」

祐一は納得しなかった。祐一の目は、今現在香里に釘付けであった。

香里「(そ、そんなに見つめないで・・・じゃなくて早く逃げてっ!)}

祐一「・・・・。」

言葉が通じるはずもない。そうわかっていても、香里は叫び続けずにはいられなかった。

そして。祐一は突如香里の入った瓶をわしづかみにし、部屋から逃げ去った。

香里「(「え・・?)」

香里には一瞬、何が起きたのかわからなかった。

秋子「あらあら祐一さん、ごきごき返してくださいません?」

後ろから、秋子さんの追ってくる声が聞こえる。

祐一「・・・冗談じゃねえや、こんなもの食わされてたまるか。」

香里「(相沢君・・)」

 香里は思った。言葉が通じなくとも、祐一は香里の警告どおりあの場から逃げ去った。まるで、香里の言葉が通じたかのように。
いわゆる思いが通じたというものだろうか。香里の一途に祐一の身の安全を願う心が、祐一を動かしたのだと。
 そして香里は気づいた。あたしにはまだ、こんなに人のことを気遣う心が残っていたのだと。

 そのとき。祐一の抱えていた小瓶が光を発し、はじけ、そして中にいたごきごきは消滅した。
代わりに、人の姿に戻った香里がそこにいた。

祐一「お、重い・・・」

 祐一の口からとっさにでた言葉がそれだった。瓶の中にいた香里がそのまま元に戻ったので、祐一が香里を抱きかかえる格好になっていた。

香里「お、重いって何よ、失礼ね!」

祐一「香里・・・?」

 祐一は少し混乱していた。自分の行動を振り返り、記憶のない自分を呪い、責任の取り方まで考えていた。

香里「相沢君・・・とりあえず、降ろして・・」

祐一「おろして・・いや、俺は生んでほしい・・・」

香里「え?」

祐一「いやなんでもない。」

祐一は香里を下に降ろした。

秋子「祐一さん。ごきごきはどこですか?」

秋子さんが追いついていた。

祐一「え、。その、ごきごきは・・・消えちゃいました。」

嘘ではなかった。

秋子「・・そう。逃がしちゃったのね。せっかく捕まえたごきごきだったのに・・・・」

祐一「・・・・。」

秋子「どうしましょうか?」

秋子さんは笑っていた。が、その笑顔が祐一はひどく怖かった。
祐一はへなへなと座り込み、がたがたと震えていた。

そんな祐一を、秋子さんはにっこりとほほえみながら見下ろしている。

秋子「どうしましょうか。」

そのとき。香里が二人の間に割って入った。
祐一を遮るように、両手を伸ばして。

秋子「・・・香里さん?」

香里「秋子さん。相沢君を、許してあげてください。」

秋子「・・・。」

香里「もしどうしても許せないなら・・・・あたしが身代わりになります」

 今の香里は本気だった。自分に、真実の愛を気づかせてくれた祐一。自分を人の姿に戻してくれた祐一。自分を秋子さんの手から、危険を顧みず救い出してくれた祐一。その祐一を、今度はあたしが守る。命をかけても。たとえあのジャムを食べることになっても。

秋子「・・いえ。もう、いいんですよ。ごきごきは人類が滅んでも生き残るくらいですから、そのうちまた見つかりますし。」

秋子さんはそういって去っていった。少し残念そうな表情をして。

祐一「あ、ありがとう香里、なんと礼を言ったらよいやら・・・」

香里「いいのよ。相沢君は、あたしの命の恩人だから。」

祐一「???」

香里「何でもないっ」

そういって香里は、祐一に抱きつこうとした。

佐祐理「あははーっ、香里さん、ついに真実の愛を見つけてしまったようですねーっ。」

香里「あ、あのときの!」

祐一「佐祐理さん。」

佐祐理「でも、だからといって、すぐに祐一さんとくっついていいってわけじゃないですよーっ。」

香里「え、な、なにいってるのよ!そうじゃないわよ!」

佐祐理「ふえ、そういうことじゃないんですか?あはは、じゃあ、今ここで佐祐理が祐一さんを連れ去っても、全然文句はないんですよねーっ?」

香里「え?」

香里が言葉に詰まっている間に、女神様はあっという間に祐一を連れてどこかに行ってしまった。

香里「・・・・。」

後に残された香里は、ただ呆然とするばかり。
 

美坂香里の愛を求める旅は、まだ始まったばかりである。
 
 
 

「私の出番がありません〜」

北川「オレも。」
 
 
 
 
 

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