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ファッションとモデルに恋して
My life is always together
with the fashion and the all of fashion models.

ESSAY

YOICHI / H
 





















このエッセイは、
Performin Art
Producerの
YOICHI / H 氏から、
聞いた話を
文章化したものである。
30有余年にわたる
氏の思い出と今の
思いを過去と現在、
時に未来にも馳せた
思いを自由に、
日記のように
散文風に綴った
ものである。
上から下へ新しい
筆記となる。
日常氏の口をから
話された話を
出来る限り、忠実に
記憶の限り、
書き付けた。







GHOST WRITER




過ぎ去った
あの日の
ファッション

モデル達。

キラ星の
ように生まれ、
そして、
光の尾を引く
彗星や
宇宙空間の
隕石のように、
彼方へ飛び去って
行った
美しい人々。

あなた達の
若い
夢によって
私は
生かされ、
そして、
あなた達に
生命を
吹き込み、
息づかせる事を
生きがいとして
費やした
私の人生。

”ファッションと
モデルに恋して”、
生きた、
そこには
一縷の悔悟も
ありはし無い。

大きな
喜び、
そして、
未知の
未来に
誘われる
大きな
夢がある。

新たな
夢の為に
新たな
時代に
向かって
共に
漕ぎ出して
行きたい。
新しい
思い出を
作り、
感動を
分け合う
為に !

そして、
遥かに姿を消し、
飛び去って
行った
無類の
キラ星達に、
呼びかける。
再び、
新たな
光を
持って
参集出来る
日が来ます様に




   Y.H









































1980年〜
2004年













1970年代のパリで
映画『イヴ・サンローラン』
サンローランと彼の50年にわたるパートナーであり、
サンローランの元社長、ピエール・ベルジュ師との仕事と
人生、その業績と終結を描いたドキュメンタリー映画。
今世紀最高のデザイナーであるイヴ・サンローランは、
ココ・シャネル、クリスチャン・ディオール、
ポール・ポワレと共に
ファッションを通して現代の美のミューズを
生みだした、偉大な一人であることは、ファッションに知識が
薄い人であっても、誰でもが知る事実。
殊にサンローランは、同時代と言ってもおかしくない程、
ついこの間まで、我々とモデル達にとっては、
仕事の相手でした。
その当時、サンローランのモデルとして、
沢山のモデルのマネージメントをしていましたが、
特筆すべきは、黒人のモデル達に関してです。
それまで、ファッションは、白人の為の、白人モデルによる
ショー構成とキャスティングが中心でした。
そんな時代の中で、サンローランは、
本人自身のアルジェリア(北アフリカ)への愛情が、
その服作りにも、大いに影響し、
有色人種を非常に大きなポジションで起用したことが
特筆されます。
その頃の、サンローランのマリエ(ショーの最後を飾る花嫁衣裳)
を毎コレクション、身にまとったモデル”ムーニャ”は、
身長も170センチ前後と言う小さいサイズでありながら、
コレクションの花として、ショーの全体的イメージの
象徴である最終の美を飾ったのでした。
サンローランは、優しく繊細で、性格の良い人であったと、
誰もが言いますが、服を作る過程の中で、
人種の壁を越え、偏見を超える博愛者であったことを偲ばせる
言葉を、前述した”ムーニャ”がコメントしています。
”サンローランは、それまでの私達黒人が抱いていた
コンプレックスを拭い去り、黒い肌に誇りを持たせてくれた
最初の服飾デザイナーです。”
彼女のその言葉が代表するように、
バラ色の肌をした白人モデルの狭間を
褐色の肌に黒曜石の目を持った黒人モデル達が
多数起用されたのでした。

社長のピエール・ベルジュは、クリスチャン・ディオールの
亡き後、メゾンで主任デザイナーとして仕事をしていた
サンローランが、ディオールを離れざる終えなくなった頃に
出会い、電撃的な恋に落ちてしまったたと、
ピエール・ベルジュ氏は、映画の中で語っています。
例として、正しいか否かは分かりませんが、
アレキサンダーが世界制覇の旅に出る時、
傍らに幼い日からの親友であり、恋人でもあった人間がいた様に
デザイナーとして、世界制覇を目指した、
イヴ・サンローランとベルジュ氏も、
互いが互いに無くてはならない運命的アラベスクのような
神がもたらした組み合わせであってこそ、
見えない大きな
課題と目的に向かい得たのであると共感します。
共にアートやアンティークが趣味で、
一緒に買い集めたコレクションは、
サンローランの死によって、
最早意味のないものになってしまい、
20世紀最大の業績をなしたサンローランと共に、
コレクションもピエール・ベルジュの元を
静かに去って行くところで、映画はエンディングを
迎えます。
大切な誰かがいてこそ、奇跡が起こせ、
ものが価値を持ち、息づくこと。
人間は、自分の為だけでは、
どんな財産や名誉があっても
生きていけないこと、教えてくれます。
願わくば、ピエール・ベルジュ氏の今後の余生に、
また光を与えてくれる人が現れることを
願って止みませんが、
今後この様なエキサイティングで創造的な、
出会いは、
”ありえない事”と、無言で言い終えて、
映画は終わります。
■■

■UP TO THE SKY,DOWN TO THE GROUND■

上の英文は、マドンナのヒット曲〔PARADICE〕の中の一節です。
日本語で言うと、”良い事(時)も悪い事(時)もあった!
と言う様な意味だそうです。
2月11日にテレビを見ていると、明日12日には、
バンクーバー・オリンピックの開幕とのこと。
ソルトレイクのオリンピックから、もう4年もたってしまって、
びっくりするほど、ここ数年の年月の流れは早い感じがします。
素晴らしい事に心奪われ、幸せで我を忘れて!等と言うのでは、
残念ながら違って、判然としない社会風潮の中で、日常に追われて過ぎた感じがするのです。
でも、やっぱり感動的なオリンピックは、素晴らしく、楽しみなもの。
競技に選手に胸が熱くなり、人間の頑張りの限界の可能性を感じて、
我々も頑張ろう!あの選手達の大変さに比べたら、
どうと言う事は無い!と力づけられるのです。
■■
そんな事を思いながら、何気なく新聞を見ていたところ、
驚くべき記事が目に入ってきました。
あのアレキサンダー・マックイーンの訃報です。
もっとも才能ある、創造性の素晴らしい天才の一人。
ファッションの時代の先端を走って来た旗手。
パリに行って、モデルだったら、D&GやGUCCI,プラダとは、違う意味で、
一度はやりたいジョン・ガリアーノとアレキサンダーマックイーン、そしてサンローラン。
十数年前、まだ、リンダ・エバンジェリスタやナオミ、クリスティ・ターリントン等が、スーパーモデルとして、
ファッション界を闊歩していた頃の事。
イギリスの新進のデザイナー、アレキサンダーマックイーンの
素晴らしくフリルの重なったシャーベットカラーのフレヤードなドレスを彼らが着ている写真を見て、
服の美しさ、豪華さ、本格さ、それでいて若々しさに心奪われたものです。
それ以降は、スタンリー・キューブリックの映画、
「バリーリンドン」の中に出てくる衣装の様な中世のとてつもなく豪華でクリエーティブな服と被りもの、
そして、背景となる舞台美術や構成の見事さ。ある時は古典的、ある時は、超現代科学的。
またある時の登場はは、薬物に溺れ、ファッション界を追われたケイトモスの再生と支援に一役買う優しさ大きさ。
近年では、時代の寵児レディ・ガガの扇情的衣装と靴。
絶対に我々が育てた東洋人モデルをアレキサンダーマックイーンのショウに出したい!!
女性モデルでも男性モデルでも良い!
他のデザイナーの殆どは、幸運にも仕事をさせてもらったものの、残念なことに、
マックイーンは、縁を持てないままでした。
心に残る淋しさは、あの素晴らしい創造性のランウェイをもうモデルは、歩けないと言うこと。
デザイナーの仕事は、やはりいくつかはれ以外にして、一代ものです。
悲しいことです。冥福を祈ります。


梅雨時に思い出すパリの映画館
5月から6月の入梅の前の、
「雨月」等とも呼ばれる時期は、古い文学では、不思議なことが
起きやすい蜻蛉色な雰囲気の季節でもあります。
パリの若者と芸術家とファッションデザイナーや
ファッションピープルが集う街、サンジェルマンから
SAINT MICHAELLEに向かう細い道に
昔から日本映画の名画を上映する映画館があります。
そして、そこでは、日本の優れた感覚と創造性を持った
日本人監督のがフランス名画の巨匠たちのお手本となっているのです。
とくに、溝口健二監督は、人気が高く、
その作品、上田秋成原作の「雨月物語」は、
芸術好きなパリジャンの大嗜好品なのです。
カメラマン宮川一夫の深い陰影のモノクロ画面は、
カラー以上に鮮明で艶やかな色彩を感じさせる。
そしてしその後のヨーロッパの監督たちに
強い影響を与えた、カメラアングルは、
構図の完璧さも相まって、なお、クレーンで高い場所から
俯瞰し、動きながら撮っていくことが、驚嘆であったとか!
そして、その中闇の陰影の中で息づく、日本で最初に評価された
主人公の美しき妖怪を演じる京マチコの圧倒的な美しさ・凄さ・迫力。
国境や民族を越えた、今風に言えばグローバルな存在感。
そぼ降る雨、蜻蛉の様に煙る月、雨月。
戦後の混乱からまだ十分脱皮したとは言えなかったであろう(1953年)、
日本社会で、こんなにも優れた美意識に溢れた監督や
スタッフ、そして女優がいたことは驚きである。
挙句の果ては、ベネチア国際映画祭で銀獅子賞も取っている。
そう考えると、洋服の文化的歴史は、敵わぬものの、
日本人・アジア人であることの美を大切に徹底した表現者意識があったら、洗練されていたら
ファッションモデルの仕事に関して、女性も男性もヨーロピアンの存在を超えるモデルに成り得る。
圧倒される様な美しさ・カッコ良さで、世界に出ていけるよう頑張るべきです

人生に不可能な事なんてありません。


■才能と言うものの素晴らしさ■
youtubeで素晴らしいものを見ました。
イギリスのアーティスト才能発見みたいなTV番組での事ですが、
48歳の風采の上がらないスーザン・ボイルという女性が出てきて、
目標は、うら若い才能ある女優エレン・ペイジと言い、
誰もが冷やかに彼女の歌いだすのを見ていましたが、
歌いだしたら、それはそれは素晴らしい感動を受ける
天使の歌声。
ミュージカル「レミゼラブル」の中の楽曲で、
青春の傷つきやすい夢と希望、
混沌とした暗闇から立ち上がっていく勇気を
奮い起させてくれる歌詞を胸に打ち込まれる
素晴らしいものでした。
17〜18年前に、パリコレの直前に、
若く将来を嘱望される男性モデルを伴って行った
ロンドンのミュージカル劇場でスタッフ何人かで見た
レミゼラブル。
若き日の栄光も美も、誰もが皆、年を取り、夢を失い去ってしまったけれど、
何人かは、未だ、青春の夢を失わず、泡沫の夢を現実のものにしようと、
新たな若いモデル達と歩んでいる現在の我々。
不可能なことは無い!立ち上がってまた歩き出そう!
自分の中に眠っている才能を信じ喚起して、人々に感動を与えられる力を呼び覚まそう!
不可能は無い!夢を実現しよう!そんな心の火をもう一度、呼び起こし、焚きつけよう!
そんな素晴らしい感動を受ける名もない、名誉欲もない、純朴な中年女性の歌です。
youtubeで、日本語で”スーザン・ボイル”と打ち込むと、
日本語字幕のサイトが出てきます。胸の奥に何故か涙腺を揺るがす熱い気持ちが流れる歌声です。
ぜひご覧下さい。(2009APRIL20)



■素晴らしい日本人や海外のデザイナー達■
日本でヨーロッパ・米国で、沢山の優れたデザイナーが活躍しています。革新的な優れたデザイナー達は枚挙に暇がありませんけれど、例えば男性に美脚を要求したクリス・ヴァン・アッシュ、何だか素敵に変で、ズーッと、とても頑張っているヴィヴィアン・ウェストウッドや可愛らしくチャーミングで何時までも老けないジャン・ポール・ゴルティェ。モデルになった以上、モデルとしての自己顕示欲をたっぷりと発揮させてもらえそうで、女性モデルも男性モデルも是非ともやりたい味わいたいと思わせるアレキサンダー・マックウィーンやジョン・ガリアーノの驚異的な服と人間像の創造力と演出力、10年このかた変わらず魅力が一杯。
また、何時も革新的なコムデギャルソンやヨージヤマモト初め現代の先端を闊歩する多くの日本人デザイナー達。モデルは仕事ではあるものの、それを超えて、この新しい時代を動かす旗手達の仕事に表現者として参画して行きたいと言うピュアな憧れと、時にはドロドロの欲求一杯、モデルとしての自己表現魂が頭をもたげて、常軌を逸した面白さ。
何時も何時の時代も、このファッションの素晴らしい刺激的な魅力が心を捉え、前に前にと向かって歩かせてくれた。ファッションとそれを囲む雑誌やファッション・カメラマン、そしてファッションモデルの仕事は本当にエキサイティングで素晴らしい。
ここで少しファッションの歴史と言うとオーバーであるが、そんな流れを書いてみようと思う。
私がこの仕事のキャリアをスタートした頃、DIORやCHANELやGIVENCHY,そして SAIT LAURENT等、クチュールがファッションモデルの中心的な仕事で、今と違って、靴はモデルの持ち物でまかなわれた為に、一流のモデル達は春夏・秋冬のコレクション用に100足くらいの靴を持っているモデルはざらで、仕事によって使用する靴をバッグに詰め仕事場に向かう為、腰痛に悩むモデル達も多かった。この頃、海外のクチュリエと共に日本には日本人の優れたクチュールデザイナーが居た。そしてその中から、森英恵さんが日本人で初めてヨーロッパに進出し、パリオートクチュール協会の会員となった。
やがて


■我が心のシャーロット・ランブリング
テレビを見ていたら、陽が差し込む屋内プールのプールサイドで、
60台後半から70歳位に見える老年の女性がインタビューを受けていました

ヨーロッパのドイツかその辺の国の番組です。
開襟の黒いサテンのブラウスの胸に一連の真珠のネックレス、
黒いパンツを履き、浮き上がった血管の筋張った
手にタバコを挟んでいます。豊かに波打つグレイヘア、
時折、煙を注視しながら、インタビュアーに顔を戻して、話す仕草の凛とした存在感。
それは、今から30年ほど前に、ルキノビスコンティの映画には
無くてはならない卑猥で冷徹、崩れて落ちていきそうな精神生活、
あの危なそう
な俳優のダークボガードの相手役として「愛の嵐」の
ヒロインを演じた憧れのシャーロット・ランブリングでした。
彼女は30年前から何時も他の女優たちとは一線を画する存在と
魅力に満ちていました。それはファッション人間には
もっとも畏敬の念を持って迎えられた女優の代表的存在でした。
そのシャーロット・ランブリングがユダヤ人の強制収容所で
明日の命も知れないまま、自己のプライドも何もかも棄て、
ただ生きる為にナチスの将校達の慰み者となって、
怯え震え、退廃の極致の中に今日を今日だけは生きる権利を
獲得し、サスペンダーだけの裸の胸、ヒットラーユーゲント達が
身に付ける暴力的・狂気の象徴の様な帽子とつりズボンで
歌いながら仮面を付け薬と酒に溺れるナチス将校達の
宴の席で絶望した様なエロチシズムに満ちた歌を歌い、踊る。
髪を切られ、中性的な姿で見せた危険な美しさ。
戦争が終わり、収容所から解放され、今は
富裕な男性の妻として、豪華なファッションに身を包む
シャーロット・ランブリングのモデルが憧れるそのファッション性。
そんな彼女が時を経て、すっかり老年の境にある姿を
衆人にさらしていながら、その時の彼女の
少しの媚も老年に達した引け目も全く無い
インテリジェンスに溢れたある種の圧倒的な美しさ。
東洋人の様に少し腫れぼったい瞼の奥のとび色の瞳。
その少し重そうな瞼を眼力で持ち上げるようにインタビュアーを見る
彼女を見ていると、”美しい人はこの様に年を取るべきである”
”年を取っていくことは、何も不幸な事でも
空しいことでも腹立たしいことでも
淋しいことでもない”と意を強くさせてくれる人。
日本人は余りにも他人や物事の決める尺度を年齢に
求めすぎる。それは、きっとこの今の日本がその歴史の積み重ねを軽んじたことから
文化的水準が下降し、独自性がでなくなり、美意識が薄弱になってしまったから。
人間への尊厳を消失し、愚かになったせいであると
思う。


■才能■
サイト内の別のところにも載せましたが、最近、you tubeと言うサイトにはまっています。
ファッション・文化・芸術から、新旧の音楽や情報が、信じられない程の量で溢れ出して来ます。
ファッションショーを始め、ファッションに関わる情報も簡単に取り出せ、yahooやgoogleで検索し、やっと開いてみたら、不愉快な掲示板だったり、と言うような無駄がありません。
そんな中、とんでもない素晴らしい人を発見してしまいました。その人は歌手ですが、ただの歌手ではありません。
ロックからクラシックレベルの歌も歌える素晴らしい声量と表現力を持っています。
その才能の無限さに圧倒され、感動します。その人の歌の中で、ほぼデビュー曲と言える「TELL ME WHY」と言う曲があります。
揺さぶられる歌唱力に涙と感動を覚えずにはおれません。
その人と言うか、実はその子と言うのが正しいのですが、DECLAN GALBRAITHと言います。やたらに勿体ぶっているのは、それだけ凄い価値があるからです。は、DECLAN GALBRAITH現在は10代の中盤に差し掛かる様ですが、この曲を歌った時は、10歳だったのです。歌唱の何処にも、幼年者であるという稚拙さや甘えが微塵もありません。いい気になった傲慢さも全く無く、
エレガントでただ美しい声と社会の矛盾に対するプロテストの気持ち一杯にシャウトします。また併せて、AN ANGELと言う曲も素晴らしいのです。人間ってなんて素晴らしい素質をそれぞれに持っているのでしょう!

自分に対する甘え、社会や環境に対する不遜な考え、そんなものを脱皮して、自分の仕事ややる事に一生懸命になったら、人間って言うものの偉大さに、人は本当に出会えるのだと痛感するのです。人間の価値は、年齢でも立場でも境遇でもないと
久しぶりに目からウロコの刺激でした。

ちょっと残念なのは、そんな清潔感溢れ、可愛らしく現代稀に見る人間的豊かさを放っている彼が出した最新の楽曲でのクリップは、"ego youと言うのですが、その題名の”エゴ”を表現する為とは言え、誰に入れ知恵されたのか、どこにでもいる態度の悪い、表情の美しくないただの若者として登場してきます。本当は、やはり人間だから思い上がりもある、これも彼の真実の一部なのかと思えて、とてもイメージダウンで残念。一般の社会でも、モデルの世界でもあることだけれど、嫉妬も手伝って、悪い同属に引っ張り込まれて、まるでそれが、一人の人間の成長過程の登竜門の様に言う人や考えがあるけれど、それはただ、自己を肯定化して、我慢を覚える対岸にあるイージーな考えであると思うのですが、間違っているでしょうか?このdeclanと言う少年・青年歌手には、他の人にはない、社会の歪みや間違いに対する強いプロテスト精神があり、それが彼の価値であるだけに、少々がっかり?良く”いい子ぶっている”等と他人に言われて、一般的な人間性になってしまう人がいるけれど、そんな風にはなってもらいたくないものだ。

「山口小夜子さん!さようなら!」
私の仕事のパートナーである宮本啓史の母が昨日2007年8月20日95歳で亡くなった。
晩年数年間、病臥にあり、意識と無意識の境を行き来し、健康な家族の呼び掛けの声もその胸に届いていたか否か医者にさえ、図りかねた
そして、その意識が確実に彼女の肉体から遊離したその日、沖縄の空港は中華航空のジェット機の炎上・爆発のニュースで、ごった返していた。
本当はその日に東京に向かうフライトの予定を、何故かせっつかれるかのように、死が、すぐそこに来ている、重篤の母の姿に、最後の別れも出来ない申し訳なさに、手を合わす様な気持ちで、前日最終のフライトで帰った宮本氏。
まるで、母親が旅立つ息子が詰まっている仕事に何の支障もなく、帰らせる配慮をしているかのようであった。

その翌日、宮本の母の死を知り、テレビから中華航空の事故と、そして、山口小夜子さんの急死のニュースが目に飛び込んできた。
山口小夜子さん。
本当に懐かしく、思い出すと、どれ程沢山の思い出があるか知れない。何とも言えない深い悲しみが胸にこみ上げてくる。
決して、多くの時間を分け合う近いところで付き合いを持ってきた訳ではないが、全てが印象に強く焼き付けられ、昨日の事のように心に去来する。
小夜子さんの素晴らしさ。
日本で、パリで、まるで名場面集を作るかのように、忘れられないシーンを命と発想の限界を辿りながら神秘的な美しい顔と、全身を持って衣服を表現していた。
ここ十数年、モデルがデザイナーのイメージ以上に衣服や洋服を表現する事を良しとしない風潮であるが、それだけに小夜子さんの様に素晴らしいモデルであり、素晴らしい衣服の表現者は、育たなくなっている。服は、何処までも町やリゾート地を行く一陣の風であり、モデルによる過剰な味付けをした非現実性を帯びたパフォーミングとされたモデリングは要求されなくなっているのだ。
1970から1980年代後半まで、時代と、そして殊にファッションの世界は、刺激的で、才能で勝負しようとする人々が凌ぎを削り、その誰もが、不可能を可能にしようと躍起だった。デザイナーもモデルもカメラマンもヘアアーティストも、それ以外のファッションの仕事に携わる全ての人々が、輝き、奇跡を起こし、その上塗りをまたしながら、年を取ることも、絶対的障害物の存在も信じなかった。
小夜子さんは寡黙な人であった。自分を取り巻くプライベートな事柄を殆ど話さない。
おかっぱ頭の下の”こめかみ”まで引かれた切れ長のアイラインの研ぎ澄まされた美しさや少女の様な可愛らしい仕草とと微笑み。一度舞台やカメラの前に立つと、凄い迫力や独自の美意識、ファンタスティックな物語が覚醒したかのように雄弁となる。
小夜子さんが出てくる前後のファッションモデルは、ハーフモデル全盛で、外人の骨格に日本人のキメ細やかな肌と言う理想的要件を持ち、オートクチュールを着こなせ、一般的に強い個性が疎まれ、デザイナーによって何色にも染まる無職無機質な、それこそ、マネキン人形の様なタイプが良しとされた。
しかし小夜子さんは違っていた。何を着ても小夜子さんであり、また、それでいて各メゾンの小夜子さんである不思議さ。
しかしながらやはり小夜子さんの本当の魅力は、オートクチュールではなく、プレタポルテ台頭の中にあった。三宅一生さんのなくてはならないイメージモデルとして、山本寛斎さんの長きにわたる服の着手として舞姫として。そして、コシノジュンコさんも小夜子さんをこよなく愛した人。「うちの服を着たときの小夜子は一番小夜子の魅力が出るの!」愛娘を見るかの様に嬉しそうに、そう語っていらしたものだ。パリでの小夜子さんは、何といってもケンゾーさんのミューズ。小夜子さんのいないケンゾーさんのショーは考えられない。サンローランやバレンティノでの妖艶な小夜子さん、森英恵さんのシルクオーガンジーの中の小夜子さん!誰にも引けをとらないミュグレーでのエキセントリックな姿、そしてまさか似合うまいと思っていたヨージ・ヤマモトのショーでの予想を覆す新鮮な姿。。
挙げたら枚挙に暇がない小夜子さんの健気な雄姿。貴方は日本を背負っていました。貴方は新しい尊厳に満ちたファッションモデルの価値観を高めたファッション界の女性運動家の様です。平塚雷鳥が女性は「原始女性は「太陽であった!」と女性の地位向上に闘った如く、ココ・シャネルが針と糸を持って新しい女性像を生み出した如く、貴方は、ドレスメーキング学園で学んだ愛用の針と糸を心の懐にしまって、目線と体表現を持ってファッションモデルは素晴らしいと世界的に言わしめた人です。
思い起こせば、ガンジーの非暴力運動の様に静かに見ようによっては自虐的かとも思える美意識の琴線を震わせながら、、。
決して他人の悪口を言わず、いつも謙虚で、大正時代の少女の様に控えめで、それでいてモダン。感じが良くて、私は世界的スターモデルであった貴方から唯の一度も不愉快な思いをさせられた事がありません。
良くいろいろな舞台を見に行くと傍らの目立たない客席で、ひっそりと舞台を見ている貴方と幾たびも会いました。舞台が引けて、顔が合うと手を振り、にっこり笑って、ディオールのコートをはためかせて夜の街に一人で消えて行った。あの時の貴方の素敵さ、あの時の貴方の風の様な孤独。ニコルのショーの後、、長いスカートに15センチ近いカンサイさんのバスケットシューズを履き、Vサインをしながらスローモーションの映像の様に笑顔で横切っていった貴方の姿は、まるで亡くなってしまった貴方の華やかで何処か淋しげ人生を走馬灯の様に見せられた感じがします。
いろいろなファッションショーで、モデルの集合時間の前に、用事があって朝早くショーの楽屋にに入ると、長く広い楽屋の中に一灯だけ明かりが点いて、どのモデルよりも早くに会場に来て、本を読みながら待っている小夜子さんの姿を良く見ました。
ベースのメイクを済ませ、いつもの小夜子さんの顔。素顔を見たことは殆ど無い。優しい笑顔が遠くから花びらのように輝いていた。あの時の小夜子さん!
今も何処かでひっそりと楽屋の明かりの中で本を読みながらいる様で、悲しいな!と思う。
報道で流されたニュースでは、”孤独死”と聞く。なんて言うことだろう。あんなに素晴らしい仕事をした、あんなに素敵な人だったのに!
言い古され当たっていない表現・言葉だけれど、昭和の大きな”灯”が時早くしてまた消えてしまったと言う感じだ。
さよなら小夜子さん!本当に残念です。私は貴方に一つ借り(恩義の)がありました。そのお礼も出来ないうちに、返せない内に今生のお別れとなってしまった。「佳人薄命」と言うけれど、竹久夢二の黒猫を抱いた女性の風情を持った小夜子さんには、本当に、もう二度と会えない。

「仕事の波、発展の波」
良く”人生には、誰にでもチャンスが3度位はある。”等と耳にします。
チャンスの数は、人の人生観等によって、様々かと思いますが、確かに何か目に見えない力強い波が、”運が来た!”とばかりに波状的に押し寄せて来るのを感じる事があります。
気のせいと言えば気のせいなのかも知れませんが、何だか”満を持して”待てば運来たり!の感。
過去のモデル達にもそういう例が沢山見られます。
素材が良くて、誰も放っておかない様な素材のモデルは、さもありなん!むしろ何時まで持つか?この後どの様に次のステップに乗せて上げるかの、喜ばしい贅沢な心配。
しかしながら立ち上がりがスムーズにいけないモデルの場合。
”長く泣かず飛ばず”で、もしかしたら、このモデルさんは、◇スターになる前に挫折してしまうのじゃないか?、◇とても素晴らしいものを持っているが、何だかモデルとしての勘所が欠落していて、ジャストマッチに仕事を捕らえられない◇美しい故に誘惑に負け私生活が滅茶苦茶◇モデルとしての素材に問題あり等等。
でも、そんな振るわないモデル達にある日、ふっと幸運の小さい「矢」が刺さります。
その幸運が、私や、長いキャリアを持つスタッフ、勘の良いマネージャーなどには分かる訳ですが、同時にそれまでの、
そのモデルの過去の姿を考えてみると、折角の「幸運の矢」を生かせないのではないか?と言う不安に駆られます。
その不安は全く的中し、「幸運の矢」をみすみす捨てる人もいます。
しかし、多くの場合、その人々(モデル達)は、こちらが驚くような変化を遂げます。
他人の言う事を聞かない人が、急にコミュニケーションを取りやすい素直な人になったり、荒れそうな生活・破綻しそうに見えていた清潔感も失った様な人が、丸で水行(滝や冷水の池で水を浴び修行する事)でもしたかのように、さっぱりと、それまでの鬱陶しい雰囲気を払拭してスタンバイします。思いもしないような新鮮な可能性を再燃させて、、、。
また、このまま地道に、あるいは過激に肉体酷使のアルバイトをしながら、やがてその素晴らしい人格も成功を前に挫折してしまうかの心配の中、「幸運の矢」をしっかり受け止め、今まで出来なかった本人だけが知っている心の中の”表現の夢想”を”
創意工夫”の賜物かの様に発揮し、スターモデルとしての階段を上り始める。
何か”目に見えない偉大なる力”が働いているのではないか!?
そう言う風に思える事実に出会います。
数十年前、今なお優れたモデルとして、また舞踊家として活躍する山口小夜子さんとお話をした事があります。
時は正にハーフモデル時代。
西洋人の骨格とスタイルに東洋人のキメの細かい美しい肌。
モデルとしてこんなに按配の良いものはありません。
そんな時代、小夜子さんは、特に全くのオリエンタル。手足も身長もそれほど驚異的に長い分けではない。
後々語りづがれる程に真剣で真面目な姿勢を持ったモデルで、下積みしながら、コツコツどりょくしていた。
そんな小夜子さんに、ハーフ外人モデル一辺倒であった業界から「一矢」が放たれた。資生堂のキャンペーンが決まったのでした。静かにその幸運を嬉しそうに控えめに語る彼女の人格の大きさ。やがて彼女は、階段を駆け上がるように「世界の小夜子」に
なって行ったのでした。
チャンスは何時来るか分かりません。早く来る人もいれば、遅く来る人もいる。
大切なことは、諦めずに頑張り続ける事。
頑張って努力を続けていなければ、神様からチャンスの矢が射られる時、標的になりえないのですから。
一人でも多くのモデルが、否、全員が、そうしてそれぞれのチャンスを捕まえ、それぞれの花を咲かせて、人生を謳歌さして上げたい。そのために私のキャリアや感覚が役に立つなら、精一杯の協力をして上げたい。
そう望むのです。
そんな折、2007年の春になって、つくづく思うこと、感じることは、J.P.Iと言う会社と私自身に大きな「運の波」が、押し寄せてきている事。
大きな奇跡が起きることをとても感じる今日この頃です。
こんな感じを過去10年に一度くらい感じて、その度に皆で大きなことをやって来た。そして、スターモデルが生まれて来た。
とてもワクワクする感じが強まってきている。
まだ、その波は沖合いにあるのであろうが、確実にこちらに向かって来ている。そんな感じがするのです。
みんな頑張りましょう!きっと良いことになるのです。
(11/APRIL/2007)



「仰げば尊し」
”仰げば尊し、我が師の恩、教えの庭にも早幾歳”
このところ書き物や雑事の仕事をしながら、ふっと気が付くとこの歌を歌っていたりする。
よく、年を取ってくると懐古趣味で、昔の童謡等や流行歌等に執着してしまうのが人々の常であるが、
見栄を張るわけではなく、それとはちょっと違う。
この歌の中で、幼い時から今日まで、特に挫折しそうな時に、誰かに力付けられるかの如く、心に反芻して来、自分自身を立て直してくれたフレーズがある。
それは、この歌の2番にある。
”互いに むつみし 日ごろの恩
別るる後にも やよ 忘るな
身をたて 名をあげ やよ 励めよ
いまこそ 別れめ いざさらば !
毎日のニュースを見ると、幼い子供達の惨たらしい事件や、常軌を逸した教育者や父兄、一般の大人たちの信じられない事件や事柄が紙面を賑わしている。
教育界の権威が失権して久しいが、それに伴い多数化している親達のエゴイズムと閉鎖的心理、目に映る大人たちの人間としての尊厳欠如と言うか、不実で破廉恥、上昇志向に欠けた日常性が、相乗的に作用しているかの様に、人心が荒廃して、解決策が見当たらぬ暗雲の中の様相の昨今。
かと言って、大上段に、したり顔で、今の世の中を嘆いている訳ではない。
卒業式に”仰げば尊し”を、国歌斉唱共々、歌わない学校が多いと聞く。
国歌斉唱は、日教組や、自由主義者、反国粋主義等イデオロギーの問題もあって、どちらでも国意では無く、国民の意思による結論に成り行きを任せるとして、”仰げば尊し”はちょっと残念な気がする。
私達が小・中・高校生の時(大学では、反体制が主流であり、また、大学教授は学問を教えても、人の道を教える人では無く、その意味で教育者とは目さないとして)でさえ、もう既に数える程の例外の教師を除いて、教育者たる教育理念に燃えた学校教師は見当たらず、既に聖職とは思えず、小説に見る”24の瞳”にある様な神々しい、有り難い教育者は見られなかった。
従って私の中にある”仰げば尊し、わが師の恩”は、具体的姿を伴わぬ、わが師であり、空中にさ迷う教師像を対象にして、その後のフレーズである、一生を左右する歌詞にたどり着く事になる。
それこそが、

”身を立て、名を上げ、やよ、励めよ!”である。
歌詞の中の”やよ”は、現代使わない言葉であるが、”一層”、”さらに”といった所で、努力を続けなさい!と言っている。

勉強が出来ても、出来なくても、容貌が美しくても、例え他人の口に上らない容貌でも、金持ちの子でも貧しい家庭に育った子でも、性格が良くても悪くても、いじめっ子や運悪く苛められてばかりいる子でも、何らかの障害を双肩に背負って生きなければならない子供達にも、将来は平等に開く事が出来、何事にも負けず心がけを強く持てば、素晴らしい夢や希望が実現する事。
誰にとっても、人生のスタート地点に立った人々にとって、また大人になり、夢や希望を喪失しかかって、再び挫折から立ち上がろうとする時に自分自身を鼓舞する言葉、それが

”身を立て、名を上げ、やよ、励めよ!”である。

ある時にファッション誌やファッションショーを見て、モデルと言う仕事に衝撃を受け、ファッションモデルになろうと決心する。
画面や紙面、そこに映っている姿は自分ではないが、もう既に自分の一部がそこに乗り移り、自分化して、エキサイティングである。
自分の姿は脳裏と空間の中で、ファッション誌のグラビヤを飾り、ランウェイを闊歩する。
想像も付かない成功と人間関係、大きな夢と煌びやかで、ファッショナブルな日常生活、恐いものは無い!。
しかし、誰でもがそうである様に、まして若くして成功を掴んだ人、そして成功途上で盛り上がっている人、また皆目先の見えない発展途上の中でオッカナ・ビックリ組、虫の良い成功を願っている人。
そんな中にある人々に、思いもかけない試練がやって来る。
そして、幾たびもその試練は、やって来る。
そんな状況におかれると、簡単にモデルの仕事を止めてしまう人、自分には才能が無い、普通の人に戻りたい、別の人生がある!等の理屈を付け、夢や希望を嘘の様に投げ棄ててしまう。
もし、この仕事で”身を立て、名を上げよう!”と思うならば、”やよ”励まなければならない。
”やよ”励んだら、確かな形で成功を自分のものに出来、また自分だけではないものにも出来、なおかつ、さらに”やよ”励み続けたら、ファッションモデルのキャリアの実績の上に、新たな仕事が付いてくる。
デザイナー、スタイリスト、評論家、エッセイスト、カメラマン、イラストレーター、料理研究家、外国語講座の先生等、過去の優れたモデルさん達のその後の進路は様々である。
どんな仕事でも、頼まれた事しかやらない!や、私がやりたいのはこの程度!もっと遊びたい!私生活の事で頭が一杯!、勉強したり努力するなんて垢抜けなくて、元から嫌い!では、人生を通した成功や仕事はありえません。

何だか、学校唱歌”仰げば尊し”の推進委員みたいになってしまいましたが、そんな事ではなく、イエス・キリストの”人はパンのみによって生きるのでは無い!”ではありませんが、やはり、人生には夢や希望や、やりたい事が無くなってはお終いと思うの時、人は、そのスタート地点に於いて、胸一杯に、自分と親と、健やかで幸せな自分の成功を願ってくれた人々のエールと”
”に送られ、今日があるのだと、思い返す事の大切さを思うばかりでした。
最後に、卒業式の定番とも言うべき、二つの曲のリンクを紹介しました。

「仰げば尊し」
「蛍の光」


「フェルメールの鼻を持った人」
1970年から1980にかけて、ファッションとコマーシャルの世界は、ハーフのモデルさんが台頭し、彫刻的な骨格の西洋人の目鼻立ちと透けるような皮膚に、東洋人のキメの細かい肌が備わっている、天下無敵の美女の時代。
たくさんのハーフのモデルのマネージメントを手がけた。
鼻筋の短いキュートでコケティッシュなモデル達が多く見られる中で、どちらかと言うと、鼻の道中が長く、白い陶磁器の様な皮膚の下に血管が透けて見え、薔薇色の頬をした、あるモデルがいた。
一度、服を着て、ホリゾント(写真撮影用のバックシート)の前に立ち、アンバーな光を受けると、たちまちの内にフェルメールの絵画の女性になって行く。
服がミニだったり、宇宙的な服だったりすると、中世のそれの時代性があやふやになり、なんともミスマッチな美しさを醸し出す。
デザイナーやカメラマン、そしてモデル仲間は、彼女を「フェルメールの絵の様な女」と呼んだ。
語学が堪能であった彼女の母親は、軍医であった米国人の男性に求婚され、代々神道の篤い信者であった家柄からあっさりとクリスチャンになった。
やがて生まれてきた一人娘は、細い体躯に、それに不釣合いな少々太めの足を持っており、そこだけがとても当時の日本人的であったが、美しいダークブロンドの髪をしており、それを風にそよがせてインターナショナルスクールへ通っていた。
海が好きな人の誰もが、シュノーケルを付け、海中散歩に出かけると、多くの魚に出会い、暫くすると、ほってはおけない殊に美しい魚に出くわす。そうするとただその魚だけが、重要で追い掛け回したくなるものだ。
それと同じ様に、厳格な米国人家庭であった両親の心配が的中し、彼女は、人目に付かない団体の中から一人、ピックアップされ、人の目にさらされ、注目され続けるモデルの職業をスタートすることとなった。
それ以降の彼女の活躍は、雑誌・ショー等は勿論の事、大きなコマーシャルでヨーロッパやアフリカ、アメリカなどへのロケ、
海外デザイナーの要請に応え、パリ・ニューヨークへ。
あっという間に10年の月日が流れたが、幼くしてモデルの仕事に忙しさに飲み込まれ、十分な学業をする事が儘ならず、11年目の春、意を決したように突然大学へ入学し、哲学の勉強を始めた。
それでも時間を調整し、モデルの仕事を続け、やがて、母親同様、医者と結婚し、モデルの仕事から、だんだん見かけなくなっていった。
数年して、偶然に彼女に会い、家に招じられ、お茶を頂く。
エキゾチックな家具に囲まれたインテリアであったが、そこにフェルメールではなく、何故かモジリアニのリトグラフが飾られていた。
やはり、長い鼻とあくまで面長な顔、少々アンニュイなのモジリアニの女性の絵である。
ちょうどお茶を口に運ぶ彼女の肩越しにそれは見え、年齢を重ねた彼女は、研ぎ澄まされた様で壊れやすそうなフェルメールの少女ではなくなり、落ち着いたモジリアニの女性になっていた。
噂に聞けば、その後、また、お洒落を始めて、お化粧をした彼女の部屋の絵は、マリーローランサンになったそうである。



「モデルとの邂逅」
ファッションモデルのマネージメントの仕事を初めてから、30有余年が経つが、現在までに3000人程の数の男女モデル達を育ててきた。
それぞれに若く美しく、希望と夢に溢れ、誰もが服が好きで、誰もが見えない大きな将来に賭けて邁進していた。
デザイナーも技術の粋を凝らし、一針一針の刺繍やスパンコール、そして、オーガンジーやタフタ等の上等な絹等の布帛・毛皮等を使ったオートクチュール。
旧態の美意識を組み直し・壊し、新たな「今」を生きるスタイルを作り出すプレタポルテ。
それらをパブリシティ(一般に対する認知)と言う形で、広く世間に知らせるファッション雑誌と言う媒体。
新たな商品を新たなコンセプトで周知させ、商品販促をもたらすテレビ・コマーシャルや様々な商品カタログ。
これら様々な場所で、時代を表現する媒体として「顔」として、ファッションモデル達は、その間をすり抜ける様に、またある人は、それらを全て網羅して、世間の人々の憧れとして時代の表舞台に表出する。
3000人のモデル達は、それぞれの生い立ちや経歴、モデルとしての素材等はまちまちであるが、様々な特性を持って、同じ市場で凌ぎを削ってきた。
それぞれのプライバシーがあるので、ここで詳しくは書けないが、モデルも生活感の無い仕事をしているとはいえ、生身の普通の人間である。
それでいて社会的「顔」をもっており、その狭間で、彼らはその私生活に於いて、映画や小説にもなりえるドラマを生きていた。
その成功と幸せの裏側には、突然の様に神の試練かとも思える悲劇や青天の霹靂も沢山見てきた。
しかし、ファッションの仕事は、彼らを助け続けてくれた様に思う。
彼らはその悲劇の中から、より美しくなり、より豪華になって行った。ファッションは人を活きづかせる力をもっている。
だから虚栄ばかりでは無く、人々は服を買うのだ。
モデルばかりでは無いが、総じて、成功するファッションモデルは、東京出身者よりも地方出身者の方が多いと思う。
東京人はハングリー精神が欠乏しているのか?単に都会的であることは、爆発的な都会派にはなり難いようである。
むしろハッキリとした都会的魅力や、冴え冴えとした強烈な個性や存在感の何たるかは、地方人の方が受け取り、取り入れるアンテナを持っている様な気がする。
彼らはドルチェ・ガッバーナやジョン・ガリアーノ、ジャン・ポール・ゴルチェ、グッチ等のテイストをいとも簡単に理解し、渇望し、受け入れる。
もっともここ数年、プラダやバーバリー等老舗のメゾンの”何気ない”服に関しては、地方出身者も東京人も相拮抗しているように思えるが。
あるモデルAがいる。
彼女は、後に閉山となった筑豊の炭鉱で、職を持っていた父親に男手一つで育てられ、炭鉱を去った母の顔は、後姿しか記憶にない。
炭鉱が閉じられ職を失って路頭に迷う夫と子供との生活に疲れ、明け方出奔していく母の後姿を彼女が泣いて追っていた事を、後に付近の人から聞かされ、母への思い出は後姿だけとなる。
家に残されたのは、編みかけの毛糸と編み棒。そして、服飾雑誌の型紙と中原淳一の「ジュニアそれいゆ」と「女の部屋」。
丹念に付箋が付され、父と子供のサイズが、書き込まれている。
高校を卒業し、併せて正看護婦の資格を取得し、街の大きな病院に就職した。
真面目で優しい彼女は、注射を打たせたら一番と言われる腕前で、点滴の時など、彼女の担当の時、患者は喜んだ。
夜勤明けで、彼女の唯一の楽しみは、街のロードショーでかかるハリウッド映画やフランス・イタリア映画等で美しい主演女優を見ること。古い映画では、ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画の中のロミーシュナイダー、「ローマの休日」、「ティファニーで朝食を」のオードリー・ヘップバーン、そして「哀愁」や「風と共に去りぬ」のビビアン・リーは、彼女のお気に入りであり、美しい女性になる為のテキストであった。
鏡に向かって、口角を上げ、微笑んでみる。口元は笑いながら、目は何かを射抜いていなければならない。
映画の道すがら、彼女は決まってデパートやブティックのウィンドウを眺めて歩く。
そして、ある日その中の一軒のショップの一隅で行われていたファッションショーを見、彼女はモデルになる決意をする。
たまたま東京から来ていたあるデザイナーが彼女の恵まれた容姿のバランスに目を見張り、彼女にモデルになる事を薦めたのだ。
2ヶ月後、彼女は東京行きのチケットを手に窓外を眺めていた。
モデルになってから、1年程は、仕事らしい仕事も無く、アルバイトに明け暮れた。
一年前に東京行きの車窓を眺めて夢想した憧れのファッションモデルの仕事は、自分とは関係の無い手の届き得ないものに思えた。
今日と同じ日が明日も流れ、アルバイトの収入は、6帖一間の部屋代と食費・高熱費等に消え、企業で言えば、自転車操業である。
しかし、彼女は諦めなかった。諦めるにしては、夢想の中とは言え、余りに現実的にファッションショーのランウェイや有名なカメラマンの被写体として動く自分自身の姿を鮮明に描き、アイデアが一杯にあり過ぎたから。
その内、ポツポツと雑誌やショーのオーディションが入り始めた。
当日は、朝から1時間かけて、入浴し、ストレッチをし、服を選び、やや低めの鼻と少々腫れぼったい目をあるべき形にすべく、メイクアップする。
指定は、スッピンに近いナチュラルメイク。
しかし、そんな訳にはいかない。陰影を付け、目に張りを出し、しっかりメイクをしながらも、然もしていない風に研究に研究を重ねる。
全て終え、オーディションに行く。
何処のクライアント(仕事を発注するスポンサー)にも、受けが良く、努力の甲斐も報われた。
しかし、結果は、何処も決まらず、しばし自室の中で天井を眺めて、呆然と過ごす。
それでも彼女は、モデルへの夢を止める事はなかった。
何処かにきっと私を認めてくれるデザイナーや、巡り合うべき仕事が待っている。
「あちらは待っているが、こちらがそれを獲得するには、今ひとつ自己の努力が必要なのだ」
3年後、東京でのあらゆるコレクション(デザイナーズのファッションショー」をレギュラーでこなすモデルとなり、九州から東京への不安な中で手にした汽車のチケットは、新たな不安を抱きながらも自信に裏打ちされたミラノ・パリ行きの航空チケットとなった。
最初のパリ・ミラノは、苦戦ながらも、まあまあの出来。念願であったサンローラン、ジャンニ・ベルサーチ、バレンティノも出来、
雑誌の撮影も4ページ出来た。
その次のシーズンからは、パリ・ミラノに着き、エージェントに行くと、デザイナーから沢山のオファー(出演依頼)が入っており、ショーが始まると、ショーの終了後には、NYのエージェンシーやデザイナーからオファーが入った。
パリコレクションの最中、メインのモデルとして、マリエ(ショーの最後の花であるウェディングドレス)の仮縫いの時に、東京から電話が入る。
父親の訃報である。
ドレスは、腰から膝へのラインの仕上がりがデザイナーの意に染まず、手直しの針が打たれる。
チュール(ウェディングドレスの頭に被るネット状の布)の刺繍模様が思っていた位置に来ない。デザイナーはナーバスになり、頭をかきむしり、目頭をこする。
チュールの中、抑えていた気持がどっと溢れ、涙で顔がくしゃくしゃになった。
最初は、服に感動しての涙かと、フィッター達は微笑んでいたが、異変に気づいたスタッフが彼女に「何かあったの?」と聞く。
彼女は微笑み、翌日のショーは大成功裡に終わる。ステージをキャットウォークで歩きながら、故郷の実家で今、執り行われているであろう事柄が目に浮かぶ。
その日を最後に、エージェントの勧めで仕事をキャンセルしてもらい、成田行きのビジネスクラスを取ってもらう。
成田で九州行きの飛行機に乗り換え、故郷はこんなに遠いのかと逸る気持の中、葬儀の会場に着く。
暴走族のレースに背後から衝突され、病院に運ばれる途上で息を引取った父親は、母の名を呼んでいたと言う。
意識は、20数年前の親子団欒の中にあった。
それから10年間、彼女は、文字通り、スターのモデルとして、活躍し、やがて家庭に入り、今は2児の母として、また、看護婦時代の経験を活かして、幼年児のメンタルケアの仕事をしていると風の噂に聞いた。
今も思い出す駆け出しモデルであった頃の悪戯っ子の様に笑いかける希望に溢れた彼女、ステージの上を左右・中央と目線を切りながら闊歩するモデルA。


「ナチュラル
ここ10数年の間、デザイナーの人達やエディトリアルの人々は、いつもモデルに対して、ナチュラルである事を要求する。モデルにとってナチュラルであるとは、どういうことか?
一見、TOO MUCHな服を作るデザイナーも、本当にナチュラルな服を作るデザイナーもカメラマンもアートディレクターもエディターもナチュラルを要求する。
そして、日本人モデルは、押し並べて、ナチュラルが苦手である。
様式性を強く持つ国民性に重ねて、文明開化から100数十年を経、和服を日常着る事が無い若者が大半でありながら、それでも、日本人は洋服、特に夜に着る洋服との間に距離を持つ。
イブニングは勿論、、カクテルにさえ、動きにぎこちなさが伴う。また、エスコートする男性にしても、タキシードを着、髪を撫で付けても、気障にならずに、所作振る舞いをする男性は少ない。
時として、ワックスやディップローションで髪をギラギラにして、正装をする男性がいるが、ソフトな髪型で金髪碧眼の人々の中に混じると、妙に頑張っているようで、スノッブに見えてしまう。
ひとえに、これは、日本は社交界が無く、生活の中でも、エレガンシーを要求される夜の社交を持たない洋服の生活環境の欠如に他ならない。
また、昼の服にしても、ルイヴィトンやプラダの服が相変わらず、若者の間に人気があり売れているようであるが、パリ風のカフェで交わされる話も、恋の形も、落胆も喜びも、価値観も、それらが刻まれた石畳が、アスファルトになると、街路に流れるポルシェやベンベの車からクロード・ルルーシュやバレンティノ、ルキノ・ビスコンティ、ジョルジオ・アルマーニ、ジャンニ・ベルサーチの姿は想起できない。
しかしここで西洋人に比べ日本人が如何に洋服が似合わないかを述べる気持でいるのではない。
モデルのマネージメントをしてきて、日本人モデルである彼らが国際的舞台で真にスターになるには、容易な事では無く、また逆に(ある程度素材に恵まれていなければならないが)、心の中の認識を変えればそれは以外と難しいことでは無いという事を述べたいのである。
国内であれ、国外であれ、1回2回であれば、突飛で大胆、またはモデルとして優れた容姿をもっており、夢を実現化するガッツがあれば、ある程度の成功は勝ち得る。
しかし、そう長くは喜びは続き得ない。
では、生活観を持たない日本人モデルは、如何にして、国際舞台で成功するか。それは、今一度、日本人である事を受け入れ、
それでいて東洋趣味に傾くことなく、西洋人の中で生きるインターナショナルな東洋人を自分の中に取り込むことである。
そして、彼らがどの様に、西洋の文化の中で呼吸し、人と触れ合い、ナチュラルな姿勢で生きているかを掴む事である。
そして所作・振る舞いのエレガンス、生きる事に対する息吹を盗み、掴む事である。
また、出来る限り、英語を始め、外国語を学ぶ事も自信を付ける上で大切である。
そして、自分自身が、女性にしろ、男性モデルにしろ、今生きている自分の中の感性や、自己の人間性、自分自身であることに自信を確立する事である。
無心に服に対峙する、無理をしたり、力を入れすぎたり、気取りすぎたりせずに、、、。

[もう一歩進めて、どの様にして、外国人に見劣りしないナチュラルさを身につけるか]

まず、モデルになったら、何はともあれ、自信を培う事に心を砕くべきである。しかし、自己満足だけの自信は客観性が無く、滑稽なだけであるから、客観的にナチュラルな美しさや野性味、存在感を持つ為には、日常の中で、その人にとっては、アンナチュラルな努力をまず、しなければならない。客観的にナチュラルな審美性を持つには努力しなければならない。
まず、言葉遣いを美しく、刺々しくならずに要旨を述べられ、相手の話を良く理解できる[聞き上手〕になる訓練をすると良いと思う。
モデルになり優れていくと感性が研ぎ澄まされるが、出来る限り謙虚であるように努め、知ったかぶりや人を見下げた様な態度、感情的発言を出来る限り控えるべきであると思う。
ファッションの仕事に携わる人は全般に感受性が強く、時としてイライラしがちになりやすいものであるが、相手と同じ色彩を出すと、互いにぶつかり合い、クリエーティビティが相乗効果を生み出す上で障害となる。
人間は、特に他者の評価を基準にし易い日本人は兎角、自分自身を、本当の自分自身よりも高く、相手に見せようとしがちであるが、
相手からどの様に思われるかを考えるよりも、誠実に、相手に対してデリカシーを持ち、自然体で振舞う事である。
たとえ相手から、その為に低く、自己の人格を捉えられることがあったとしても、本当に人格が下落する訳でもなく、自分自身は、褒められたにしろ、貶されたにしろ、何ら変わるものではないからである。
むしろ、その様な人間との付き合いの中で、時を待ち、教養を静かに育てる事に勤しむことが賢明であると思う。
良く、自分の中で、対人関係につまずくと、”距離を置こう”と決心したように言う人がいるが、それ程、自分の誇りだけを大切にした所で、精神衛生上良くないし、円滑化するかも知れない未知の人間関係を断ち切るだけである。
人はいい気になれば、必ず、誰かがバッシングするもの。全ては勉強であると思い、暗い思考回路にならない事である。
全て許す事、感謝する事、これが人生の幸せになる為に大切なキーワードだと思う。
そうしていると、やがてそれに見合う評価と人間関係が知らず知らずに集まってくるのだ。
そうすると美しくなって、またさりげないカッコ良さが身に付いて、人の憧れが貴方に向かい、成功が数珠繋ぎでやって来て、
やがて、モデルとして、人間としても大きな成功と愛がやってくるのです。


「本当のモデル」

過去の事ばかりを語るとノスタルジアにふける老人の様であるが、やはりモデルと言う職業の時代的優越性を比較・鑑みると、
過去のモデル達は、モデルと言う職業意識の点では、今のそれよりも優れていた、否、優れようと努力していた事は否めない。
一つには、オートクチュールの時代が、豪華な服を理解でき、それを表現できるモデル達を要求した為、モデル達は、髪の毛の一筋から、肌やボディライン、膝株や肘、首筋、襟足等、一部の隙もなく、清潔に、鑑賞に堪える様に磨いていたし、また、服の見せ方に関しても、研究に余念がなかった。
彼らが纏う服は、シルクであり、絹一つにしても、タフタあり・オーガンジーあり、そして手刺繍、宝石、豪奢な帽子や被り物、
床を這うトレーン(服や布を引きずる)、高級な皮革や絹の手袋。
それらオートクチュールと心中しそうなモデル達は、ついこの間まで、存在し、重ねる仮縫いの一針一針、出来上がっていくシーチング(本番の生地を使う前に木綿の生地で服の原型を作る、その木綿地)に胸ときめかせ、やがては、自分が着るであろう本番のドレスに思いを馳せて、胸を反ってみたり、英国式兵士の訓練宜しく、「気をつけ!この字で正しかったかしら?」の姿勢をとってみたり、、、。
彼らモデルの下着は、押し並べてシルクであり、服への付着を避ける為、香水の香りの代替の石鹸の香り。
そして、服の仮縫いや衣装合わせが終わると、瀟洒なバックから取り出した、ジバンシーやサンローラン・バルマン等のトワレや香水を一吹き、胸元へ吹きかけるエレガントな彼らの仕草。
やがてオートクチュールにとって変わり、高級なプレタポルテが服飾販売市場の大半を占める様になっても、彼らモデルは、若いプレタの服の流れに対応しながらも、モデルと言う職業性において、決して、清潔感と、ある種の高級感を失うことは無かった。
今年、オートクチュールは昨年までの15ブランドから、さらに減じて、8ブランドのみとなったそうである。
町を歩く女性のファッションの主流は、ここ数年、カジュアル化が一層進み、ジーンズが今を代表するアイテムである。
モデル達も私生活も、オーディションもジーンズが殆ど通用し、化粧を要求しないメゾンが殆ど。
モデルはモデルとしての素材の良し悪しだけを問われ、努力不要・無用の世界にあると錯覚している新人のモデルの人々が多数である。
しかしながら、果たして、現代のモデルは、小さな顔と長い手足、滑るような肌さえもっているば、それで良しであろうか?
そうであるとも、また、それだけでない!とも言える。
それが現代においての「本当のモデル」像である。
確かにモデルは、一にも二にも素材・バランス・容貌の良し悪しが決めてである事は、過去も今も無い。
それは男性のモデルにも全く同じことが言える。
しかしながら、本来モデルは、美しくて当たり前の仕事。
一方、
もっともエキサイティングなクリエーションをしているデザイナーの一角でであるジョン・ガリアーノやアレキサンダー・マックイーン、D&G等。
彼らの服は、時に素人目には猥雑であったり、こんな服で歩かれたら気が違って見られるかも知れないと思わせる露出趣味や露悪趣味、時代の道徳を引っくり返すような意表をついたあざとい危なさと反体制で、人々を脅かす。
しかし、それは圧倒的な迫力と新しい美意識、そして多くの人々が試してみたい新たな自己の出現に対する憧憬を引き寄せ、束ね、引導して、納得・崇拝させる。
かれらの服は、みすぼらしく無い。豪華である。ある意味、超!豪華かもしれない。
それは、服を着ているモデルをメイク等で、時に無機質化してしまったり、滑稽にしてしまったりしている様に見えながら、
実は、それぞれのモデルの肉体や容貌、精神的豪華さに対する飽くなき憧憬や畏敬の念に満ち満ちてている。
ましてや、ジョン・ガリアーノはディオールのメゾンにおいて、オートクチュールの創作も相変わら続けており、それで居ながら、
自分の肉体をボディビルで鍛え、下げ放題のジーンズから腹筋を露出して、フィナーレに出てくる。
彼を通して、思うことは、実は、モデルの意識が鈍化しているのは、現代の日本の社会であって、ヨーロッパでは、相変わらず、
夜には夜の服があり、それを纏うミューズであるモデルは、豪華であることが第一である事実に出会うことである。
昔から、ファッションは、その中に息づく肉体のエロチシズムを感じさせる為のものであると言われて来たが、正に現代のファッションは、以前に比べ、それが顕著になっただけであると言えるのであろう。
そうなると、やはり、モデルは安穏と、自己の持つモデルとしての資質・素材だけに頼り、天から運が降ってくるのを傲慢に待っているのは職業に対して怠惰であり、先見性に欠けるというものである。
服を愛し、服をデザインする人々のクリエーションを愛し、自己の美の完璧性に心を配り、数多あるこの世の美しい芸術や文化を愛し、理解し、研究し、精神的に豪華になった心を持って、明日からの仕事に励むべきである。
そして、そのことに併せて大切なことは、「その気」になることである。
「その気」とは、役者が役柄を演じるが如く、時には少女・の様に、時には、プリンセス・プリンスの様に、またある時は、不良性を表現したり、超セクシュアリティで見る人々の目を瞬かせたり、、、。
何とモデルとは、自由で、素晴らしく、楽しく、熱い職業であるか!
ショウ・雑誌・コマーシャル、ETC,,,.。モデルの仕事は多岐に亘るが、やはり、時代と傾向は変わっても、本筋は同じ。
スター性のある人々が夢や憧れを抱ける存在、それがモデルであり、さらに理想を高く、「本物のモデル」、になってもらいたいものである。



「マイノリティ」
マイノリティとは、通常、一般的大多数に対して、「少数者」を意味する言葉として使われています。
大多数の一般的人生の送り方をする人に対して、その人独特の生き方を選択するか、または、大多数の人に比して特に異なる強い個性を持っている、あるいは、特に優れた「何か」を持っている人々のことを指したりします。
それだけに一般の人々からは、理解され難い要素を持つものの、成功すれば、一挙に天才か何かの様に祭り上げられたりします。少数者は、多くの場合、その成功の暁には、一般多数者の羨望の的になったりしますが、それまでは一般の理解を得がたく時に加虐的な意味合いを込めて表現される事もあります。言わば”醜いアヒルの子”みたいなものです。
この仕事を長くやって来て、以前、モデルはマイノリティな職種の一つでした。
実際的に、以前は、大多数の日本人の体躯は、おおよそ、モデルの条件を満たしておらず、高い身長、バランスの取れた長い手足、小さな顔等、夢のまた夢で、ファッションの理想を実現できる人々は、大変に稀でした。
戦後、画期的な雑誌として発刊された「ジュニア・ソレイユ」で、一斉を風靡したファッション・イラストレーターの中原淳一さんの描くモデルは、多くは「女優」を起用していました。
美意識に溢れたこの天才画家は、日本人の西洋コンプレックスのファッション観念にアンチテーゼの狼煙を上げ、尚且つ、日本人女性が目指すべき、西洋と東洋人の美をミックスした独特の新しい女性観を確立する事に一石を投じたのでした。
そんな中、パリからは、現在も尚且つ、ファッション誌として一線を張っている「ボーグ」、「バザー」等の雑誌を通じて、ディオールやサンローラン、スキャパレリ、バルマン・ジバンシー等、オートクチュールのデザイナー達の新作の情報の波が押し寄せて来たのでした。
それを受けるかの様に、そんな時代背景の中に、何かの原因があってなのか、神に与えられた天性の時代のミューズ達であるモデルと言う、それらの用件を満たす少数の人々が出現してきました。
洋服のラインや色彩・柄を見せるモデルと言う職業の出発でした。
多くは、良家の子女やバレーダンサー、そして少し遅れてハーフの人々等が、新しい時代の新しい「波」の到来に、自己の可能性を賭けたのでした。
ある人は、美しく生まれた事を享受し背中を押される様にモデルになり、ある人は既成概念の中に埋没されそうな時代に反逆し、ある人は、大きすぎる身長へのコンプレックスの克服の為、またある人は、排他的一般人を見返すかの様に反駁をバネにして、
モデルとしての道を歩き始めたのでした。
彼らは、それまでの日本人女性の典型的封建主義の下の忍従と被害者として、女性蔑視の中では、生きていけない「マイノリティ」だったのでした。
服が女性に人間としての復権をもたらしたのでした。
モデルと言う職業が、未だ一般に認知されていない時代、女性解放運動の旗手であった平塚雷鳥ではありませんが、”原始、女性は太陽であった”かのような誇りと夢を胸にして、力強くマイノリティとして、時代の牽引者の一角となったのでした。
何時の時代も、時代を動かしてきたのは、圧政による為政者と、その事に殉じ得ない従えないマイノリティの人々でした。
マイノリティの見えない熱い血流は、「自己実現・自己表現欲求」と言う形で、今も優れた女性モデルは勿論、美意識を持った男性モデルの中にも流れている事を強く感じます。
そんな彼らは、マイノリティな人々への強い共感と連帯を抱いている人々が多々見られます。
マイノリティな人々ーー絵画・彫刻・音楽等の芸術家、新しい美の創造者であるファッションやグラフィックのデザイナー達、アンドロジーナスな人々、身体に障害を持つ人々。
その様な人々にモデル達は、何故か熱い愛情と深い理解を示します。
時代や一般の観念に共に戦ってきた血流が共感を呼ぶのかもしれません。
人の中に「美しさ」と繊細な「感性」を見出し、それらを大切に思うモデルと言う人々であるだけに、少々の「傲慢」や「身勝手」は、ついつい大目に見てあげようかと思ってしまいます。
昨今、モデルは、一般の人々から認知されるどころか、時代の花形の職業のひとつとなり、若者達の中には、以前とは、比べ物にならない比率で、長い足、高い腰、小さな顔の見惚れる様な人々が増え、高額なブランドの服を何でも無いように、カジュアルに着ている人々が多々見られます。
一大決心をしてモデルの道を選択した過去のモデル達とは異なり、多くの男女がモデルへのチケットを手に出来る時代であるだけに、モデルと言う職業の何たるかだけは、心の杭に打ち込んで上げたいと思ったりします。
真剣にモデルの仕事を追求していったら、こんなに面白く、遣り甲斐のある自己実現の職業も少ないと思いますので、、。




「合宿とモデル達」
25年近く前から、モデルの合宿を夏と冬の年二回、始めました。現在は、繁忙な事もあって、夏季だけ合宿を行っています。
今年も信州の八ヶ岳の麓で合宿を行ってきました。
合宿を通して、育って行ったモデル達は、日本、パリ、ミラノ、NY,スペインのコレクションや写真の仕事で大きく羽ばたいて行きました。
今も合宿先の体育館で、レッスンに明け暮れる彼らの若く、瑞々しく、美しい姿を鮮明に思い出します。
どのモデルも心に残り、それぞれのモデルを私なりに精一杯愛し、導き、将来の扉を開ける手助けを致しましたが、この20数年の合宿の歴史に殊に忘れられない思い出となったモデル達がいます。
お嬢さん育ちののんびり屋さん、複雑な家庭環境を抱えた人、スポーツ以外知らない青年、故郷をモデルになりたい一心で出奔して来た人、在日外国人として力強く誠実に自己の将来に取り組み我々をひたすら慕ってくれた人、他人の言う事を聞く事に全く苦手の人、泥水の中に咲く睡蓮の如き、白鳥の如き人、家庭を持ち子供を育てながらもモデルへの夢に賭けた人、何も悪い事をしていないのに次から次へ不運が見舞い故郷に帰った素晴らしい素質を持っていた人、学校でも家庭でも何時も「いじめ」にあっていた人、幸福と成功を絵に描いた様な人。
様々なモデル達がいました。
そして、彼らは、合宿の場で、その生い立ちや置かれている現状、身長や素材等の違いを超え、モデルであると言うひとつの一致点を接点に寝食を、夢を共有し、家族・兄弟姉妹の様に過ごしたのでした。
緑の風の中で、早朝からのレッスンは、彼らの中に眠る潜在的才能の発掘と眠気を呼び起こし、舞と表現は、先入観念や性差を超え芸術の中に身を置き表現する喜びを体得出来、ウォーキングは、歩く事とファッションの繋がり、見せる事の醍醐味を知り、研究するものとなります。(後日に続く)


「スティーブ・ライオン」

今まで、主に女性モデルの事を書いてきました。
それだけ、ミラノ・パリ・ニューヨークには、素晴らしい女性モデルが時代と共に現れ、そして、キラ星の様に姿を消し去っていったのです。
彼女達は、互いに競い、ファッションの歴史の中に鮮烈なイメージを置いていってくれました。
それに比べ、男性モデルは、過去においても、女性モデルの頑張りに比べ、スーパーモデルらしい素材と実力を持った豪華な存在は、あまり沢山は見られません。
例えば、高田賢三さんが育てた清潔で可愛らしく、一時代のケンゾーさんのメンズそのもののイメージと言っても良いサンチャゴや、数多のショーで活躍した世界でもっとも美しいと言われた黒人モデルのマリオン。
やはり有色人種のモデルの一人で、インド人だが、ムース。
10数年前からバレンティノのショウの会場では、必ず、影の様にプレス対応をしているカルロス。
彼は、20数年前、男女の一卵性双生児として、生を受け、その類まれな美貌で、まだ日本の男性がファッションにおいて後進国であった時代に、後述した世界的なアートディレクターである石岡瑛子さんのパルコのオール媒体の仕事で、”諸君!女性の為にもっと美しくなろう!”と言うキャッチコピーを引っさげて、時の人となった。町に貼られたポスターが盗まれる、もっとも先駆者的男性モデルであった。
そして近年まで、数々のベルサーチのアドバタイジングの仕事で、完璧なボディと、男性とは思われない優れた表現力を見せた美青年モデル、マーカス・シュッケンバーグ等、女性に負けない、否、もしかしたら超えていたかも知れない男性モデルがいるにはいたのである。
そんな中で、スティーブ・ライオンその人は、殊に飛びぬけたスター性を持っていた。
パリのBANANASと言うエージェンシーで見かける彼は、愛想は良いものの寡黙で、他の男性モデルとは一線を画した存在感。決して他のモデルと、言葉は悪いが、つるんだり、群れたりしない。
彼がオフィスに現れると、太目の女性ヘッドマネージャーが、日本流に言えば、丸で、打ち掛けで、彼の体を包み込む様に、奥の部屋に打ち合わせの為に誘う。
そして、ドアの隙間から喜び一杯の笑顔で、手招きする彼女に引かれ、私達も室内の人となったが、その時に正面にフレンドリーな表情で立っていたスティーブ・ライオンのブルーグレーの目。
これ程、男性モデルで、美しく、魅惑的で、知性と力強さに溢れた人を見たのは、今日に至っても、これが最初で最後であった。
プラチナブロンドに染めた髪でアイボリーの衣装に全身を包んだジャンポール・ゴルチェのコマーシャル写真。
ナチュラルな髪色で、HERMESのスーツを纏った上品なポスター。
今で言えば、マトリックス的なミュグレーやモンタナでの野生的な姿。
そして、今、パフュームで、一部好事家の若者に人気のNIKOSの全裸のキャンペイン写真。
彼のブックは、彼の魅力に群がる様に仕事を依頼したデザイナーやカメラマン等の写真とフィルムに溢れていた。
その後、一度、ショウの仕事で来日したが、その折も、やはりショウの合間など、孤高の人で、他の外国人男性モデルとは群れず、一人舞台美術の裾で眠っていた。
勿論、女性モデルの後を追いかけたり等、安っぽいことはしない。
神秘的で私生活を誰にも見せない。
ただ、数少ない、親しい友人の一人である当時スターモデルであったカチューシャと言うモデルによれば、いくつかの国に豪華な別荘を持っており、シーズンが終わると、そこで休暇を過ごすとのことであった。
パリコレのステージでは、いつも彼は特別扱い。
我々が彼の側に行くと、少年の様な目で愛くるしく微笑み、抱擁をする。
ちょうど、その時、やはり、パリに、将来を嘱望される21歳の日本人モデルで、KAYJEAN(ケイジーン)と言うモデルを連れて行ったが、スティーブのスター性に圧倒されていた様だった。
何年かして、スティーブは、毎年コレクションの花であったが、突然、パリに来なくなる。
その後、彼の姿を見ない。何処でどうしているのか?
ドリアングレイの様に老いていく吾が姿を怯え、身を隠しているのか?
もう一度、あの姿を見たい!
しかしもう見ない方が良いのかも知れない。
それ程に、老いた姿を衆人にさらして欲しくない、素晴らしい男性モデルであった。
そして、スティーブの影響を受け、当時パリでスターモデルばかりを擁したエージェンシーで、特別マネージメント契約を希望されたモデルK.Jも、その後、忽然と姿を消し、心に深く残る思い出の人となった。
スケールの違いこそあったけれど、あの二人は、今頃、何処で、どうしているのだろうか?
                                                                
(2004/MARCHI/24)

「イマンと言うモデル」

「FLY WITH ISSEI MIYAKE」と言うショウが1980年代後半にあった。
文字通り、三宅一生さんと飛翔しようと言うショウであるが、神宮外苑の屋内球技場を舞台に、ステージに高い天井にも届けとばかりの16枚の白色パネル(一枚一枚が斜めに衝立上に倒立している)と、当代世界のトップクラスのモデル達16名がN.Y、パリから三宅一生さんの為に、東京に集結した。
日本人のモデルも3名出演し、その中に山口小夜子さんもいて、あとの2名の日本人モデルは、私の事務所のモデルであった。
当日の屋内球技場は、スポーツ施設である為、気温の上昇に相まって、人いきれで、むせ返る様な暑さである。
球技場の屋根を覆う白いテントには、いたる所に、換気口のファンが回っているものの、とても追いつかない。
客席は、主催者サイドから配られた団扇がせわしなくハタメキ、今始まろうとするエキサイティングなショウの幕開けを待つ。
ステージは、50メートルもあろうかと言うセンターランウェイに十字型に横のステージが伸びている。数十年に亘り、活躍を続け、アカデミー賞も受賞した石岡瑛子さんのステージデザインである。
真四角に近い形状の大きなプログラムをを開くと、出演モデルと一生さんの踊っている写真、コラージュになった全出演モデルの写真。そして、ページをめくると、その人はそこにいた。黒い豹の様なボディに黒曜石の様な瞳を持った一人の黒人モデルが、体に沿ったピューロンのロングドレスを纏い、高く頭上で鋭く繊細な鷲の様な手先を交差している。
美しい黒人モデルは、過去にも現在にも数多おり、見慣れているものの、その人、イマンの美しさは、尋常では無い。
ある物知りなファッションピープルが、イマンは、アフリカの奥地の大酋長の娘で、有名なファッション雑誌のエディターが発掘し、N.Yに連れて行き、一躍スターモデルになったのだと言う。その後、それは全くのデマで、イマンは、大学出のなかなかのインテリキャリアガール出身であるとの事であった。
ステージは、暗転になり、落雷の効果音の中、白人のモデル達が、獲物を探す様なムーブメントで次々にステージに現れる。
それらのモデルたちは、綺麗に気取って出てくる従来のモデルではなく、全くの表現力豊かなパーフォーマーである。
石岡瑛子さんのディレクションのコンセプトに則ったものである。
景が変わり、やがて舞台にイマンは登場した。
黒い水着の上に横尾忠則さんのテキスタイルデザインによる7〜8枚の袈裟状の布を纏っている。そして、50メートルのステージをただの一度も止まることなく、フルターン、ダブルターンを繰り返しながら、一枚一枚袈裟を脱いで行き、やがて両手にタワワとなった美しい布地の束を持ち、花びらの飛散するが如く、ターンし、客席近く舞台エンドで止まる。
そこには、正にBLACK IS BEAUTIFULと言う言葉が説明不要な美しい黒色の肌に黒色の水着。極彩と渋い味わいの布が幾重にも交差し、ステージに影を落としている。
私は、その日から、モデルと言う人々の、今を旬を生きるとするだけの一過性の価値観から、普遍的な奥行きあるモデルの美の基準を心に取り込み、モデルと言う仕事の価値観は、私の中で変容し、より高い基準に焦点を合わせる様になったのである。
文字通り、私はモデルに恋をしたのである。
その後、私は、一生さんのパリのオフィスで、フィッティング中のイマンを間近にし、言葉を交わすことになる。
その日、イマンは、殆どノーメイクで、その年のコレクションの代表的なものである24金で金通しをした「一枚の布」を頭から体を覆うように纏っていた。
布の間から見えるイマンの顔は、この世の桃源郷の体で、私は、一生さんへの陣中見舞いを渡すのも忘れ、しばし見惚れ、思わず”YOU ARE SO BEAUTIFUL"と彼女に言うと、顔とは印象の違う低くハスキーな声で、ただ”THANK YOU"と答えた。
それから数年して、パリコレにイマンがそろそろ終止符を打つと噂される頃、ティエリー・ミュグレルの春夏のショウで彼女を見た。
砂漠色の色彩の服の中、金色のブレスレットにベージュのコーヒー袋の様な野性的裁断をしたミニのワンピースの服で登場した。そして、その細い彼女の肩には、纏わりつき、落ちそうな一匹のチンパンジーが抱きついている。私は仰天し、釘付けになった。
割れんばかりの喝采と口笛の中、舞台中央に来た彼女は、おもむろに、抱きしめていたチンパンジーから手を離し、真横に片方の足をカギ状に開き、金色ブレスのみの長い素足でチンパンジーを支え、誇り高く仰け反る。
私は、モデルと言う人々の無限の表現の可能性と、映画スターとは、全く性格を異にするモードによるスター性に圧倒され、感動し、この仕事に就いた喜びに改めて耽ったものである。
ショウが終わり、帰る道すがら、そのイマンを再び、コンコルド広場に続く通りで目にする。ほどいた髪に手をやり、重そうなバッグを肩に、疲弊した体を引きずるその姿は、ステージでのそれとは違う。私は、彼女に話しかけ、慰労の言葉を投げかけた。
疲労した顔は一瞬で煌きを取り戻し、お礼返しをする。そこには、本物だけが持つ、スターの光が満ち溢れていながら、気取りも虚栄心も無い、素直な少女の様な、少々デカダンスな微笑があった。
そして、それからまもなく、彼女は、イギリスの代表的なロック歌手デビット・ボウイと結婚し、モデル業界から去って行ったのである。
今年、ある雑誌で、イマンを見た。洗練され相変わらず美しい彼女ではあるが、黒豹の様な野生と黒曜石の様な瞳は失せ、都会の贅沢が濃いアイラッシュに飾られ、宝石の似合う女性となっていた。しかし、見開きの大アップの顔の口元には、あの時、黒曜石に魅了され、見落としていた、都会の粉飾と虚栄への「あざけり」とも、「おびえ」とも取れる笑みが,残されていた。
                                                                                                                           (2003/0CT/16)

「パリに恋して」
1973年初頭、私は、リュクサンブール公園のベンチにいた。
マロニエの葉がおちて、黄金の絨毯と化した処と、青々とした芝生に覆われた処とが一線を画している。。
明日、このパリで、ファッションマネージャーとしての、私のキャリアがスタートするのだ。
ちょっと無理をして買ったバチストーニの濃紺の一枚仕立てのコートは、パリのファッション界に闘いに来た、十字軍さながらの私の鎧である。
頭には、同色のルーズなフラノの帽子を被ってみた。
リュクサンブール公園の水面を吹く風は、日本とは、違う匂いを放っていた。
清冽で冷たく、閑散としながら、お洒落だった。
広く、池を抱くベンチには、十数人の若者や老人の姿が、三々五々、見られる。
あちらのベンチには、クロード・ルル−シュの映画に出てきそうな恋人達。そして、向かいには、フランソワーズ・アルディ。
左を見ると、ジャンリュック・ゴダールの「女と男のいる舗道」に出てくるアンナカリーナ風が、時間待ちの煙草を吸っている。
後ろには、酒焼けしたホームレスのジャン・ギャバンが、ごろ寝しており、それを不機嫌そうに眺めている中年女性は、若い女に亭主のイブ・モンタンを取られたシモーヌ・シニョレ。
クロックムッシュ(フランスのサンドイッチの一種)を売る売店のおじさんの頬は、イタリアントマトの赤色。
これからコレクション当日を迎えて、パリは、日増しに寒くなっていく。
 
私にとって、初めてのパリコレクションに、一人のモデルを伴った。
地肌が透けそうなベリーショートのヘアスタイル、アフガニスタンの民族衣装をベースにした服、胸高に日本の風呂敷を抱きかかえ、サンジェルマンデュプレの大通りをゆらゆらと歩く。
昔も今も、多くのデザイナーやクチュリエ、画学生達で賑わうカフェ・ ド・ロペ。
シャネルやジャン・コクトーやサルトル、ヴォーヴォワール、ケンゾー、ソニア・リキエル。
無数の煌く才能、若く輝いていた彼らが、青春の議論を闘わせ、シャンパーニュやお茶を飲みながら、夢を語り合ったカフェ。
そして、、ゆらゆらとゆれながら歩く日本人のマヌカン(フランス語でモデル)が、そのロペに差し掛かると、人々は好奇と憧れを込めて、一斉に釘付けとなる。
彼女はそれを知ってか知らずか、イッセイミヤケのオフィスへと急ぐ。
クロード・モンタナ、ティエリー・ミュグレル、三宅一生氏等に、オファーをされ、やって来たこのパリのステージで、数日後、彼女は、数多の一流のファッション雑誌エディター、デザイナー達から、「東洋の神秘」と言う名を冠される事となる。
                                                                                                                                       
21/JUNE/2003

「あの時の貴方の輝き」
突然、私のアシスタントを20数年に亘ってしてくれている宮本が、新聞を持ち、私の仕事部屋の扉を開く。
本日、日本VOGUEの最初の編集長であり、30数年前、ピエール・カルダンに請われて、パリに渡った、代表的な日本のマヌカン松本弘子さんの訃報であった。
今、こうして私がパリでのキャリアをスタートした日を文章に綴っていたが、その、ちょうど、その日に、会った人。
それが松本弘子さんであった。
前述した「東洋の神秘」の次の行に、書こうとしていた松本弘子さんとの出会い。
それは、日曜の朝も早いパリに到着した日であった。
当時、パリ行きの飛行機は、アンカレッジを経由し、20時間近くの長旅であった。
税関を通り、タクシーに片言のフランス語で伝えたホテルに入るなり、私は、以前、仕事をしていた会社の社長から、「パリに着いたら、松本弘子さんに花束を差し上げて欲しい」という依頼の言葉が気にかかり、部屋に入るなり、洒落たアンティックチェストの受話器を取った。
パリの電話の呼び出し音は、リーん!とは鳴らない。
ブーッという少々、不機嫌な音である。
やがて、流暢な、そして寝むたそうなフランス語の女性の声。それは、松本弘子、その人であった。
「あら!そう。でも貴方、パリで、日曜の朝に電話をするなんて無粋な人はいないのよ」
半ばあきれるように、話すシャガレ声。話す言葉は日本語であっても、その雰囲気は、フランス語である。
私は、彼女とバレンティノ・ガラヴァーニのショウの会場であるカルダン劇場の隣にあるガブリエルで翌日、会う約束をし、そそくさと受話器を置いた。
カルダン劇場は、大通りから一歩入った閑静な場所にあり、緑の木立の中に横に長いのガラス張りの建物である。
当時、カルダンのモデルとしてVOGUEやBAZZAR等のファッション誌を飾っていた彼女であったが、何故か、面識は無かった。
一杯の薔薇を花束にしたセロファンに手こずりながら、待っている私の前に、おかっぱ頭で、オートクチュールの美しいコートを小粋に羽織った彼女が立っていた。
上背はそれ程高くないが、すっきりと美しい足、おかっぱ頭からほっそり突き出た形の良い鼻、目はそれ程大きくは無いが、やはり、印象的で、くっきりしたアイラインを長く引いている。
「お待ちになった?」
素敵なしゃがれ声である。
肩を並べて、ショウの会場へ。幾つかの挨拶と微笑みと、フランス語とパフュームの香り。
その後、幾たびか、パリと日本で、お目にかかり、言葉を交わすようになる。
未だ、オートクチュールがしっかりと根ざし、華やかで、上品で、夢の様であった時代。
そして、モデルがマヌカンと呼ばれ、特別な存在であった時代。
松本弘子さん、貴方は、日本人のモデルとして、新たな1ページを飾った人でした。
パリに恋して、そして67才の生涯を、そこで閉じられた貴方は、やはり、ファッションの歴史の中で忘れがたい人です。
あの時の、貴方の輝き!
テネシー・ウィリアムズの「雨の朝、パリに死す」という言葉が何故か似合う。でも、その主人公よりも、ずっと幸せな人生であったと、貴方を見て思います。
                                                                   
 23/JUNE/2003

「美しい日本語」
私のパリ滞在の初期の定宿は、サンジェルマン教会から一歩入った、しっとりした裏通りの道、rue de Universiteにある
オテル・アングレテールと言う。多くの著名な文学者や哲学者が定宿としたHOTEL ANGKETERREは、英語読みするとホテル・アングレテールであるが、フランス語は、H(アッシュ)を発音しない。
有名ブランドのHERMESは、エルメス。
従って、私、橋場をフランス人は「アシバ」と呼ぶ。私は、「足場」の様な感じがするので、何度も、彼らに教え込ませようとしたが、
頑強に「アシバ」である。
私の事をやはり、「アシバ」と呼ぶ、兄弟の様にしているフランス人の男性がいる。
彼は、ジョンと言う。フランス人であるから、本当はジャン「JEAN」なのだが、英国の服を売っている老舗のアルニスARNYSの息子なので、皆、彼をジョンと呼ぶ。
ポールポワレ(有名な探偵小説の主人公)の様な、コナンドイル(やはり高名な探偵小説家)の様な、立派な口ひげを生やしている。口ひげの端が長く、頬に向かって跳ね上がっている。
フランスや英国等のヨーロッパ圏のハイブロウな紳士達は、髭専門の櫛とチック(整髪用油)を持っていて、朝晩、折を見ては、手入れをするのだ。余談だが、前述の、ポールポワレ等は、髭用の寝押しバンドの様なものを持っていて、寝るときは、そのバンドをぐるり後頭部に回し、天井に対するのである。
そのジョンは、私がパリに行き、彼の店を訪ねると、きまって大きく手を広げ、首を少し横に傾げ、右手には、葉巻を挟み、満面の笑顔で私を抱く。
彼には、日本人の素敵な妻がいる。
名前を、AYAKO,アヤコさんという。本人に言うと、怒られそうであるが、どこまでも、面長な、もしかしたら大きいかも知れない顔をクレオパトラの様な、おかっぱ頭で、覆い隠し、年齢不詳のユーモアたっぷりの人である。
フランスで年齢の話はタブーであるが(殊にパリの女性には)、占いの話等の折に、アヤコさんに「なに年?」と、干支(えと)を聞くと、必ず、彼女は、
「えッ?わたし?、、、猫年よ」と長めの顔をさらに長くして、言う。
ジョンとアヤコさんは、結婚してはいるが、入籍はしていない。
長い夫婦生活で、ジョンは、アヤコさんに、幾たびも入籍を迫ったが、彼女の答えは、何時も「NON!」。
従って、日本風に言えば、彼らは、長き同棲生活という事になるが、フランスでは、こういったケースの場合、あらゆる保障が夫婦と同じ権利を与えられる。
しかし、それが理由では無く、
彼女曰く、「入籍しない方が、互いに緊張感があって、互いを思いやれるから、この方が良いの」と言う事である。
私が想像するに、多分、アヤコさんは、ジョンよりも、かなり年上であると思う。
でも、年を言わない分だけ、彼女は、ジョンに年下の女性の様な愛され方とケアをされている。
アヤコさん、なかなか賢明なのである。
何度目かのパリで、オテル・アングレテールに泊まる前、数日間を、このアヤコさん達のブローニュの森近くのアパルトマン(フランス語でアパート)で送った事があった。
彼らが、旅行に出た為、留守番を頼まれたのである。
とにかく、パリと言う所は、安全ながらも物騒で、金目のものを持っていそうな家は、ヴァカンスの時など、うっかりしていると、留守中のほんの数時間で、大型トラックが横付けし、金目のものは勿論の事、部屋の中の什器・備品一切、泥棒に持っていかれたりするのだ。
そんな被害に、やはり、遭ってしまった素敵な女性と私は偶然に出会う事になる。
アヤコさん達のアパルトマンは、白亜の壁、西洋と東洋のアンティックがお洒落に、センス良くおかれたNUIと言う所にある。
私は、彼らの部屋で、レコードが数枚置かれたオーディオに向かい、しばし旅と仕事の疲弊を癒す事にした。
ブリジット・フォンテ―ンやフランソワーズ・アルディ、エディット・ピアフ等のレコードに紛れて、何故か研ナオコのレコードがある。
「かもめはかもめ」、「愚図」等、一連の中島みゆきが作曲した曲だけを歌ったアルバムである。
何故か「かもめは、かもめ。孔雀や鳩や、まして女にはなれない、貴方の望む素直な女には、初めからなれない」と言う歌詞や
「私って、本当に愚図なお人よし」等と言う歌詞が、男でありながら、妙に心に入ってきて、しばし望郷の念にかられる。
しばし、聞き入っていると、電話のベルが鳴る。
「ブーッ!ブーッ!」、例の如く、不機嫌に、「早く出ろ!」と言わんがばかりの音。
挨拶は出来ても、用件は述べられない私のフランス語。
致し方なく、受話器を取ってみる。
「もしもし、アヤコさんいらっしゃる?」
少し鼻にかかった、すこししゃがれた、それでも、聞き入りそうな、それは、それは美しい日本語である。
「只今、外出中ですが、失礼ですが、どちら様でしょうか?」私が尋ねる。
「わたくし、岸 恵子と申しますが、アヤコさん、何時頃お戻りでしょうか?」
それから、しばらく旅に出ている事、私は、兄弟の様な間柄で留守番している事等、順不同で話す。
受話器を握る手は硬直し、まるで、初恋の先生の前で、しどろもどろになってしまう田舎の純朴な学生の様である。
もっと話したい、早く切りたい!が交錯して、やはり切る方を、不本意ながら選んでしまう。
かつて、これ程、美しい日本語を話す日本人に出会った事が無い。
別に芸能人に弱いわけでも無く、ファッションの道一筋で来た私には、芸能界に対して興味薄弱であった位だが、ただただ、その滑るような、時に立ち止まるような、語調。受話器の先はマイクでは無いかと思わせる声の通りと響き。品性に溢れていながら、何ら気取った所など微塵も無い華やぎ。
その声に、話し方に、ひたすら魅了されたのだ。
第二次大戦敗戦後まもなく、戦禍にあった銀座を舞台にした映画「君の名は?」は、戦争に負け、憔悴し切っていた日本人女性を感涙の坩堝(るつぼ)に巻き込み、彗星の様に、まるで一夜のみ芳醇な香りを放つ
くちなしの花”にも似た岸恵子さんは、日本女性の美の典型として、世に迎えられたものでした。「君の名は」は、世紀の美女ビビアンリーによる「哀愁」の言わばリメイクであったが、本家と、甲乙付けがたい戦後の代表的な作品となったのである。
その後、川端康成の名作「雪国」の芸者駒子等多数の日本映画に主演し、またその後、国際女優として活躍し、日本とフランスを往き来する中で、
近年、山本周五郎原作、市川昆監督、岸恵子主演で撮られた映画「かあちゃN」が日本アカデミー賞を受賞し、岸恵子さんは、主演女優賞を受賞した。
そして、その映画の中で、語る彼女の台詞(セリフ)の響きは、30年前、パリのNUIのアヤコさんのアパルトマンの電話器から聞こえた、あの「美しい日本語」、瑞々しい張りは、少しも失われていなかった。
一人の高名な女優さんとの、たった一瞬の思い出。
30年間の月日を経て、その感銘は、私の心の宇宙を普遍的に彷徨い続ける。
                                                                                                                                                      
26/JUNE/2003

「WHITE COLLECTION」
初めてのパリで、初めて見たコレクションは、バレンチノのパリ・コレクション、デビュウの「WHITE COLLECTION」であった。
最初から最後まで、白い服だけ。
それは、やはり、十数年後、同じくパリコレクションにデビュウした時のCOMME DES GALCON(コムデギャルソン)とYOHJI
YAMAMOTOのコレクションの黒一色のコレクションと対照的であった。
ただ、黒と言うのは、形や表情がなかなか雄弁で、あったりするが、白と言うのは、純白からアイボリーまであるとしても、
どうしても結婚衣裳や夏服の様になりがちなものである。
しかし、その時のバレンチノの「白」は、全くそうでは無く、ありとあらゆる提案がなされた非常に雄弁なコレクションであった。
大体、何故、バレンチノは、白一色で、パリコレクションのデビュウ戦を飾ろうと思ったのであろうか。
「白」と言う色は、フランス語で、BRANCと言うが、英語では、BRANKは、白ではなく、空白を意味し、白は白でWHITE となる。
日本語においても、空白は、透明に近く、白色では無い。
「白」という語を、辞書で引くと、
1 白色であること。
2 染めたり塗ったり味をつけたりなどしない、生地(きじ)のままであることを表す。「しら木」「しら焼き」など。
3 純粋であることを表す。
4 うまく、または、とぼけていつわることを表す。
5 真犯人では無い事。 (1988/国語大辞典(新装版)小学館 1988)
果たして、バレンチノの本国であるイタリアや、そしてフランスでは、どの様な意味を持つのかは、分からないが、「白」の意味合いは、近似している様に思う。
バレンチノのその時のコレクションは、上記4つの中で、多分、2番目と3番目の主旨であったのでは無いかと思う。
色や柄で自分の作品を味付けするのでは無く、純粋に着色前のデザイン画の様に、自分自信の創作性・構築性、デザイン力を
はっきり打ち出したかったのではないか?と思う。
人は、生きていると様々な色を身につけ、本体である、その人がその人自身である骨格さえ、失ってしまう事があるが、人が考え、思索し、感動し、ポリシーと言える本体である自己自身の「姿」と言うものが、価値判断の基本に、無くてはならない。
勿論、これは、少々、私の飛躍であるが、、、
バレンチノは、このコレクションによって、パリの厳しいファッション人間の目に、ダヴィンチやミケランジェロを生んだ、イタリアと言うデザインの土壌から生まれた、まやかしでは無い、真実の創作の力、デザイン力を見せつけ、そして大成功に終わったのである。
その上、ショウのフィナーレは、バレンチノが如何に洒落ていて、豪華であるかを、観客に、十二分に再認識させるものであった。
出演した世界のあまたスターモデル達が、観客の拍手の中、オールバックのヘアスタイルで、小粋に登場したバレンチノをバックステージに見送り、掃けた後であった。
アンコールの声の中で、バックステージのパネルが、突然開き始めたのである。
そこには、衣装を脱ぎ、半裸となったVOGUEのカバーを飾るスターモデル達が、化粧台を前にして、驚き、胸を手で覆い、上気した頬であわてるファッション雑誌の1ページの様な姿があった。
そして、一瞬の、素敵にお洒落で、豪華なバレンチノのショウは、終わり、再び、バックパネルは、閉じた。
バレンチノは、このフィナーレを、一言もモデル達に告げず、「白(シラ)」を切っていたのである。
                                                                                                                                                                               1/JULY/2003




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