新 銀幕に俺たちがいた126

『荷車の歌』

「この映画は3百2十万農村婦人の手で出来上がりました。人間が人間として認め合う。この大切な喜びをみんなのものにしたい。
この喜びが多くの女の心に生きつがれ多くの若い人たちが母を受け継ぐ時、明日を今日のくりかえしでなく新しい出発として欲しい。
こうした願いをこめてつくられたものです。」という但し書きのあとに「荷車の歌」というタイトルが現れます。企画は全国農村婦人組織協議会。
製作は全国農村映画協会。つまりは農民による農民のための自主制作映画、といってもいいでしょう。
 物語はセキ(望月優子)という奉公娘がそこに出入りする茂市(三国連太郎)という郵便配達夫に見初められ、茂市の荷車引きへの夢を聞かされ結婚したいと親に言うも、勘当の身となって、いわば押しかけ女房のように茂市の家に転がり込む。そこには茂市の母(岸輝子)がいて、嫁と姑の闘いが繰り広げられる。セキにもう1台の荷車をあてがい、夫婦で2台の荷車を問屋と村を往復10里(40キロ)手押しで、毎日毎日山道を汗だくでこいで行く様は正に「労働せざる者食うべからず」そのものです。ここに取り上げるのが遅すぎた映画でもあった、と思いました。というのも農民映画ということぐらいは知っていたので単なる農民の生活苦を描いた苦労話であろうと思っていた。生きるために働くもそれを支えるものはセキにとっては夫の茂市であり娘のオト代(左時枝)を初め子供たちであった。
 物語は明治、大正、昭和の時代を生きた一組の農民の一生を描いた作品で、平成の今でもずいぶん見ごたえのある生活観一杯で、現在現役で労働している私には時代を超えた感銘を覚える映画です。夫の母親からやることなすことケチをつけられて狭い家がさらに狭く感じるほどの仕打ちをされても、ほとんど無理矢理に嫁にしてもらったセキは帰るところもなく、ただ黙々と労働に勤しむ。夫の茂市は妻と母の間に入って、口先だけではあるが間を取り持つ。荷車を引いてくたびれて帰って、2人の楽しみは何かと言えば「あれ」しかないです。、テレビもさらにはラジオもない殺風景なところでも、子供は出来るものです。これは大昔も現代も変わらない永遠不滅の人間のすることです。生まれた最初のオト代はオトコの子のように勝気で母を責める姑を嫌う。樹に縛られることもあった。母には親孝行をする娘であった。茂市の弁当には米を入れ、セキの弁当にはくまご飯を詰めていびる鬼のように映った娘のオト代は隠れて米の握り飯を母が荷車を押して帰宅する頃を待ち伏せて食べさせてあげるやさしい子供でもあった。荷車を一緒に引いてあげるこころやさしい子供であった。ただ母をいじめる姑だけは嫌って近所の家に貰われていく。セキはつらいときでも子供だけは次々と産んでいく。「子沢山」とか「子は鎹」とか「子は宝」とかいうも男の子を待つ姑に反して女の子ばかりでセキの居場所は狭くなるばかり。男の子を願うのは日本の古い慣習とか封建性とか、戦時中が舞台のこの映画では「お国のため」という大儀で何でも決済する時代だからいたし方ないのでしょう。
 この映画は1959年製作だから「はたらけはたらけ」の時代ではあったんだと思う。とりあえず、農民の皆さん320万人が10円募金で集めた3200万円を元手に山本薩夫監督が創った。山本薩夫監督らしい、と感じたのはオト代(左幸子)が成長して縫製工場で働いているシーンはこれぞ労働者の映画という匂いがプンプンして良かった。
 舞台は広島県三次市。私の本籍地、ということではこの映画は親しみを感じます。原作者の山代巴は広島県の生まれである。つまりはわが広島の映画なんです。ただしロケは長野県でほとんど撮られたらしい。わたしの前に一冊の本がある。「秋の蝶を生きる」(佐々木暁美著)です。山代巴の生涯の評伝です。この中に「荷車の歌」に関する記述があったので興味深く読ませて貰いましたが、私の本籍地にこれほどかかわりの深い人物だとは知りませんでした。改めて見直してみたいと思いました。
 映画はセキをこれでもか、これでもかと叩く。しかし、叩かれても叩かれても雑草のように起き上がりこぼしのように立ち上がる。姑には寝ずの看病で最後は「苦労をかけた。ありがとう」と今生の別れをした。末っ子の三郎は電車(おそらく広電でしょう)の運転手をしていたが招集がきて兵役検査を受けるも脱腸で除隊されて帰宅する。父親(三国)は恥ずかしい、と家に入れてくれないがセキは三郎を守って家に入れる。そこには父親の妾オヒナ(浦辺粂子)がいた。その妾に「はずかしい」と言われ「出て行け」とあれほど耐えていた三郎が殴りかかっていく。三郎は手術して戦場で名誉の戦死をする。時は流れ、村にもトラックが走るようになり、手押しの荷車家業は衰退の一途を辿っていく。茂市とセキはそれでも土地だけは守ろうと鋤をこぐ。土地を耕していく。雨が降るなかでついに茂市は泥土のなかに倒れながらセキに必死で寄り添っていく。あれほどセキに偲びがたいほどの仕打ちをしながら死に際はセキに身体を預けて「長い間、よう堪えてくれた」と振り絞って死んでいった。セキの本心はこのときどうだったんだろうか?やっと安心だった?それともそれでも夫の茂市さんを慕っていたんだろうか?セキは追い出した茂市の妾が仏壇に焼香させてくれ、とやってきた時「老いれば皆同じ」と言って子供らの反対をよそに家にあがらせる。いろいろな教えと反省を伺い知れるセキの生き様に圧倒された。
 ラスト、10人ほどの孫たちを荷車に乗せて坂道を登って行く老いたセキの姿を現代の眼でどうみるか?映画ではその先に杖をついた長男の虎男が戦地から帰還した姿があった。
 原作では長女がツル代で次女がオト代となっている。映画ではそこらへんの人物構成を変えているらしい。とにかく原作では広島に貰われていった長女が被爆して茂市は三日三晩市内を歩き回り、それがもとで白血病になって亡くなった、ということを知った。山代巴の「荷車の歌」と山本薩夫の「荷車の歌」がある、というこです。わたしがもっとも心に残っているのは、セキの親友ナツノ(水戸光子)が百姓仕事の時「人にはそれぞれ心の虫がいる」ということを聞いて人それぞれの事情を持っていることに気付き姑の世話をするようになり病気で倒れたときは親身に世話をする。セキは山代巴の自画像なんでしょう。
 先に記した「秋の蝶を生きる」の最後にこう書かれてあった。『作家山代巴は、戦中戦後の激動期を人間解放と自治自立を求めて一途に闘ってきた。(中略)この混迷を深める時代にあって、彼女の歩みは、歴史を知り、人間を知り、連帯することの意味を探求し、憎しみの連鎖を断ち切り、われわれが今をどう生きるかを、時を越えて問いかけてくる。』
           <佐々木暁美著「秋の蝶を生きる」(山代巴 研究室)より引用させていただきました>
            1959年キネ旬ベストテン4位、同年・毎日映画コンクール監督賞受賞山本薩夫
                                                      2006年3月3日      マジンガーXYZ