銀幕に俺たちがい135

「V FOR VENDETTA」

 このサイトでは合わない映画のようですが、これがなかなか「俺たちの気分」を「表現」してくれた「あぶない傑作映画」として象徴的に描写してくれた大エンターテインメントとしてここに載せていただきました。
 フランク・キャプラが死んで、ジョン・フォードが死んで、黒沢明が死んで、キャロル・リードが死んで、ヴィットリア・デ・シーカが死んで、それから、それから世界映画は「正義」とか「平和」とか「愛」とか「犠牲」とか「<当たり前>と思っている<人の道>が現代では「あやふや」になって、わけの分からない、人のことより「自分中心」というか人間が動物以下に、というか「人間」が「動物」に成り下がってしまった、ような感じがしてなりません。動物たちもそれを感じて人間たちをバカにして、というか同等な目線で人間社会へ下りてきているんだろうか?「猿の惑星」もSFではなくなって、現実として近未来に起こりうる感じがしています。俺、頭がおかしいのでしょうか?
 アメリカ映画ですが舞台は近未来のイギリスです。映画はサスペンス映画の形をとっていたので誰が見てもわかりやすい。登場人物は20代の若くて美人な女性とエガオの仮面を被った黒いマントの男が主要です。怪傑ゾロをパロった怪傑Vとでも予備たい映画です。「V」と自分を呼ぶ仮面の笑顔さん「V」は近未来の独裁国家イギリスで「破壊者」として国会議事堂を音楽に乗せて爆破する。街で秘密警察に暴行されかかった女性イヴィー(ナタリー・ポートマン)を救い、彼女にプレゼントと称してまるで夜中の花火の祭典のような趣向で議事堂爆破を笑いながら何かの「序曲」の始まり始まり、とでもいいたげに、まるで芝居、というか「オペラ座の怪人」にももりあがりそうな意味ありげな映画の出だしはゾクゾクする程の緊張感とエンターテインメントをも感じさせる雰囲気をもった娯楽映画です。見ていくうちに「V」が「イタリア語Vendettaの血の復習」を意味する言葉だと分かってくる。この仮面の男が国家によってひどい仕打ちを過去に受け、その復讐のための「復讐劇」ということになる。かれの最大の殺しの目標は「サトラー議長」である。ここまでくるとヒトラーをパロッて「サトラー」にしているのは間違いないでしょう。
 皮肉にもというか、この感覚はわたしにも以外な自問自答するほどにおかしな感覚ですが、主人行の悪行が映画なればこその許せる行為として拍手をしているわたしがいるのです。しかも興奮ぎみのわたしがいるのです。押し殺してじっとがまんして体制にひきづられるままに「イエスマン」を吐きつづけ、いまにも爆発しそうなわたしのなかのわたしがこの映画に感動するほどの悦に入っている自分を覚えてしまう。これはただごとではないのかも知れないし、この出口なき住みにくいいやな現代に生きながらえているわたし、あるいはほとんどの人々が何か「メッセージ」を「心の闇」が同調する筈です。見れば分かる筈。現代の心の闇を言い当てられた気分にさせられる傑作です。しかもストーリーにもかかわらずおどろおどろしいことがなくてスカッとする映画には自分でも驚かされる映画です。
 いずれにしろ抑圧への憤懣をこの映画が一瞬にしろ払拭してくれる。ある種癒しの効用もあるかもしれません。複雑な現代社会、何が功を奏するかも知れません。自殺なんかするなよ。死ぬな。やられたらやり返せ。顔がなくなるほどの人体実験させられた「V」は笑顔の「仮面」でひょうきんに復讐した。抑圧された国民全員が同じ「V」を被って行進(更新)するラスト。仮面を脱げば加害者も被害者も抑圧された人間たちとして、この映画は幕を引く。自問自答のわたしのあなたの映画です。監督ジェームズ・マクティーグ
  「Vとは?」「エドモ・ダンテス」「私の父」「そして母」「私の弟」「友人」「そしてあなた」「私」「彼はみんなよ」「この国の人々はこの夜を忘れないだろう」「そして私は決して彼を忘れない」

             2006年10月25日(もうすぐVの11月5日)    マジンガーXYZ