新・銀幕に俺たちがいた142

『お葬式』

 伊丹十三監督が亡くなって何年になるだろう?今年2007年の正月は親戚のお葬式で悲しい年始になりました。映画「お葬式」は仏様だから悲しい映画になっている筈。ところが、これはコメディー映画の傑作として日本を代表する映画評論家の方々から記念碑的な位置付けがされている。わたしの親戚は神道、つまりは神様になった故に慶びとしての儀式が成される。死んで慶ぶ、なんて非常識も甚だしい、と私などは思ってしまいます。わたしの母が死んで2年以上経ちますが、当時は素直に慶びということを受け入れ難い心境でした。あれから2年経って、同じように親戚の神様になる儀式(葬式)に望んでみて、少しは、というかなんとなく、というか「そういうものなんだ」と思えるようにはなりました。葬式だから笑ってはいけない。葬式だからがつがつ物を食べてはいけない。葬式だからあぐらをかいてはいけない。等と「儀式」への敬いが身を硬くする。遺族への当たり前の気配りです。しかし、遺族の方々は気丈に動いておられる。弔問客にお茶を出したり、ざぶとんを並べたり、茶菓子を配られたり、ローソクの灯を消さないようにローソクが小さくなってくるとじっと座って次のローソクの準備をしたり、町内会のお世話係の人へ葬式への段取りを相談されたり、町内会長さんと香典返しの箱へハガキを差し込む作業をしたり、わたしたち親戚一同と談笑されたり、悲しむ暇なんて全くないかのように進んでいく「お葬式」に向けての「儀式」は「故人」への「荘厳な祭典」です。普段は味わえないものがある。そして普段は集まらない知らない親戚に出会うのが不幸なとき、なんですよね。幸福な「結婚式」ならわいわいがやがやでお祭り気分で招待する側もされる側も一斉に舞い上がればいいんです。お葬式は違います。当たり前です。すいません。この悲しみで満ち満ちたお葬式を延々2時間弱の間見せられる、と思うと暗いイメージが浮かんで来る。そんな題材を延々と長く引っぱっていく執拗な執念には驚きます。ぺらぺらしゃべりまくる俳優・伊丹十三のイメージがどう監督へ繋がっていくのか?素人のわたしなどには分かりかねます。さらに分からないのが、なんとセックスシーンが何故か取ってつけたように<挿入>されてあるんです。誰でもご存知の主人公・井上佗助(山崎努)と愛人(高瀬春奈)との林の中での場面です。その時妻・雨宮千鶴子(宮本信子)は大きな丸太棒の上に載ってギーコギーコ漕いでいる場面がそこへカットインされていく。想像のエロシーンである。未だにこの蛇足のようなセックスシーンが必要だったのか?理解に苦しむ場面です。逆に言えば、あのイメージダウンがあるからわたしの記憶からなかなか抜けない不条理としてこの映画は鮮烈な印象がある、と言っても過言ではない。それが狙いだったんでしょうか?第一回作品での起爆剤だったのかも知れない。
 時代がどれほど進歩しようとお葬式の「かたち」は変わらないで欲しいです。残っていて欲しいです。○○館で盛大に数百万掛けて行うのが故人のためなのか?わが家で人並みにそれほどお金を掛けないほうがいいのか?どちらにしろ親戚が集まるだけでも大変な時代だし、忙しい現代では○○葬儀社に全て頼む以外にない、今のご時勢です。まさかお葬式がオートメーション化されるなんてことは想像したくはないです。或いは、結婚式場とそう葬儀場とホテルとデパートが一箇所になった冠婚葬祭グランドホテルなんて、ことはあるかも???
 出演者がすごい。菅井きん。大滝秀治。財津一郎。江戸屋猫八。友理千賀子。尾藤イサオ。岸部一徳。藤原釜足。田中春男。佐野浅夫。津川雅彦。小林薫。笠智衆。これだけの役者さんを揃えて仕事をされただけでも伊丹監督の功績は凄いです。53歳になってしまったが近所の人も、親戚もだんだんそのときが早まって来ているのは時間が止まらない以上、致し方ないことです。お葬式の主人公である黒枠の額縁に入れられた写真の人物が子供にだけはなって欲しくない。
 1984年キネマ旬報監督賞・伊丹十三、主演男優賞・山崎努。日本アカデミー賞作品賞、監督賞・伊丹十三、主演男優賞・山崎努、助演女優賞・菅井きん。ブルーリボン賞監督賞・伊丹十三、主演男優賞・山崎努。毎日映画コンクール監督賞・伊丹十三、男優主演賞・山崎努。
                           2007年1月        マジンガーXYZ