新・銀幕に俺たちがいた144

『丹下左膳餘話・百万両の壷』

 「丹下左膳」と言えば時代劇の中でひとつの柱になっている大きなお話ということになっている。現代のテレビ時代劇では「水戸黄門」「大岡越前」「遠山の金さん」「清水の次郎長」「NHK大河ドラマ」「正月時代劇」、一昔前では「必殺仕掛け人シリーズ」とか、「子連れ狼」とか、わたしが夢中になった40年前以上も前のテレビ時代劇「隠密剣士」「月影兵庫」などが記憶にあります。「丹下左膳」と言えば大友柳太郎ということらしいが見た記憶がないわたしにはイメージが沸きません。最近、豊川悦司主演の同名の映画が製作されたけど、私は未見です。
 1935年の日活映画は山中貞雄監督による大河内伝次郎主演の誰もが認めている傑作でした。時代劇、つまりはチャンバラというより小市民に視点を置いた時代劇の名を借りたホームドラマです。最近の山田洋次監督の時代劇も技術的なことは「?」だけど本筋はホームドラマで、今回の山中監督による作術を引っ張っているような感覚で捉えてみました。とにもかくにも72年経っても全然色褪せない、とは凄い名作だし、古典なんでしょう。わたしなんかには分かりませんが、チャップリン映画の笑いとペーソスが何年経っても人の心に通じるのと同じなんでしょう。
 今さら、映画のストーリーを書いても面白くも何ともないでしょう。誰もが知っている、ということから言えば、ずいぶん遅れた映画ファンの私は恥ずかしいばかりです。
 ある城に百万両の壷があった。しかしその城主は壷の価値を知らず、弟の婿入りの引き出物として相手側に送ってしまった。相手側も汚い「こけ猿の壷」を見て、ケチな城主にバカにされたと思い、屑やに売り飛ばす。売り飛ばされた壷は屑やの同じ長屋の“ちょい安”という子供にくれてやる。金魚鉢のかわりにその壷を使用してまう。最初に持っていた城主が「壷には百万両のありかを記した絵図面が書き記されている」ということを知ったから、家来を集めて探索させる。屑やに売り飛ばした弟のほうもその価値を知り、家来一人を連れて探索に乗り出すも、うるさい奥方の目を盗んで美しい娘がいる「矢場」に入り浸っているのが真の目的らしい。その遊び人の弟が遊んでいる「矢場」に用心棒として居候しているのが大河内演じる「丹下左膳」ということだ。そこにはお藤という女将がいてたいそう小唄が上手で客や店の娘たちも喜んで聞いている。左膳は女将にいやみを言いながらもまんざらでないように横になって聞いている。一人の客がやくざに絡まれ女将の助け舟を請う一声で出て来る左膳の登場場面は普段の様相からは一遍する殺陣でかっこいいぐらいに迫力がある。やくざは左膳の形相に頭をさげるが左膳に送ってもらった客は左膳が客と離れたところを見て襲ってしまう。犬の遠吠えに不安を感じた左膳は引返したが、時既に遅く、客は息を引き取ってしまう。どこかのえらいだんなというふれこみで遊んでいたその客はじつはおんぼろ長屋に住んでいて、一人息子がいる。「ちょい安」と言う名前である。左膳はその子に父親が死んだことを告げなくていけない。とても言い出せない左膳は「矢場」へ連れて行く。父が死んだことを聞かされ黙り込むちょい安を見て、左膳は女将のお藤に一緒に暮らすことを頼みこみしぶしぶ承知したお藤もちょい安のことを息子のようにかわいがる。金魚鉢が百万両の壷とは知らず「矢場」では売り飛ばした城主の弟やら城主の家来やら壷を探す連中と壷の経緯を知らない小市民やら入り乱れているように思えるが、子を思う親のようなお藤と左膳の「言い合い」というか「漫才掛け合い」のようなホットな描写は見る者を暖かくしてくれる。ちょい安を寺子屋へ通わせるも、いじめっ子にいじめられている現場へすっ飛んでちょい安を助けてあげる、なんて現代への風刺として今も通じる、作劇の凄みには参りました。百万両の価値のある壷を面白いようにもてあそびながら、実は他人の子をわが子のように育てていくお藤と左膳の子育ては「子供は社会の宝」を描いて「世界映画史」にも輝く日本映画の「宝」です。「百万両の壷」と「子供」を天秤にかけながら「何が大切か?」を見るものに笑わせながら心に突き刺してくる作家の
<言霊>を感じます。
 銀幕に俺たちがいた102「人情紙風船」でも書きましたが「文芸春秋1999年4月特別号」の「黒澤明が選んだ百本の映画」で13位に、この山中貞雄の「丹下左膳餘話・百万両の壷」が選択されています。

                              2007年2月       マジンガーXYZ