新・銀幕に俺たちがいた145

『 父ありき 』

小津安二郎監督の38番目の作品です。時代は戦争前です。親子の語りは今も昔も変わらない、とは最早、言いがたい大変な時代になっている。当時の監督は今の世の中を想像されたでしょうか?内容は中学教師の父と小学6年生の一人息子(津田晴彦)との父子家庭(昭和17年封切り当時にこの言葉は存在していたのか?)のお話です。父(笠智衆)は中学教師の時、修学旅行引率で箱根に行った際、生徒が無断で湖にボートを出して溺死してしまった、ことに責任を感じて辞表を出す。
 父「たのしみにして出かけた子供が三日目には冷たくなって帰ってくるなんてーーーそれも、ちゃんと、付き添いの教師がついとっての上でだーーー親としちゃ、全くたまらんよ。泣くに泣かれんからねーーーそれも、君、子供心におっかさんに、箱根細工の糸巻きを買ってたんだーーー僕だって、付き添いの教師をうらむよ。そんな教師に子供は任しちゃおけんよーーー僕は、こんな仕事が、つくづくおそろしくなったんだ」
親子は父の生まれ故郷で暮らし始める。子供も転校させられて、友達のことを心配するもすぐに悪友どもの中に入って遊んでいる息子にほっとする。中学合格した際、親子で流し釣りして今後のことを語り合う。息子には寄宿舎へ入るように話す。寄宿舎生活も落ち着いたときに父は息子をたずねる。そのときの会話です。
  父「いろいろ考えたんだが、お父さん東京へ出てみようと思うんだ」息子「東京へ行くの。凄えなあ!いつ行くの?」父「いや、お前はこっちに残るんだ。学校があるんだから」父「お父さんもいろいろ考えてみたんだが、東京へ出て、もう一働きしてみようと思うんだ。お前も中学だけでなくまだまだ上の学校へも行かなきゃならんのだから、お父さんはここでもう一ふんばりふんばってみようと思うんだ。お前ももう子供じゃないんだから、お父さんの言うことがよく分かるだろう?お父さんは東京へ出て働く。お前はこっちの学校に残って一生懸命勉強するんだ。なあ、これからはお父さんとお前と競争だぞ。お父さんに負けるな。お父さんだってまだまだ若いんだからしっかりやるぞ。お前もぼんやりしてちゃいかんぞ。泣かんでもよろし。別に悲しいことじゃないぞ。なあに、これが一生の別れというのじゃなし、お父さんが先に東京へ行ってお前の学校を出て来るのを待ってるんだ。なあに、すぐに一緒に暮らせるようになるさ。分かったか。おい、泣かんでもいい。当分逢えんかも知れんから持ってきたが、これがシャツ、サルマタ、チリガミ、靴下が三足、靴下はちょいちょい洗って代わりばんこにはくんだぞ。そのほうがよくもつ。これが風邪薬だ。−−−腹が痛い時はこれをのむんだぞーーーこれから暑くなるがやたらに生水なんか飲まんように、寝冷えせんように、気をつけんきゃいかんぞ、寝る時は腹に何か巻いて、寝なさい。小遣い、余り無駄遣いするな。向こうへ着いたら早速お父さんも手紙を出すが、お前も一週間に一度は手紙を書け。なあに、今までと同じ、今度は手紙で逢うんだ。いいか、分かったな?」」
父があれほど教師を怖がったのに、息子(佐野周二)は仙台で工業高校の先生になっている。父、曰く「いや、妙なもので、もう一生教師はやるまい、倅にもやらすまいと思っていたのですが、矢張りめぐり合わせと言いますか、なんと言いますか、蛙の子は矢張り蛙でーーー」
何年ぶりかで父と子は温泉宿でゆったりとした時間を過ごすことになる。そこで息子は長年の思いを父にぶつける。
 息子「実はこの間から考えてたことなんですけれど、学校よそうかと思うんです」父「どうして?勤めが気にいらないのか?」息子「僕は中学の時からずいぶん長い間、お父さんと暮らすのを楽しみにしていて、今度こそ一緒に暮らせると思ったら、又秋田県の方へ決まっしまって、僕はもうお父さんと分かれて暮らすのがとてもたまらなくなったんです。そりゃ、僕だって折角学校を出して頂いて、その上、こんな我がまま言って申し訳ないと思ってるんですが、この際東京へ出て、お父さんの傍で、仕事を見つけたいと思ってるんですが?」
  父「そりゃいかん、そんな事は考えることじゃない。そりゃお父さんだってお前と一緒に暮らしたいさ、だが、そりゃ仕事とは別の事だ。どんな仕事だっていい、一たん与えられた以上は天職だと思わないといかん、人間は皆分がある。その分はどこまでも尽きにゃいかんーーー私情は許されんのだ。やれるだけやんなさい。どこまでもやりとげなさい。そりゃ仕事だ。辛いこともある。『一苦一楽相練磨し練極まって福を成す者はその福始めて久し』だ。辛いような仕事でなけりゃ、やり甲斐はないぞ。それをやり遂げてはじめてその福久しだ。我がままは言えん。我を捨てんけりゃいかん。そんなのんきな気持ちでは仕事は出来ないぞ。ましてお前のはやりがいのある立派な仕事だ。大勢の生徒をあずかって、父兄の方はみんな苦労されて大事な息子さん達をお前に任せておられるんだ。さきざき、よくなられるも悪くなられるも皆お前の考えひとつだ。お前のやることはどんな些細な事でも皆、生徒達にひびくのだ。軽々しく考えてはいかん。責任のある大きい仕事だ。お父さんは出来なかったが、お前はそれをやってくれんけりゃいかん。おとうさんの分までやって欲しいんだ。やり遂げて欲しいんだ。離れ離れに暮らしていたって会いたきゃ、また、こうして会える。これでいいじゃないか。お互いにやれるだけのことをやってこれで愉しいじゃないかーーーーー」
兵隊検査でまた東京へやってきた息子と10日間の休暇での親子の最後のひと時、父はお国のために無事に甲種合格になった息子に安心し、昔の先生仲間とのうれしい再開もあって、仕合わせなひとときだったが、急な病に倒れ、そのまま帰らぬ人となる。傍には何十年来の友の先生とその娘がいる。息子の嫁として父が友に頼んでいたのだ。彼女と秋田へ向かう汽車のなかでーーー
 息子「僕は子供の時から、いつも親爺と一緒に暮らすのを楽しみにしてたんだ。それが到頭一緒になれず、親爺に死なれてしまって、でもよかったよ。たった一週間でも一緒に暮らせてーーーその一週間が、今までで一番楽しい時だったよ。いい親爺だったよ」
彼女はその言葉を聞いて泣いている。
  この映画を創って一年後、昭和18年6月小津監督はシンガポールへ向かった。陸軍報道部映画班所属の軍属としてプロパガンダ「遥かなり父母の国」という映画製作を「父ありき」のスタッフ、キャストで撮ることに決まっていた。戦争は悪化、アッツ島玉砕直後で監督の後を追ったスタッフたちの船は米軍の攻撃を受けたが辛うじてフィリピンに避難して九死に一生を得る。小津は撮影不可の電報を事前に打ったが民間人の電報は後回しにされ届かなかった。シンガポールに集結しながら映画スタッフは撮影の機会もない戦場のさなか小津は敵国の映画鑑賞に耽る。上官に見つかればフィルム消失を恐れて隠れてでの上映会をスタッフと行っていた。ウイリアム・ワイラー、ジョン・フォード、オーソン・ウエルズたちの名作を戦場まっただなかで2年間浮き浮きと隠れて鑑賞している小津安二郎の奇妙な、しかし生きるとは不思議なことです。死と隣り合わせの前線で敵国の映画に耽っていられる小津安二郎は本当にしぶとい人だったんですね。独特な固定画面はそんな無骨な人柄そのものが映画となっているんだろうか?「晩春」以来の傑作がこの2年間のシンガポールでの思わぬ映画鑑賞の影響大は言うまでもないことなんでしょう。戦前の「父ありき」でもそうだけど、戦線での体験は戦後の作品に「死」をさらに見つめる監督の思いが込められていったのもまた言うまでもない、と思いました。


                   2007年3月3日ひな祭り      マジンガーXYZ