新・銀幕に俺たちがいた153

『ロゼッタ』

 「ロゼッタ」は働くことをとことん見つめた稀有のフランス映画です。1999年のカンヌ国際映画祭映画祭パルムドール大賞、主演女優賞に輝いた映画です。受賞作品でなかったらおそらく見ていなかった。賞というものは素人に見させる気を起こす意義あるものです。この作品、一人映画とでも言える主演女優エミリー・デュケンヌただ一人をカメラが追って追って追っていく映画です。わが子の記録を長回しで最新のデジタルビデオカメラでより近づいて映しまくる,私を含めて世の親たちの感覚です。クローズアップとカメラのゆれと彼女の息切れと足音とが鮮明に録音されていてわたしは彼女と同時体験しているような感覚でした。「仁義なき戦い」を初体験した時の感覚が蘇ってきました。ヤクザ抗争の銃撃戦とか殺しの場面でカメラは斜めに倒れ揺れながらブレながら見るものの感覚をゆらす。だが、この「ロゼッタ」は彼女の思いをより正確に明確に伝達したい、というスタッフの思いがさらに伝わってくる。場面自体をよりリアルに映したいためにカメラをゆらした「仁義なき戦い」とは違って主人公の心と体と生活環境を94分の時間だけ共有して欲しい、という「希望の表現」であった。
 最初に工場の中をしかめっ面をして早足で歩き回る若い女従業員が映し出される。何か叫んでいる。警備員だろうか?彼女を捕まえようと追いかけている。彼女に退職を命令したものの「辞めない」と逃げ回っていたのだ。生きるために必死のロゼッタを社会は容赦なくつまみ出す。解雇の理由を映画は詮索しない。事実だけを写し取る。記録映画と言ってもいいでしょう。とりあえず、また仕事を見つけるために住みかに帰っていく。自前の水筒をいつも引っさげてとにかく歩くロゼッタは生きている。どんな状況に置かれても何とか生きる術をまさぐっていくフランスの女性の存在に圧倒されていく。車がどんどん走る車道を誰かに見つからないように隠れて、車が途切れた一瞬を見計らって
車道をすばやく横切って森のなかに入っていくと彼女の宝物の隠し置き場のようなところに手を突っ込んで出した物は長靴だった。ここで靴を長靴に履き替えてさらに森の奥へ入っていく。そしてフェンスが張られた場所にやってくるとちょうど抜け出れるようにフェンスが破られたとこがある。そこから入ってさらに奥へ入ったところにたくさんのトレーラーハウスが並んでいる。彼女の住まいです。そこには、酒びたりの母親が常駐している。彼女は帰っても母親のすることなすこと気に入らぬ風で、小言ばかり言っている。所謂、仲の悪い親子です。全ては金がないための低所得者層の生活が直接的に描かれている。ほとんど、アル中の母親はトレーラーハウスの年食った管理人に身体を売って日銭を稼いでいる、ことを娘であるロゼッタは承知している。彼女にとっては最悪の状況である。父親のことは一切触れられずにこの映画は彼女の今、置かれた現状をそのまま記録映画風に綴っていく。母親が隠しているアルコールを探し出したり、呑んでる酒を取り上げて捨ててしまう。今の日本社会なら殺人事件に発展しても可笑しくない状況です。彼女は、勿論そんなことはしません。母親はどこまでも母親です。これは宿命です。娘は母親を病院へ連れて行こうとするが、トレーラーハウス近くの池に娘を突き飛ばして逃げていくしまつである。娘は沼地に足をとられてバタバタするだけで水のなかに沈んでいく。「ママ、ママ助けて」と泣き叫んでも母親は帰ってこない。なんとか陸までたどり着いて命拾いしたものの絶望感が漂ってくるも、彼女は苦虫かんだ顔で街へ仕事を求めて歩きまわる。この職探しの執念はどこからわきあがって来るんだろうか?どんなに仕事をもらえない日々が続こうとも「泥棒」「恐喝」めいたことだけはしないのがえらい。途中の場面で仕事にありつくも結局長続きさせてくれないのが見ていて腹立たしい。彼女の仕事ぶりが最悪なために仕事先の長から辞職勧告を受けるのではなくて、全くの都合で切り落とされる「ロゼッタ」はいい目に合えない世界中の隅に追いやられている仕事募集中の若者たちへの作家の何らかの思いが込められたメッセージ映画ではあるに違いない。
 ワッフル・スタンドで働く同年ぐらいの男の店員と話が合う、というか息が合って二人は接近していく。と言ってセックス場面がすぐに出て来る最近の映画のようなマンネリズムに侵された内容ではなく、何となく男女が知り合って、なんとなく話が合って、何となく男の住まいで食事
をして、二人で踊って、そしてセックスかと思いきや、彼女はいつもの腹痛の発作が出て、そして帰るのか、と思いきや彼女は「あそこへは帰りたくない。ここで寝かして」と頼んで、男は寝かしてあげる。結局セックスのない男女の交際シーンは終わる。そのあと、彼女は彼を裏切って彼のワッフル店を奪い取って仕事をする。ここでのお客にワッフルを売る店員をしているシーンで初めて笑顔を見せる(上の写真)。しかし、それも数日後には自ら社長に「辞めます」と電話する。母親の容態が悪くなって、トレーラーから離れられなくなったのだろう、と推測した。
 どんなに酒浸りのどうしようもない母親でも捨てることはしないロゼッタの何かにすがりたいのに出来ないいらだたしさが伝わってくる。
 母親をセックスおもちゃにして楽しんでいるド助べえな管理人の中年おやじに仕方なくガスボンベを交換にいくロゼッタの悲しみは苦虫かましたいつもの日常の顔のなかに埋没させていく。苦しみも悲しみも痛みも将来も見えないまだまだ若いロゼッタを通して仕事を敢えて持たない生活を選択している今の若者感に厳しさから逃げる頼りなさを思ってしまう。
 ラスト、重たいガスボンベを一人で家までふらふら抱えていくロゼッタにまた、年食ったわたしが若いもんにこき使われながら、それでも我慢して仕事にしがみついている惨めな<俺たち>をそこに見た。裏切られた元ワッフル店員がガスボンベを持ったロゼッタの回りをバイクで旋回する。近づいたり、離れたり、引いたり、押したり、する内にロゼッタは初めて悲しみの表情を見せる。彼が彼女に手を差し伸べたところは映画には映されていないのだが、ロゼッタが裏切った彼が見せるやさしさにかたくなに閉じ込められていた心が一瞬開いたラストシーンであった。

                                2007年6月        マジンガーXYZ