新・銀幕に俺たちがいた155−A
『手紙』
弟は一区切りの意味で被害者宅を訪れる。そこには母を殺された息子がやつれた顔で暮らしていた。そこで被害者の息子は6年間刑務所の兄から送られてきたおわびの手紙を弟に見せる。その最後の手紙にはこう書かれてある。
「強盗殺人犯の兄を持ったばかりにどれほどの苦労をしてきたか、妻と娘がどれほどの扱いを受けてきたか。弟はわたしを捨てると書いてありました。6年経ってやっとわかりました。わたしは罪をつぐなってなどいない。わたしがいるかぎり、あなたや弟、たくさんの人に対して罪を犯し続けているのだと、わかりました。弟の言うことはもっともです。手紙など書くのではなかったのです。そのことをおわびしたくこの手紙を書きました。勿論これを最後にいたします。申し訳ありませんでした。健康と御多幸をお祈りします。」
そして被害者の息子が言う。
「それを読んで決心したんだ。もう、終わらせようとね。直樹君といったね。もう、これでいいと思う。これで終わりにしよう。何もかも。お互い長かったな」
号泣する弟。
おそらくこの言葉が大きな論議を呼ぶもう一つ大きなテーマでしょう。殺された被害者にとって「終わり」という言葉は存在しない筈。「終わり」という意味の持つ大きな問いかけの波紋が見る側に何らかの反響を作用させたなら成功したのだろうし、わたしは受け取った。
弟の号泣場面で幕を下ろす手法もあったでしょう。
しかし、映画は場面一転して開巻と同じく、桜舞い散る刑務所のシーンとなり、弟が家族に見送られてバスで慰問に入る。弟の漫才を見ながら多くの受刑者の中の兄が手を合わせて涙を流すシーンに小田和正の「言葉に出来ない」の歌が被さって感動のラストシーンへまっしぐらというエンディングは映画の泣かせる基本です。しかも桜舞い散る一本道を家族3人で歩いていくシーンを最後に映しながらの幕引きは素晴らしい。とは思いましたが、わたしは家族3人の後ろ姿、つまりは向こうへ去っていく、よりも家族がこちらに顔を向けて観客のほうへ近づいてくるようにして欲しかった。
2007年7月 マジンガーXYZ