新・銀幕に俺たちがいた160

『長い散歩』

 昨日、H19・9・12、総理大臣(阿部晋三)が所信表明してこれから国会という時に体調不良で辞職した。辞職理由での会見では一切御自分の体調の悪さについては一言も発言なされなった。こんな無責任な総理の櫂で日本国を引っ張っていたのでしょうか?本当に情けなくなるほどです。年食った俺よりも若い阿部前総理の気力の無さと、突然の「切れた行動」を見て、忍耐して働いている今をあっさりやめて心身とも明るくなりたいのはやまやまなれど、大事な家族のために必死で今の仕事にしがみついている俺を笑わば笑えよ。辞しても生活に困らない雲の上の阿部総理に比べて、気だけはましだと思って底辺で生きるわたしはそれを糧として踏ん張って生きます。昨日の前日9.11はアメリカ同時多発テロで6000人以上の尊い生命が一瞬に消えた世界が鎮魂した日だ。世界も日本も揺れ続ける波に乗ってどこかに向かっている。そんなどでかい話に心を奪われる余裕もなく50になってから重労働に勤しんでいるわたしです。また、愚痴がこぼれてすいません。前総理を批判することなどおこがましいのに、憂さ晴らしに利用書きして申し訳ない。内外の大事件もさることながらわたしに大事なのは日々の生活です。さらに今日という日は秋田で幼児虐待殺人に問われている母親の裁判が行われる。昨日今日はとんでもない無情の日でもあります。しかし、そうした大事なニュースに心を奪われることなく平凡に真面目に働き頑張っても、それがどれほど難しいことかも父母からひつこいほど聞かされてました。その言葉が現実になってます。この映画には幸せに生きていない5歳の少女と幸せに退職出来なかった年寄りが出合います。この出会いがさらに二人を不幸な出来事に巻き込んで生きます。他人にはこの不幸に見えるものが当人の少女と年寄りには素晴らしく生き生きした本来の「人間」を取り戻した時間になります。
 少女(杉浦花菜)は母親(高岡早紀)から名前では呼ばれず「ガキ」と呼ばれている。アパートの2階に暮らす少女と母親の生活はゴミだめのような部屋から一目両全に現実の少女の蝕まれている真っ黒な心が見る側に突き刺さる。部屋からおっぽり出され小銭一枚投げ与えられ犬畜生と同じ感覚で飼っている少女というイメージが全編を被い尽くす。首輪がないが目に見えない首輪で繋がれていたり、放し飼いにされたりしている。彼女は母親から人間扱いされていないのです。母親もそれを分かってやっているから未来が見えない現実がそこには転がっている。彼女は背中に幼稚園の発表会で演じた彼女自ら新聞紙等で貼り付けて作った天使の羽をいつもくっつけている。それは助けを請う目印だったのでしょう。子供は目に見えない危険信号を大人に送っているのでしょう。それを形として映像表現として、見せた奥田瑛二監督の魔法にはうなされます。隣の部屋に一人の初老の男、安田松太郎(緒形拳)が引っ越してきた。虐待される少女の悲鳴を昼夜聞く生活をしているうちに彼女を助けることを思いつく。彼は元校長先生であることが分かってくる。妻の祭壇に座す父、松太郎に一人娘(原田貴和子)が小声で「ひとごろし」と罵る。松太郎は現職時代に家族に対してDVの行為があった風な映像が出る。大なり小なり唯一の家族から父として認めて貰えず家を娘に与えて彼は家を出る。家族から拒否された少女と老人が結びつくという設定はこうして作られた。現代を象徴したものがここには感じられる。産み捨てられ、実の母親から虐待される子供が言える言葉は「いたい」という3つの単語だけです。体に誰かが触れただけで震える子供は瀕死の野良犬、野良猫と同じだ。ワイドショーで何百匹の捨てられた犬を飼って近隣住民から罵倒され市役所とテレビリポーターから責められる人々がいる。この映画のわが子を虐待する母に比べれば救われる人々だと思う。捜索願いを出した警察の刑事(奥田瑛二)に母は言う。「母にされたことを娘にしているだけです」
 松太郎は逃げ足の速い少女を救うために彼女をどこまでも逃がさないだけの脚力を鍛えるために髪をそり落とし、町内をマラソンし、竹の刀で素振りをして心身の鍛錬を日々重ね、体力増強を日々の日課にする。死にかけた一人の老人は瀕死の少女との出会いにより彼女を救うための目標に向かって生き返ってきた。まるで、視点を変えた、黒澤明の「生きる」が蘇った感覚をわたしは感じた。先日、何故か黒澤明の映画を原作にしたテレビドラマを2本見たが、その一本が「生きる」でした。という訳もあって「長い散歩」は「生きる」に通ずる映画だと思います。少女と老人の逃避行には、祭り、古びた駅舎、廃校のような場所での見知らぬ若者(松田翔太)との夜営での語り合い、そして彼の自殺、とやりきれない場面も出てくるし、懐かしい癒しの風景も出て、そして少女はその大きな自然の空気を吸って、今まで吸わされた汚いウイルスを体内から浄化させた病気療養の行脚の旅だったのだろう。少女にとって、おじいちゃんが与えてくれた無償の愛は止まりかけた心臓に澄んだ血液を注ぎ、生まれ変わらせた。大部屋の宿泊所で体に触れさせなかった少女がおじいちゃんのふとんのなかに滑り込んで「サチのこと好き?」に涙ながらに「大好きだよ」には心が暖かくなるほどの感銘を受けました。
 3人家族で幸せだったころに撮った山頂でのスナップ写真を持って今は亡き妻に詫びる旅の終着の頂で少女は彼女にしか見えない天使の翼を持った白い鳥に向かって山頂から空目指して飛んだ。そしておじいちゃんに初めて人間らしい言葉を発する。「ありがとう」そして老人は誘拐の罪で自首すべき少女に別れを告げようとするが言葉が出ない。彼女はあの鬼のような母親に戻されれば殺されるかも知れない。施設に行かせるように国が働きかけても母は言うことを聞くはずもないだろう。不安で一杯の老人は泣きながら「ごめん」というしかない。それを見て少女は「おじいちゃん、泣かないで」なんとも救われない映画だが、これが現実なんです。正に「傘がない」とは言い得て妙の歌の選択です。
 奥田瑛二監督に最敬礼です。

 平山秀幸監督の「愛を乞うひと」も子供の虐待を描いている映画でした。原田美枝子が母と娘の二人一役を演じた傑作でした。子供である娘は母から殴る蹴るのまさに暴力暴力で娘を自分の道具のように扱う。それに対して、血を流しても母を慕っていく。ついには娘は母を捨てる。泣きながら母を捨てる。そして何年ぶりかに美容院をやっている娘と母は再会する。これも傑作中の傑作でした。血縁の難しいテーマを抱えた作品でした。親殺し、子殺しが増えている中での突出した作品でした。
 「長い散歩」に戻って、ラスト老人が刑務所から出てくる場面になります。彼は刑務所の前につづく長い道に少女を見る。「さっちゃん、ただいま」と微笑む。それもつかの間、幻影と分かり、誰もいない長い長い道を一人ぼっちでカバン一つ持って歩いていく場面が「傘がない」の歌に後押しされるように続いていく。少女のアパートに行くのだろう?少女はもうどこかへいなくなっているのだろうか?それほどに少女を演じた杉浦花菜ちゃんの存在がすごかった。
 第30回モントリオール国際映画祭のグランプリ、国際批評家連盟賞、エキュメニック賞の3冠受賞。
                    2007年9月13日             マジンガーXYZ