新・銀幕に俺たちがいた161

『わが心のボルチモア』

 1990年のアメリカ映画です。物語はヨーロッパからアメリカへ移民してきた一人の男性の場面から始まる。ポスターはその初めて見たアメリカが夢の世界であった、という懐古趣味の場面を捉えたものになっている。空には花火が舞い、この国は永遠に不滅です、といった正に「アメリカンドリーム」の地に立つ一人の人間の物語が今から始まる、という幕開きの世界に見る者を誘うような映画作りに懐かしさを込めている作風です。これから一旗あげて輝く人生を掴み取る、という本当にアメリカはこんな人たちによって支えられているんだよ、ってな感覚で映画製作されたんだろう。監督はこの舞台であるボルチモア出身のバリーー・レヴィンソンです。この映画の前作が有名な「レインマン」だ。それはさておき、監督自身の自伝的要素が込められているのは当然でしょう。だから見る側にも作り手の思い入れがそこかしこに感じられる作品に仕上がっている、と思います。
 ボルチモアに単身降り立った男サムは先に移民して暮らしている親戚たちを頼って同居生活を始める。盛んに「家族会」という言葉が移民してきた主人公の仲間たちから口癖のように出る。そう。この映画は監督が思っている良き懐かしきアメリカの「家族」からくる「絆」の素晴らしき「懐古」の世界を描こうとしたのでしょう。最近の日本映画に見られる昭和30年代を振り替えって「懐古」の「日本」を描く作風が流行しているが、それの先を行く映画でもあるかも知れない。主人公がアメリカに足を踏み入れたのは1914年です。日本は大正時代です。この時20代として主人公がディスカウントショップを成功させたのが30代から40代とすると、日本では昭和初期ということになる。まだ太平洋戦争前のことである。この映画には戦争時代のことは全く描かれていません。
 上の左端の写真のように開巻近くでは近所に住む親戚一同が全員集まって食事をする場面が描かれる。しかし、映画のラスト近くでは上の右端の写真のよに核家族の食事場面になる。映画はこの食事場面の移り変わりを一つの家族の歴史の変化として映画の大きなテーマとして掲げている。作りとしては見る側に分かりやすい作風だと思います。最近の家族映画は洋画にしろ、邦画にしろ、一家族の、それも精神的なゆれる感情を映像的に作家の研ぎ澄まされた技法で見る側を挑発するような、一種、何かの賞とか栄冠を目指してのこねくり回した、よく言えば独創的な、悪く言えば一人よがりな、ちっちゃな作品が出回っている感が、わたしのようなバカなただの映画ファンにはしていたんですが、考えれば、今の時代は崩れた家族で何とか未来志向していこう、という時代になっていたことをつい、忘れてしまっていたのも事実です。良き時代の「家族映画」を望むことの方が「ないものねだり」でした。今は、「家族」の「再生」ではなく「崩壊した家族」による「新しき未来の家族」を模索している時代なんだろうし、そうしたドラマが生み出されていくのをじっと見守る時代なんでしょうか?バカな労働者にはそれでも家族の「絆」だけは信じていたい、とはいつも思っていることなんですが、どうなんでしょうか?支離滅裂な話になってしまった。
 主人公の息子が同じ家族会のなかの仲間と共同でボルチモアで最初の激安店ディスカウントショップを始める。当時、テレビがアメリカで出始めた頃の話で一台のテレビに家族会の多くの家族が集まって初めてテレビのブラウン管に映る映像を釘付けになって見る場面があります。「ALWAYS三丁目の夕日」にもそれに似た場面がありました。懐古趣味において日本もアメリカも人の感情に差はないですね。わたしは、それより少し後の時代なんで同時代の懐古趣味ではないですが、見たいテレビの時間が来ると食事を途中でやめて家族全員がテレビの部屋に集まってコメディーを見ている、この映画の場面なんてのは分かります。こうした場面は核家族になっての場面で、親戚が集合した家族会が全てだった時代においてはコミュニケーションが人間同士の会話であった。それがテレビの出現で核家族でも黙っていても楽しめる要素が家のなかに入ってきて時代は大きく変遷していった、こともこの映画は語りかけている。 主人公の息子がセールスマン時代に集金帰り強盗に刺された時、家族会は「金がこの世の災いの元だ」という台詞は今も全世界に共通するものだ。
 感謝祭に子供たちが腹をすかしているために主人公はいつも遅い兄を初めて待たずに七面鳥にナイフを入れたためにそれ以来決別してしまったり、主人公の妻の葬式に来ない兄やら他の家族会のことを「家族じゃない。家族じゃない」と繰り返す。息子の記念すべき家電製品のディスカウントショップの開店日に孫が倉庫で火遊びをしたり、開店大成功が大火事で夢やぶれたり、その火災保険に入っていなかったり、人生いろいろな場面をちりばめて、最後は孫が子供を連れて主人公が入っている老人ホームに逢いに行って話をする場面で終幕する。部屋にはテレビがついている。どんな時代になっても変わらないのは部屋にはテレビが置いてある、ということに何か意味を持たせているのでしょうか?
   主人公を演じたのはアーミン・ミューラー=スタール、そしてあの「ロード・オブ・ザ・リング」のイライジャ・ウッドが子役で孫を演じている。私は息子の妻役のエリザベス・パーキンスがエリザベス・テーラー似で古き良きアメリカ映画時代の女優という顔立ちでで気に入りました。
                                    2007年10月      マジンガーXYZ