新・銀幕に俺たちがいた170

『母べえ』

 「朝 五時半 君は決まって目を覚ます 君はガスコンロに火をつける 釜の飯が炊け始める やがて学校へ通っている子供達を起こしみんなの弁当を作る 君は薄給の小学校の代用教員 やせっぽちの君なのに 子ども相手に飛んだり跳ねたりもせねばならぬ 大きな声で唱歌も歌わねばならぬ いったい一日何時間の勤務だというのだろう みんな不平持ちながら みんなクビを恐れている いったん失ったら二度とありつけない職なのだ 君はぼくのこと 子供達のことがあるから歯を食いしばって頑張る 君の十二貫足らずの痛々しい身体 それはまるでひびのいった瀬戸物みたいだ いったい誰だ 君の身体をそれほどまでに痛めつけるのは何者だ ぼくたちにこのような苦しみを強いるのは 君の顔はもう美しくない 若々しくもない しかしぼくは今君を見直す思いに打たれている 君の内に輝く一筋の力よ それは今の弱いぼくに なお生きる力を与え そしてぼくが人間であることを思い出させてくれるのだ」という今は亡き夫「父べえ」の語りが、エンドタイトルに被さるように静かに聞こえてくる。感動的な音楽でラストシーンを飾る、といった涙腺を緩ますような感傷的な幕引きを拒むかのように、吉永小百合の「母」を映しながら現代の何かを失った母親たちへ苦言を呈する、というか寂しさとも怒りともなんとも言えないもどかしさを山田洋次監督は夫の語りを借りて説法した。言わぬが花、と分かっていながらどうしようもない苦悩がラストの長い長い苦言から読み取れる。吉永小百合の母親像を延々と流しながらのエンドタイトルという終わり方も考えたんだと思います。でも、監督は情けない現代日本の母親たちに映画の中で言いたかったのでしょう。戦争を生き抜いてきた母親たちは自分を犠牲にしても子供をりっぱに育てて社会に送り出していた。戦後世代のわたしには戦争をくぐってきた世代の人々を永遠に理解は出来ません。想像だけでは、絶対に分からないことがある。戦争のなかで生きてみなければ分からない。演じることはそこへ何万分の一でも近づけるのでしょうか?
 そんなことは百も承知の映画人たち、演劇人たち、そして無類の芸術家たちでしょう。彼らはわたしのような凡人に考えさす時間を与えてくれている、という事実だけは間違いないです。鑑賞時間、本読み時間、は確実に彼ら作家たちに五感を数時間預けています。「母べえ」もしかりです。2時間12分。わたしを捉えたのは吉永小百合の変わらぬ「日本的な美」、野上家の家族間の描写、隣組という近隣同志の描写、そして思想統制のなかで国家権力に屈しない夫と非国民と呼ばれても結束して家族を守る母と娘たち、に加えてその一家を助ける青年たちはひたすら待つ。夫を、父親を、尊敬する先生を、ひたすら待つ。それは帰らぬ人を待つ気持ちです。戦争で亡くなった世界の人々のなかには死亡記録だけを貰って、帰らぬ人の肉体の一遍のかけらも戻っていない、何千何万何千万という家族がいるはずだ。想像ではなく現実がそこにはあるはずです。テロへの想像さえも「母べえ」から感じられます。「恐怖」を感じられるか、感じられないかは観客の生きてきた環境と教育と家庭環境と国籍といろいろな個人のルーツによって様々です。この映画が、単なる「母物」と思っていたら、実は「反戦もの」だったのか、というあっと驚かされた映画、というのが正直な「感想」です。
 吉永小百合さんには敬服しました。彼女の出演で映画館に普段は足を運ばない人さえも運ばせる数少ない日本女優であることを忘れないでおこう。批判はいくらでも書けるけどそんな低次元で原稿書きするより彼女をうんとうんと「ヨイショ」して日本映画にどんどん出演していただこうよ。時代劇とか、今回の戦争時代とか、着物を着ている彼女はもちろんですが、現代劇での彼女を見て見たい。今回、蛇足のような病院で家族に看取られながら息絶えていくおばあさんを演じさせられていましたが、はっきり言ってわたしは不要な一瞬でした。それよりも、祭壇に飾られた割烹着を着て笑顔で家事をこなしている働くおかあさんの写真を倍賞千恵子、戸田恵子の娘たち家族、そして映画を観ているわたしたちがじっと見つめるラストであったならーーーーー、というセンチメンタルな余韻が欲しかった、というのは作り手と受け手の決してうまらない次元の違いなんでしょうか?
 最後の病院での描写への不満はあれど、山田洋次監督の家族への拘りには拍手です。時代劇から何処へいかれるんだろうか?と不安でしたが、現代劇における家族映画への回帰は山田洋次映画ファンへの回帰でもあるんです。ありがとうです。そしてそして、わが広島とは平和の語り部としての吉永小百合さんとして知られていますが、「母べえ」のなかに「広島」を聞いてさらに「ヒロシマと吉永小百合」の深いつながりを感じました。
 冒頭は割烹着で物干しに洗濯物を干す小百合さんの場面から始まりました。そして、エンドタイトルに被さる亡き夫からの「働くおかあさん」への感謝で終わる。その感謝は二人の名監督、名女優の次回作を待つ楽しみへとなり、ファンの生きがいでもあり、わたしとしては生きる支えにもなります。改めて感謝です。


                                   2008年3月          マジンガーXYZ