新・銀幕に俺たちがいた171

『街のあかり』

 主人公はしゃべらない。無口なのか?わざと話をしないのか?警備員が職業だ。その警備会社のなかでもしゃべらない。まだ努めて3年だ。いや、もう3年、というのにある上司からは覚えが悪いと評判が悪い。とにかく仕事仲間からは完全に浮いた存在である彼の行動は「孤独」という簡単な表現で決められないほどの何か今の自分にも繋がるものを感じている。彼の世の中への一歩引いた目線です。誰も同じところで留まらないで何かへの目標、あるいは目的というか次への一歩を踏み出すために日々を生き抜いている。生き抜いている、と言ったらかたぐるしく聞こえるかも知れない。とりあえず、自分が置かれている現在の状況で必死に何かをやっている。その個人の今まで生きてきたベクトルを横から勝手に方向転換させる障害ブツ(者)(物)が現れたとき人間はどうなっていくのか?弱肉強食の動物の世界では強いものに弱いものは食い殺されてしまう。
 車でバーガーを売っている女性と夜勤明けとか夜勤へ出かけるときに孤独な彼は挨拶代わりにそこでおなかを満たして出かけて行く。彼女はこの作品で始めから終わりまで彼の面倒を見ていくのだ。彼にとっては「天使」のような存在である。もちろん、「天使」はイコール「アキ・カウリスマキ監督」に他ならない。宣伝文句によればこの作品は「浮雲」「過去のない男」「街のあかり」を敗者三部作の完結編だそうだ。フィンランドの経済状態はあまりよくないのだろうか?リストラから疎外された死にかけたねずみのように工場が立ち並ぶ海岸沿いに瀕死の状態でトラクターに寄りかかっている孤独な男はいつも側にいる女性に手を差し伸べる。「こんなところで死んでたまるか」と言って口から血をたらしながら彼女の手を強く握って幕を閉じるラストのエンディングは傑作です。
 彼がこの映画で唯一、笑顔を見せる場面があります。騙されて強盗犯人として留置場に入れられ、日々の刑務所生活が描写されるシーンの一コマが上記の笑顔の写真です。多分、刑務所という皆が一体ゆえの安心感からの解放の笑顔であったのでしょう。孤独ではこの世は生きていけないし、守ってくれる人というか見てくれている人たちがいてこそ仮に孤独でも生きていけるのだろうか?
 監督はフィンランドの街の風景を随所に盛り込んでいる。それは監督の「意思を持った映像風景」に違いありません。監督の目的は世界にフィンランドを広めるための作劇造りをしているかも?今回は?ばかりの文章になっちまったがわたしも今、五十代を半分ぐらい登ってきて職場でのきびしい現実を戦ってボロボロになるとき倒れている孤独なコイスティネン(ヤンネ・フーティアイネン)に手を差し伸べるアイラ(マリア・ヘイスカネン)は私には誰か?家族がいるわたしはまだ彼に比べれば甘いですね。
 先日2007年度厚労省のまとめで過労が原因での自殺者が過去最多の81人になったと新聞は報じていた。昨年比でプラス15人はますますその危険がわたしのような50歳を過ぎた中古品というか若手に切り替えたい会社に敢えて無理して居座っている面倒な労働者というか、若手に馬鹿にされてまで孤独に仕事に従事せざるを得ない死にかけている労働者に明日はあるのだろうか?なんてボソボソ書いていること自体が自分への甘えでしかないんですよね。どうにもならないやつらはとっくに死んでいる。81人死んだ。全員が男性だ。四、五十代が50%を締めている。5月9日28歳のコンビ二店長清水文美(男性)さんが権限や裁量もない名ばかりの管理職で残業代が出ないのは不当だとして東京地裁八王子支部に提訴した。彼の残業時間は月108時間で昨年8月は160時間を越えている。なのに残業代は管理職だからゼロというのは酷い組織もあるものだが組合はどうなってるのだろうか?あちこちガタがきている壊れた50代の労働者であるわたしはとにもかくにも残業代は出してくれているから清水さんに比べればまず良しと認識せざるを得ないのも現実です。過労自殺認定者にだけはならないように日頃の体質管理もきびしくするように努力はしているつもりです。中国の大地震で数百万の人が一瞬でこの世から消えた。しばらくして、信じられないニュースが次から次から飛び込んできた。70代80代の人たちが数日ぶりに瓦礫の下から奇跡の生還をしてくる信じられない光景が映し出されている。「残された家族のために死んでたまるか」という思いだけで生き延びた。映画の労働者も「こんなところで死んでたまるか」と這い上がる。それしかない。
                 2008年5月               マジンガーXYZ