銀幕に俺達がいた10

『若者たち』(1967)

 今の若者たちが求めているのか、時代が求めているのか、それとも作り出されたに過ぎないのか、は別にして、何故か今またブラウン菅の中は、万年青年森田健作人気で、彼の主演する青春ドラマまでも再放送されていますが、彼の持ち歌でもある「若者たち」が、実は二十年前のTVドラマの主題歌であることは意外と知られていないでしょう。
 「若者たち」は1966年から1967年にかけて、この主題歌と共に全国の視聴者の熱い支持を受けたフジテレビ放映の連続TVドラマです。
 39回続いたこのドラマは、実はハッピーに終了したのではなく、打ち切らざるを得なかったのです。26回の放送分が終わろうとした時、局側が社会批判的で暗くて娯楽性に乏しい内容のため打ち切ろうとしたのに対して、七万通の投書と数百通の連名の要請書、さらには直接局を訪ねて継続を望む若者のグループが殺到して、何とか39回まで延長されました。製作費も限界、俳優達も体力の限界で辞めざるを得なかった。製作者側の無念さは、しかし、ついに映画になって花開くのであります。二十万通を超えるファンに励まされテレビがダメなら映画にしよう、という話になってすぐに出来たのかと思いきや、そうは簡単にいきません。
 簡単にいきそうもないと分かっていながら出発したのは、やはり全国のファンの支えと、この作品に対する製作者たちの信念であったのでしょう。当時の大手の映画会社が製作費を出す筈もなかった時に、先に書いた『太陽のない街』を製作した新星映画社が半分の資金を出す、ということで、クランクインしたのです。始めから厳しい出発でした。それでも出発したのは、使命感といったものも、俳優達にはあったと思います。五人兄弟を演じた、当時の俳優座若手組の田中邦衛、橋本功、山本圭、佐藤オリエ、松山省二たちは、エキストラに出す弁当代すらも事欠く日が重なり、彼らはお金を出し合いヤキイモを買ってきて間に合わせたものでした。
 とにかく作品は出来ました。製作費1800万。しかしながら、その作品の暗さと一般大衆向けに欠ける内容と、さらにモノクロではでゼニは取れぬ、ということでどこの映画会社も買ってくれません。最後に頼んだ大映も1300万なら買いましょう、という話になりましたが、それでは余りに採算が取れません。製作者側は、ついに公開のメドが立たないまま、各地で試写攻勢を続けていったのです。
 そして、全国の若者たちは立ち上がった。試写を見た若者たちは、自分達が上映したい、ということになり、ついに自主上映に踏み切ったのです。名古屋でまず大ヒットになり、全国のホール、公民館は、またたくまに若者達の熱狂的な支持を得て、「若者たち」(1967)「若者はゆく」(1969)「若者の旗」(1970)の『若者たち三部作』が製作されました。
 佐藤家の五人兄弟の物語です。長兄太郎(田中邦衛)は土建会社の設計技師、次兄次郎(橋本功)は遠距離トラックの運転手、兄達が将来を託して大学に入れた三郎(山本圭)はインテリ青年、母親代わりに一家の雑用を背負わされ、耐えかねて一度家を出て靴工場で働くが厳しい社会を経験して舞い戻ってくるオリエ(佐藤オリエ)、そして一浪して受験戦争に悩む末吉(松山省二)の五人兄弟が互いに生き抜いていく様が、当時の多くの若者の共感を得ました。
                 君のゆく道は            君のゆく道は
                 果てしなく遠い           希望へとつづく
                 だのになぜ             そらにまた
                 歯をくいしばり            陽が昇るとき
                 君はゆくいのか           若者はまた
                 そんなにしてまで          歩き始める


      (原作、脚本は『アッシイたちの街』の山内久。監督はテレビ同様に森川時久)  昭和60年4月社内報


 自主上映会で鑑賞してからもう何十年か経ってしまったが2,008年の今日DVDでじっくりと見た。学生運動、学歴社会、受験戦争、倒産、交通戦争等を抱えて生活している両親が死んで五人兄弟で暮らしている一家の話なんだけど、道路、建造物、は変わっても人間社会はほとんど変わっていないことを見て取れる。ただ、この話には原爆被害者が抱える問題を挿入していたことに今日始めて気づかされた。
                                2,008年 8月 マジンガーXYZ