この稿は2022年1月に書きました。
ケースワークで失敗する秘訣1.はじめにケース対応で「こんな時どうすればいいですか?」と質問をされた時は、『どうすれば上手く行くかは分からないけど、どうすれば失敗するかは分かります。』と答えます。別にふざけているわけではありません。実際、同じケースは二つとないし、やってみないと分からないというのが正直なところです。もちろん、一流の支援者ならそれなりの答えを出すのでしょうけれど、私ではできません。でも、何も分からないわけでもない、という微かな矜持から『失敗する秘訣は分かります』となるわけです。結論を一言で言うと、失敗する秘訣は「あせること」だと思うのですが、もう少し詳しく書いてみたいと思います。 2.難ケースについて支援する側は、思うように展開しないケースをよく「難ケース」と言います。しかし、この言葉は考えてみると不公平な言葉です。相談者との関係が上手く作れない、歩調が合わない時の「関係」とは、相談者と支援者の相互作用の結果なのですから、その責任の半分は支援者にもあるはずです。でも、支援者はややもするとその責任を相談者に押し付けがちです。しかし、私の経験から言っても、「難ケース」の原因はやはり半分以上支援者側にあるように思われます。ある集まりで、「難ケースの解決方法を教えてほしい」というむちゃな質問を受けました。最初に述べたように、どうしたら上手く行くかはよく分かりません。でも、どうしたら失敗するかを考えると、いわゆる難ケースの半分ぐらいは解決の糸口が見つかるのではないか。そう思って以下のようなことを考えてみました。 3.難ケースの類型難ケースのうち、支援者に原因があると思われるケースをとりあえず四つに分類してみました。(1)情報収集が不十分なケース新規ケースに関わる時は、当然にインテーク面接をし、関係機関等からも情報収集し、相談者の全体像をできるだけ詳細に把握しようとします。相談者との信頼関係の土台は共感。共感の土台は想像力。想像力の土台は正確で詳しい情報だからです。ところが、他機関からの情報を読んでも、相談者のこれまでの生活や経験の重みが全然伝わって来ない場合があります。履歴書と大して変わらないような「生育歴」も散見されます。これでは相談者の心情に迫ることはできません。どんなに登ることが絶望的な断崖絶壁でも、間近に近づいて凝視すれば必ず手掛かりが見つかるものだ、と言われますが、何キロも離れた場所からいくら眺めていても手掛かりは見えません。「難ケース」だと諦める前に、情報収集をやり直すべきでしょう。 (2)「連帯責任は無責任」ケース最近は、いわゆる関係機関会議が頻繁に行われます。それ自体は悪いことではないのですが、会議を開けば自動的に答えが出る、と安易に考える向きは無いでしょうか。私は、相談者と支援者の関係は基本的には一対一の関係だと思っています。援助方針は多数決で決めるものではなく、色々な情報を吟味した中で、相談者が特定の支援者への信頼をよりどころにして自分で選択するものです。つまり、幾ら沢山の機関が関与したとしても、キーパーソンとしての一人の支援者と相談者との信頼関係がなければ支援は行き詰ります。会議で情報交換は行われても、誰が「最後まで責任を持つのか」が話し合われることは少ないのではないでしょうか。キーパーソンは特定の機関とは限りません。ケースごとに異なるのは当然ですが、すべての支援者は、まずは自分がその重大な責任を負う覚悟を持って会議に臨むべきです。そのうえで、最も適切な選択がされるのが理想です。むろん、何でも抱え込めば良いわけではありません。手を放す判断も重要です。ただ、実際には「会議で決まった」ということを免罪符にして、がっぷり四つの関わりを避ける傾向は無いでしょうか。支援者の腰が引ければ「難ケース」になってしまいます。 (3)支援者の安心優先ケース支援者は相談者の将来を色々と想像し、良くない事態を事前に避けようとします。それは当然なのですが、ややもすると、転ばぬ先の杖が先過ぎる、と思うことがあります。そうすると、相談者は何も困っておらず支援者の提案に一向乗って来ないので、支援者だけがやきやきしている、という事態が起きてしまいます。最近は大分変わってきましたが、以前は私も含めて普通の支援者は、知的障害者が一人暮らしすることに大きな不安を感じていました。ある時、私が担当していた知的障害者の女性が一人暮らしを始めざるを得ないはめになりました。以来20数年、彼女は周囲の心配をよそに、今も単身生活を続けています。詳細は省きますが、私は彼女への信頼よりも自分の安心を優先していたようです(註)。 人の支援は伴走型が基本です。いつ倒れるかもしれないけれど、支援者の安心のために無理やり車椅子に乗せるのではなく、倒れる瞬間に手を差しだす。「そんなのは大変だし、失敗したら責任問題になる」という声も聞こえてきそうですが、支援者のための先回り支援は本末転倒という誹りを免れないでしょう。 (4)支援者が待てないケース(3)の話とも繋がりますが、支援の過程では、「今はどうしようもない」「待つしかない」という局面があるものです。そんな時、支援者は強い焦りに襲われます。なぜでしょうか。「今状況を変えないと将来は絶望的。」「専門職のくせに解決策が分からないのか、と馬鹿にされるのではないか。」「機関の責任が問われるのではないか。」理由は色々あるのでしょうが、共通しているのは不安の原因は支援者の中にあるということです。焦った支援者はどうしても無理やり事態を動かそうとします。最初に述べたように、あせってやったことは絶対上手く行きません。これだけは自信を持って言えます。そして、支援者との信頼関係を断ち切った相談者はますます「難ケース」になっていきます。4.難ケースの解決法上記の類型から、解決法をまとめると以下のようになるでしょう。難ケースを解決する方法は、(1)情報取集をきっちりやり直す。 (2)腰を引かない。 (3)自分の気持ちと向き合う。 (4)積極的に待つ。 ということでしょうか。 このうち(3)と(4)について、もう少し書いてみます。 5.自分の気持ちと向き合う自分の気持ちと向き合うのは難しい。特に「怒り」は曲者です。「仮面の怒り」というのは森田ゆり氏の著作から学んだものですが、人間は自分の負の感情の多くをそのまま表現することは少なく、なぜか「怒り」という仮面を被って現れる、というのです。背後にある負の感情は様々で、「不安」「心配」「恐怖」「嫉妬」「欲望」「恥」「悲しさ」「寂しさ」等々。迷子になっていた子どもと再会したお母さんが、喜んで飛びついて来た子ども横面をいきなりひっぱたきました。お母さんはとても心配だったのです。「お母さんはとっても心配してたんだよ」と言えば良かったのですが、その「心配」は「怒り」の仮面を被って現れてしまいました。 前述したように、支援者といえども自分の感情に支配されがちです。対応の中で腹を立てることもままあります。しかし、相手に正当な「怒り」を感じるような場面はほとんどないはずです。多くは仮面を被っています。しかし、「怒り」が「怒り」のままでは感情に振り回されてしまいます。自分の気持ちと向き合うためには一旦立ち止まって、その「怒り」の仮面の裏側にある正体は何なのかを考えなければいけません。自分の中の何かに、相談者も意図しない何かが触れているのでしょう。その正体に気付くだけでも、随分気持ちに余裕ができるのではないでしょうか。 6.積極的に待つ「今はどうしようもないから時期が来るのを待ちましょう。」と提案すると、「どれぐらい待てばいいのですか?」と訊かれます。私は「とりあえず20年」と答えます。相手は呆れますが、これは経験則によるものです。かつて担当した、取りつく島が無いと思った重度障害ケースに20年ぶりに再会し、そこから新たな展開につながったという経験です。まあ放っておいても、20年も経てば家族や本人の状況に変化は起きるものですから、不思議ではないのですが。ただ、半年や1年というスパンでは、待っていても支援者の焦りは収まりません。どうしても焦って無理筋に手を出してしまいがちです。ですから、思い切って期間を長く設定します。もちろんその間放っておくのではなく、目は離さないというスタンスです。待つというのはただ手をこまねいているというイメージではなく、無尽蔵の社会資源である時間を積極的に湯水のごとく注ぎ込んでいる、と考えてはどうでしょうか。いつかは相談者の中にある力が、なにかと出会って動き出す時が来る。そのことへの信頼を大切にしたいものです。 (註) この「安心より信頼」というフレーズは、朝日新聞(2022年1月1日)の対談「狩りとケアから考える」の中の、「不確実性やリスクのない『安心』ではなく、不確実性があるけれど『信頼』する」から借用しました。「生徒への信頼より校則による安心」「隣人への信頼より財産による安心」「隣国への信頼よりミサイルによる安心」。今の社会を考えるキーワードでもあるような気がします。 目次へP> |