この稿は2021年11月に書きました。このホームページを整理するのをきっかけに、かねてから考えていたことを文章にしてみようと思いました。   


「障害」と「障がい」


 「障害」を「障がい」と表記することが目立つようになって久しくなります。私が以前勤めていた自治体でも、市長が交代すると、市長の一声で「障がい」と表記するようになりました。そのおかげで、制度名は「障害」、それ以外は「障がい」と表記する等、ややこしいことになっています。でも、私は今でも「障害」と書くことに拘っています。「障がい」と書こうとするとパソコンの返還が面倒くさい、ということもあるのですが、もう少し深い理由もあるのです。もう語りつくされた話なのかもしれませんが、改めて私の考えを書いておきたいと思います。

 私が「障がい」と書かない理由は大きく三つあります。
 一つ目は、実質的に意味が無い、ということです。「耳で聞いたら同じ」とおっしゃる方もおられます。私も書き換えにどういう意味があるのか分かりません。
 ところが、あちこちで「障がい」が使われるようになると、「意味は無いと思うけれど、皆が使うから何となく合わせておこう」という同調圧力が生じます。これは非常に気味の悪いことです。特に最近の日本社会ではなおさらです。嘘やごまかしや法律違反がまかり通る現状を見ていると、なんとなく合わせることの危うさを強く感じます。自分のかすかな感覚に耳を澄ませて、おかしいと思うことは躊躇せず主張する、これはとても大切なことだと思います。これが、「障がい」に組しない二つ目の理由です。
 そして三つ目。これが最大の理由なのですが、私は「障がい」という表記に、支援者の手抜きを感じてしまうのです。
 私も良くは知らないので、誤解があれば申し訳ないのですが、「障害」を「障がい」と書くようになったそもそものきっかけは、ある当事者が「害の字は自分が害だと言われているようで嫌だ」と言ったことだと聞いています。
 もしそうなら、それを聞いた支援者はその時、どうして「障」の字も問題にしなかったのでしょうか。「障」も「さわり」ですから、決して価値中立な字ではありません。私だったら、「害がダメなら障もダメだから、『しょうがい』と全部ひらがなじゃないとだめだね」とか、「障害というのは、ハンディを負った人が生きていく時、社会で出会う様々な不利益のことを言っているので、決してあなた自身が害だと言っているのではないと思うよ」とか言ったと思います。障害の「害」の字だけを問題にしたのは、その当事者が「障」の字の意味を知らなかっただけではないか、と想像しています。
 当事者の判断や決定を尊重すべし、というのは当然です。「リスクを犯す権利」というのも良く分かります。ただし、それは当事者の判断力が十全であることが前提だと思います。その時の支援者の役割は、正確で十分な情報の提供と整理と補足的な支援。そして支援者なりの見通しを伝えることです。その上で当事者が判断する。ところが、そもそも知的障害とはその判断力自体の障害です。当事者の判断力に課題がある時、支援者は当事者の判断を尊重する、という一本槍で許されるのでしょうか。
 昔、知的障害者福祉の世界の先達が講演の中で、「知的障害者の人権保障と人権侵害は紙一重だ」と話しておられました。そして聴いていた方の多くが頷いておられました。私の経験でも、面接で当事者を泣かせたことがあります。決して褒められたことではないですが、この場面でこちらが妥協するのは当事者にとって利益にならない、と信じたからです。それが本当に当事者に良かったのかどうかは分かりませんが、その場面を安易にやり過ごさなかったことは支援者としての責任だったと思っています。
 最近は、意思決定支援等というそれらしい言葉が出回っていますが、その内実を突き詰めることが疎かにされてきたような気がしています。知的障害のある人が崖に向かって駆けだしたら、支援者は「自分で決めたのだから」と傍観することは許されません。追いかけて行って前に回って立ちふさがるでしょう。それでも立ち止まらなかったら、一緒に走り続けながら説得を続けるでしょう。それでも止まらなかったら・・・。知的障害者支援には常にそんな緊張感が伴っていると思います。ですから、「障がい」という表記を見るたびに、「安易すぎないか」という懸念を感じるのです。



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