江波じょうじ

 

「トップ屋ジョー」単行本の口絵イラスト    江波じょうじ氏   

貸し本屋(分かるかな?)向け単行本の中で「トップ屋ジョー」シリーズは
当時、さいとうたかを氏の「台風五郎」シリーズと並んで、人気があった。
実は、まだ中学生の頃にファンレターを出したら返事が来て、手紙と一緒に
原画が1ページ入っていた(驚)後で知ったのだが、単行本の出版社から本を
郵送で購入すると、サービスで原画を付けてくれたりしたらしい…なんとまあ
おおらかな時代だったことか! それで原画が残っていない事が多い訳だ…。
出版元「ひばり書房」は小石川のご近所だが、今は紙屋さんに変わっている。

手塚治虫氏の影響を深く受けた…という、氏の若い頃の原稿を見た事がある。
なるほど…と思わせるキャラクターが、ソックリな絵柄で走りまわっていた。

江波氏は独学で漫画を描き、昭和34年に「トップ屋ジョー」(ひばり書房)を発表。
代表作となる。貸し本屋向けの単行本で活躍した。後に週刊少年サンデーに野球漫画
「稲妻エース」を連載する。27歳で青年誌(トップコミック)に「ザ・テロル」を発表。
少年マガジンの連載「パピヨン」(マックイーンの映画の原作の漫画化)は連載当初
5週の予定で始まったものだが、人気が出たため長期連載となった。
他に「警察拳銃」(原作滝沢解)や、南波健二氏と組んだ大仙プロの作品「氷河民族」
がある。一時期、小島剛夕氏らと組んで仕事していたこともあった…。趣味は草野球。
現在は、専門学校の漫画の講師を務めている。

オレがアシスタントに入って、手伝っていたのは「パピヨン」の頃で、みやわき心太郎氏や
ながやす巧氏などが、助っ人として呼ばれていた。彼らに教えてもらいながら、背景の岩や
波ばかり描いていたような気がする…。他にも、月刊で小池一夫原作の「東京ムラマサ」や
週刊漫画アクションで「国際軍事法廷」などを描いていて、かなりハードなスケジュールが
続いていた…。コタツで寝て起きるとそのまま原稿用紙に向かうという状態で、食事時間の
移動だけが運動…そんな生活をくり返している内に、半年でオレの体調はおかしくなった。
若かったとはいえ、無茶な生活をしていたと思う。当然といえば当然の結果だ。


アシスタント時代のオレ       江波さんの娘さんと近所の子

忙しい仕事量の割に、常勤のアシスタントは2人しかいなかったので、オレが富士見台の
アパートに帰るのは、月にせいぜい2〜3回だったと思う。ところで、先輩アシスタントで
すれ違いに辞めていった菅谷くんは、実は
すがやみつる氏だったと…後になって知った。
宮谷一彦風の細かいタッチで描かれた絵は、その後の彼の絵とはまるで筆致が違っていて
10年後に、ある漫画家のところで出会うまで同じ人物とは思わなかったのだ。(失礼!)

あまりにも忙し過ぎて細かい事は忘れてしまったが…、ある日オレは、食事係のバイトに
来ていた18才の女性と、そこで知り合い…、その5年後に彼女と結婚した。

当時の江波氏と  友人の中山蛙

この頃、友人の中山 蛙は「猪まんがスタジオ」で働いていたが、日曜日は休みだったので  
仕上げ要員として、お呼びがかかる事もあった。そういう時は「夜食のおにぎり、あるよ。」
と声をかければ、たいてい来てくれた。渋る時は…「サイフォンで入れたコーヒーもある!」
そう言ってダメ押しをした。みんな若くて時間があり、なにより…ハラが減っていたのだ。 

ある日の深夜、蛙のアパートで仲間が集まっていた時、誰からともなく「腹がへったなあ…」
と言い出した。今みたいに、24時間営業のコンビニなど無い時代の話である…。それに第一 
みんな大して金など持っていない。(オレ自身は、30年間ずーっと似たような状態だが…) 

「その先の畑にダイコンがあったんじゃないか?」「ニンジンも放ったらかしだったぞ…。」
「もう何でもいいから食いたい!」 それを食おう!と話が決まって、オレたちはダイコンを
夜の夜中に取りに出かけた…忍び足で。今にして思えば野菜ドロボーは立派な犯罪である。
しかし…農地のほうが宅地より税金が安いからと、作った野菜を放っておいて腐らせるのも
ムダというものだろう。オレたちは、そのムダになる野菜を…有益にいただいたのだった。

調味料というものを使った事がなかったオレは、ダイコンを煮て、醤油だけで味付けした。
しかし、これがウマかったのだ!この時は。腹がふくれてから、後で食ってみたら…なんと
マズイ!同じダイコンかと思うほどマズイ。あの頃は、料理の仕方をまるで知らなかった。
手塚先生に頼まれて作った夜食のインスタントラーメンは、まともな味に出来たと思うが?
作る時、ほんのちょっとラードを入れたらインスタントとは思えない味になる…なんて事を
友人の石原に教えてもらったのは、ずっと後になってからのことだった。

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