◆ さよならのファーストキス ◆




 公園でその情景を目撃したとき、正直言って拓也は、嘘だろと思った。
 愛犬のヨークシャーテリア、ミゴンの散歩に行った先でのことだ。
 楽しげに駆け回るミゴンを突っ立って眺めていたら、茂みの奥のベンチのほうから聞こえてきた、聞き覚えのある声。
 今日も学校で聞いたばかりの、担任の横田先生の声だった。
 なんだか口調がとても真剣な感じだったから、拓也は見つからないように、そっと茂みからベンチを覗いてみた。
 そこで、目に入ったもの。
「君が嫌なのも、充分わかってるつもりだけど……頼むよ」
 なんて。ちょっと情けない声で先生に話しかけられて、俯いているのは――
「ね、真衣ちゃん」
 拓也とつき合っているはずの、真衣だった。
「僕も努力してるんだよ。君の気持ちも無視したくないけど……」
「……」
「ね、きっと幸せにしてみせるから。僕を認めてくれよ」
 ……会話を聞く限り、どう考えたって先生が真衣を口説いているようにしか見えなかった。
 並んで座った二人から目が離せないまま、拓也はもう一度、嘘だろ、と思う。
 どうして先生が、生徒の真衣を口説かなくちゃならないんだ。
 先生は今年で三十三才で、真衣はまだ小学六年生で、二十一才の年の差は、かなり大きすぎる気がした。第一、どうして真衣はきっぱり断らずに、黙っているんだろう。真衣は拓也のことが好きなはずなのに。
 告白は去年のバレンタインデーだった。真衣がチョコレートをくれて、それからつき合うようになって(もちろん、恥ずかしいから友達には内緒だけれど)。明日でちょうど一年だ。ちょっとしたケンカを何度かしたくらいで、特に大きなトラブルもなく、楽しくやってきたはずだった。ついさっきだって真衣から電話があって、明日チョコを渡すときの約束をしたばかりなのだ。
「お願いだよ、真衣ちゃん」
 人のオンナを気安く名前で呼ぶな、と拓也は隠れながら思う。
 先生はいつだって生徒のことは名字で呼ぶし、拓也だって真衣を名前で呼んだことはまだ一度もないのだ。
 なのに――
 駆け回っていたはずのミゴンが、足元をすり抜けてベンチのほうへ飛び出していってしまったのは、そのときだった。
 慌ててとめようとしたけれど、間に合わなかった。
 時々家に遊びにくる真衣に、ミゴンはとても懐いている。匂いをかぎつけてしまったのだろう。
「ミゴン……」
 真衣が驚いたようにミゴンを見つめ、それからはっとしたようにこちらを振り向いた。
 見つかってしまった以上、隠れていても仕方がないので、拓也は茂みから出た。
「住吉?」
 先生が、目を丸くして拓也を見つめた。
「なんでこんなところにいるんだ?」
「犬の散歩。俺んち、すぐそこだもん」
 とりつくろってそう答え、先生たちこそ何やってんの、と拓也は逆に問い返した。
 先生は、あからさまに気まずそうな顔になった。
「あ、いや……たいしたことじゃないんだ。な、坂木田」
 助けを求めるようにして、真衣を見下ろす先生。真衣は、目を逸らして答えない。
「じゃ、じゃあ先生はもう帰るかな」
 ばつが悪そうな顔をしたまま、とってつけたようにミゴンの頭を撫でてから、先生はベンチを立った。
「また明日、学校でな。……坂木田、このことは誰にも言っちゃだめだぞ」
「……わかってます」
 結局先生は、真衣と目を合わせないままに、あたふたと公園を出ていた。
「……」
 真衣が、何も言わずにミゴンを抱いてベンチに座ったままでいるから、拓也も隣りに腰を下ろした。
「……先生と、何話してたの?」
 真衣は目を伏せたまま、答えなかった。
 ミゴンの額に頬擦りをしながら黙っている。拓也はその態度に、ちょっとむっとする。
「俺に、言えないようなことなわけ?」
「……そんなんじゃないよ」
 低い声で、そうぽつりと返ってくる。
「じゃあ、何だよ」
「今はまだ、言えないの」
 きっぱりとした口調だった。真衣は頑固なところがあるから、こうなったら聞き出すのは難しい。
 どう話をもっていこうかと思っていると、ふいに真衣が立ち上がって、拓也の腕の中にミゴンを押しつけてきた。
「あたし、もう帰るや」
「は? ちょっと待てよ、まだ話……」
「じゃあね。また明日」
「坂木田!」
 拓也の呼び止める声にも振り返らず、真衣は公園を駆け去ってしまった。
「なんなんだよ……」
 思わずそう呟いたら、自分に話しかけられたと思ったのか、腕の中でミゴンがひゃん、と鳴いた。



「俺の彼女、先生とつき合ってんのかもしれない」
 夕食の後。勉強中だからと嫌な顔をする兄の部屋に無理やり入り込んで、拓也はそう切り出した。
 英語ばかりの並んだ参考書みたいのを広げようとしていた兄は、その言葉に振り返って、思いきり怪訝そうに眉をひそめた。
「何だよ、それ」
「俺のオンナの、坂木田っていんじゃん。あいつとさ、先生が一緒にいるとこ見ちゃった。公園で」
「それが何でつき合ってるってことになるわけ?」
 聞き返してくる兄は、実に面倒臭そうだ。大学受験を来年に控えて忙しい兄だから、邪魔をして申し訳ないとは思うけれど、誰かに相談しないと落ち着かなかった。
「なんかさ、変な話してんの。きっと幸せにする、とか。先生のくせに名前で呼んでたし。……援助交際とかだったら、どうしよう」
「小学生のガキ相手にか?」
 俺だったら絶対ごめんだよ、と吐き出すように言いながら、兄は机に向き直る。
「何か違う話が、そういうふうにたまたま聞こえたんだろ」
「でも、何話してたのかって訊いても、答えないんだぜ?」
 言葉を重ねる拓也に、兄はうんざりしたような顔を向けてくる。
「大人が子供なんか相手にするかよ、ばかばかしい」
 結局、きちんと話を聞いてもらえないまま、兄に部屋を追い出されてしまった。
 まだもやもやした気持ちのまま、拓也は仕方なく部屋に戻った。



 翌日は学校で、何度か話をする機会があったにも関わらず、真衣とは一度も話をしなかった。
 どんな顔をすればいいのかわからなかったからだ。
 先生はさすが大人という感じで何もなかったような顔をしていたけれど、真衣はやっぱりどこか態度がぎこちなかった。
 授業中、何度か真衣の物言いたげな視線を感じた。
 今日の夕方の約束はどうなるんだろうと、拓也は内心少し心配だった。
 学校にチョコは持ってきてはいけないし、友達に見られたら恥ずかしいから、と学校が終わってから公園で会う約束をしているのだ。
「住吉」
 結局うやむやのうちに、帰りの時間になってしまった。けれど、教科書をランドセルに放り込んでいたら、真衣が机のすぐそばまでやってきた。
「……公園で待ってるからね」



 ランドセルを置いたあと、拓也はすぐにミゴンの散歩もかねて公園に行った。
 本当は一人で行くつもりだったのだけれど、会話が途切れてしまったときに、こいつがいたほうが助かるかもしれないと思って、連れてきた。
 ミゴンの短い足の歩調に合わせて公園まで来ると、もう真衣は先に来て、昨日のベンチに座っていた。
 膝には、ピンクと赤の縞模様のリボンでしばった包みが乗せられている。
「坂木田」
 呼びかけてから、ミゴンを遊ばせたまま拓也は隣りに座った。
「はい、チョコ」
 沈んだ顔をしていた真衣だったけれど、拓也を見ると笑顔になって、チョコを渡してくれた。
「サンキュ」
「今年も手作り。特大だよ」
 去年もらった、やたらと大きなハート型のチョコレートのことを思い出して、拓也は思わず笑った。
 女の子からチョコをもらうのは、そのときが生まれて初めてだった。しかも手作り。縦横それぞれ三十センチくらいありそうなハートの真ん中に、白い文字で「すき」なんて書いてあったのだ。
「前のやつ、すげー食べるの苦労したんだよなー……」
「そしたら、家族で食べるとかカレーに入れるとかしてよ。ミゴンにあげるとかさ。捨てるなんてなしだよ」
「捨てるかよ、ばか」
 名前を呼ばれたと思ったのか、ミゴンがふんふん近寄ってくる。
 真衣はくすっと笑ってその頭を撫でた。
 それからふと唐突に、「あのね」と話を切り出し始めた。
「あたしのお母さんね、横田先生と結婚するの」
「……え?」
 思わず真衣を見ると、真衣は目を伏せてまだミゴンを撫でていた。
「昨日の話ってそれ。……まだ誰にも内緒にしておけって言われてたんだけど、住吉だけならいいって、許してもらったの。そのかわり、誰にも言わないでね」
「……お母さん、とか。なんだ」
 思わず安堵の溜め息をついてしまった。
 心配して損した。それならあの話の内容だって、なんとなく納得が行く。
 真衣のお母さんが何年か前に離婚して、ずっと母子家庭だったことを拓也は思い出した。
 夕飯のお使いをする真衣に、つき合ったことが何度かある。スーパーの中を二人で歩くのは、なんだか夫婦みたいでちょっと照れくさかったりした。
 安心した顔の拓也を見て少し笑った真衣は、それからまた笑いを消して俯いた。
「でね、……あたし、卒業したら引っ越すの」
 一瞬、何を言われたのかわからなかった。
 不安を取り除かれた頭は、ひどく無防備な状態になっていたから、意味を把握するのに時間がかかった。
「引越し……?」
「横田先生、来年度から新潟の学校行くんだって。だから、うちの家族みんなでついてって、一緒に暮らすの」
「何……だよ、それ」
「もう決まっちゃってるみたい」
「俺、やだぜ、そんなの」
「……あたしだってやだよ」
 ミゴンを抱き上げて膝に乗せながら、真衣は呟くように言う。
「だって、新潟なんて……そんな、もう会えないじゃん」
「仕方ないでしょ。子供のあたしじゃ、そんなのどうにもできないよ。今までずっと反対してたけど、あたし……あたしやっぱり、お母さんにだって幸せになってほしいもん」
 大人みたいなことを言う真衣が、なんだか拓也は許せなかった。
 真衣は優しいし、お母さんのことをすごく大切にしているから、そう考えてしまうのはわかる。でも、そんなことを言ってほしくなかった。
 それじゃあお母さんだけが大切で、拓也と会えなくなることなんてどうでもいいみたいだ。
「やだからな、俺」
「住吉……」
「絶対やだからな!」
 真衣の腕の中からミゴンを取り上げ、持ったままだったチョコの包みを真衣に向かって投げつけた。
 音にびっくりしたミゴンがきゃんきゃん吠えるのにも構わずに、公園を全速力で走り出た。
 卒業式まであと一ヶ月しかないのに、それで真衣とお別れなんて絶対に嫌だった。



「ばかじゃないの、おまえ」
 今日の出来事を語って聞かせたあとの、兄の返事がそれだった。
 心底から呆れた言葉。信じられないという顔つきで。
 どうなったか聞かせろというから話してやったのに、あんまりな答えだったから、拓也は兄の座っている椅子を思いきり蹴飛ばしてやった。
「兄貴には関係ないだろっ」
「だっておまえ、それ……彼女の気持ち、全然考えてないじゃん。女ってのは、常に気かけててやんないと、すぐ愛想つかすんだぜ?」
 昨日とはうってかわった態度に、また腹が立つ。今日、模試が一つ片付いたとか言っていたから、たぶんそのせいだ。
「兄貴に女のこと言われたくねーよ。ばっかくさい彼女に遊ばれてるくせに」
「あれは、遊ばせてやってんの。あれでけっこうかわいいんだよ、扱いさえ間違えなきゃ」
「自分の彼女、道具みたいに言うなよっ」
「おまえだって同じじゃん。彼女の気持ちなんて考えてないんだから」
「俺はあいつのこと、道具だなんて思ってない!」
 むしゃくしゃきたから、もう一度椅子を蹴ってから、拓也は兄の部屋を出た。ことさら激しくドアを閉めてやる。
「拓也!」
 自分の部屋に戻ろうとしたところで、居間から出てきた母親に呼び止められた。
「これ、郵便受けに入ってたわよ。あんたのでしょ」
 差し出されたのは、包み。ピンクと赤の縞模様のリボンがかかった。
 リボンの隙間に、パンダの柄のメモが挟んであった。小さな文字で一言。
『ごめんね。   ――真衣』
「真衣ちゃんと、何かあったの?」
 心配なんだか興味なんだかよくわからない顔で(たぶん両方だろう)母親が訊いてくる。
「何でもいいだろ!」
 それだけ言って、拓也は部屋に駆け戻った。
「……」
 包みを開けてみて、割れてしまったチョコが寂しかった。壊れてしまった「すき」の文字。
「何やってんだろ、俺……」
 チョコの小さな一かけを口に放り込んで、拓也は溜め息をついた。
 甘い甘い香りに、真衣の俯いた顔が頭をよぎった。
 泣きそうな顔だった――



 次の日に学校へ行って驚いたのは、真衣が真っ赤に泣き腫らした目をしていたことだった。
 泣いたんだろうか。それもかなり。俺のせいで……?
 教室では声をかけられないままに授業は終わり、拓也は思いきって帰りに真衣を誘ってみた。
 無言のまま真衣は頷いて、公園までついてきた。
 ベンチに並んで座って、ランドセルを下ろして。
「昨日……、ごめんな」
 拓也はそう単刀直入に切り出した。
「俺、なんかすごいびっくりしちゃってさ……坂木田が悪いんじゃないのに」
「ううん、いいの」
 真衣は首を横に振った。
「それで泣いたんじゃないから」
「え……」
「住吉は、話せば絶対わかってくれると思ったから、それはそんなに悲しくなかったの」
 消え入りそうな声で言った真衣の瞳から、ふっと一粒涙が零れた。
「あ、……な、泣くなよ」
 目の前で泣かれたことなんて初めてで、拓也はおろおろする。
「昨日ね、引っ越すなんてやだって言ってみたの。あたしだけでもここに残りたいって。でも……だめだった。許してね、って、お母さんに先に泣かれちゃった」
 真衣は、ハンカチを出して泣きじゃくる。どうしていいかわからなくて、拓也は一生懸命言葉を探す。
「だ、大丈夫だよ。いろいろあるじゃん、電話とか手紙とか。夏休みとかに会えるし」
「でも……」
「俺、ずっと坂木田のこと、……好きだからさ」
「……」
 口にするのは初めてで恥ずかしくて、俯きながらそう言ったら、真衣は驚いたように真っ赤な目を上げて拓也を見た。それから少し嬉しそうに笑う。
 けれど、またすぐに目を伏せる。
「でもあたし、『坂木田』でもなくなっちゃうんだよ」
「ちょうどいいじゃん」
 恥ずかしついでだ、と思って、拓也は真衣の手を軽く握ってみた。
「俺、ずっと名前で呼びたかったんだ。……真衣、って」
「住吉……」
 真衣はしばらく拓也をまじまじと見つめていた。
 やがて拓也の手にもう片方の手を重ね、涙を拭いて。それから――笑顔になった。
「あたしも、ずっとそう呼んで欲しかった。……拓也に」



 それから卒業までは、本当にあっという間だった。
 残りの時間は思い出をめいっぱい作ろうと約束して、毎日どこかへ遊びにいった。
 前に一度だけグループで行ったことのあるディズニーランドにも、二人きりで行った。暗くなる前に帰れという言いつけを破って、夜のパレードまで見ていき、それぞれ家で怒られたり。
 楽しい時間は、本当に本当にあっという間だった。
「ね、これ」
 卒業式の後。服のせいでいつもより大人っぽく見える真衣が、卒業証書の入った筒を拓也に差し出してきた。
「交換して持ってない? ずっと忘れないように」
「……いいのか? ばれたら怒られるんじゃん」
「ばれなきゃいいじゃない」
 いたずらっぽい顔で言われ、拓也はそれもそうだな、と笑って自分の証書を真衣に渡した。
「写真撮ろ、写真」
 お母さんに頼んで、二人の写真を飽きるほどに撮ってもらった。拓也のと真衣のと二つのカメラで、二人分撮った。
「……会えなくなっても、大丈夫だよね、あたしたち」
「信用しろよ」
「……絶対忘れないように、おまじないしてもいい?」
「おまじない?」
 聞き返した声に返ってきたのは、言葉ではなくて――真衣からの、小さなキスだった。