1999/077

ある修道士の話

「不朽体」の中に記述したアトスの修道士の話について次に原文を掲載する。漢字、送り仮名などについてはできるだけ変えないようにしているが、現在普及しているものやコンピュータの事情に合わせて多少の変更をした場合もある。
トボリスク市府主教成聖者イオアン原著
日本修士アントニイ抄訳
「ひまわり」第三編 神の聖旨を実行する事に因って生ずる善き結果について より抜粋

(略)確信を置くに足る教会の一著述家の書に、一人の修道士のことが書いてある。この修道士の衣に触れたのみで幾多の病者が全快したのであった。其の為に病人等は彼を非常に尊敬するようになった。然るに同輩の修士からは彼は疑惑の目を以って見られていた。彼は普通の修道士等と別に異なった生活をして居たのでもなく、特別に厳格な苦行をして目立つ事もなかったのである。然るにこの修士によって病者が奇跡的に医されることが少なからず不思議に思われていたのであった。彼の生活の規則として固く守っていた事は、神の聖旨に全然委託して何事にも心を誘われないことであった。他の言を以って言えば物事に偏する事がなかったのであった。彼は何事に遭遇しても皆心よくこれを甘受した。ある日のこと、彼がまた何の薬も用いないで病人を全快させたので、修道院長は非常に不思議がってその理由を尋ねた。
修道士は院長の問いに対して「私も自分でどうして私が病人を回復させることが出来るのか驚いております。私の衣がそんな力を持っております事が私にも恥ずかしくなって来ます。私には神様からこんな恩寵を頂く功はありません。斎の事でも其の他の修道生活の苦行に就いてもやっと他の兄弟達と同様な生活をして居る位の事で、少しでも勝れた所は決してないのですから」と答えた。「本当にお前の言う通りだ」と修道院長は答えた。「お前は普通の人間で、他の人以上に特別な何物かを有して居る者とは思われない」然し修道院長は彼の隠れた徳、彼の心の容子を精しく知りたいと思って種々な事を彼に質問したのである。幾多の答の中に修士は次の様に答えた。「私は神様が私に与えて下さった一つの恩寵の事を思い起こしました。私は神様の恩寵によって神の聖旨に何時も適う様にしております。神の聖旨に反対するように思った事もありません。私は頭を痛めたり心を悲しませる様な不幸な事件が起こりましても、誰にも泣き言を言った事も、悲しみを告げた事もありません。又私の為に愉快な幸運な日が有っても、其の為に特別に他の日より以上に楽しんだ事もありません。私は神様の御手から下さるものは何でも同じ様な心持で受けます。不幸も幸福も同じく受けます。何でも私の希望通りになる事を祈らないで、総てが神様の聖旨の通りになります様に祈ります。ですから私を特別に楽しましめる事もなければ、特別に憂愁を催したり心を乱すような事もありません。神様の聖旨のほかに私を幸福にする物は何もありません。故に私は唯私の上のみならず、他の総ての造物の上に神の聖旨の如くならんことを私は唯祈っております。」
修道長はこの話を肯きながら聴いていたが更に彼に問を発した。「愛すべき兄弟よ、昨日の我が修道院の火災の時の心持は如何であったか私に話してください。悪人が修道院に放火したので、家畜小屋と物置が全焼して沢山の家畜と小麦が焼却して無くなったが、お前一人私共と共に悲しまなかったのですか」これに対する修道士の答は次の様であった。
「聖なる神父様、私は今度の修道院の損失についても少しも悲しみませんでした。貴方は私のこの返事を不思議にお思いになるでしょうが、私は悲しい事でも楽しい事でも同じ様に神様に感謝する習慣を持っております。神様がその聖なる御旨によって御許しなさる出来事は必ず私共の為に利益になる事であると固く信じておりますから、私はどちらに遭遇致しましても心の平安を失いません。修道院の食料として物置に沢山小麦がなければならないか、それとも少なくてよいか、私は心配致しません。神様は必ず私共を養ってくださいます。一片のパンで一個のパンの如く私共を飽かしてくださる事も出来ると信じておりますから、失望致しません。楽しい希望に満ちて何の心配もなく自分の生活を送っております。」修道院長はこの答に反対した。そうして色々の事をこの修士に尋ねて彼の考え方や論法からその心の様子を研究された。修道院長の幾多の質問に対する修士の答の中から特に読者の注意を促したいのがある。
「私は毎日自分を神様に献じてしまうような気持ちで生活しておりますが、その為に全く神の御旨に従順であることが出来るよう進歩したように思います。もし神様が私を地獄に当時給う事であるならば、私はこれに反対致しません。若し「天に在す」の祈祷一つで神様のこの定めを変更する事が出来ましても、私は敢えて神様の御旨を変えようとは思いません。私は反って神様が私の上に其の聖にして義なる旨のままに行い給う事を望みます。そして私には永遠に続く長い間、忍耐する事の出来る力を与え給わん事を祈ります。神様の御旨に逆らうというような事は私の念頭には絶対に浮かばないように私は祈ります。」
修道院長はこの答を聴いて驚いた。化石の様に物も云えなかった。二人の沈黙は暫時の間続いたが、やがて院長は静かに口を開き、修道士を慰め安らかに其の庵に帰らしめた。
「愛すべき兄弟よ、お帰りなさい。神父よお帰りなさいそうして貴方が私に告白したように、神様に其の通り実行する事を熱心につとめなさい。貴方は実に幸福な人だ。天国の外に天国を見出した人だ。こんな恩寵は神様から極小数の人に与えられるものです。何事も其の人を憤激させる事も悲しませる事も出来ないような人はこの世に沢山見つからないものです。何事が起こってもそれを神様の御手から遣わされた物として受ける人は堅固な城壁に囲まれている様に多難なる生涯を平安に送る事が出来る人です。」
修道院長は相手の修士が帰ってから彼の談話に感激もし、驚きもしたのであった。落ち着いて考えていたが、やがて独り言のように言われた。「我々は彼を今まで嘲笑したり軽蔑したりしていたが、今初めてこの人に神の特別な恩寵が与えられて、病者を医すことのできる事を理解する事が出来た。神様が彼の様に神の愛を絶対に信頼して全く彼に己を託して安心している人を地獄に投ずると言う事は考える事すら出来ない事である。神の無限の愛と矛盾する様な事を神が許し給う事は絶対にない。この人の辿っている道は、遠道でも不便な道でもない。霊(たましいpsyche)の平安を獲べき最も確実な頼りになる道である。彼の為には隠遁者の様に野の苦行や厳格な斎も、徹夜の醒々も必要ではない。神の聖旨に絶対に信服している事が総ての苦行の代りになっている。我々も彼の様に神の御旨に従順でありたいものだ。この希望を毎日新しくして心に持たなくてはならない。我々が欲しないから出来ないのであり、望まないから不可能の事のように思われるが、聖金口イオアンの言にもあるではないか、「望むこと、欲する事は総ての事に勝って力を生ずる。望まない事は出来る事でも出来ない事にしてしまう。吾等が何事かを実行し得ない唯一の原因は「望まない」と言うことである。「望む」と言う力は実に偉大なものだ。彼は何事でもなし得る力を我々に与える」そうしてみると我々の弱さは善きことに対してそれを希望する心が弱いからである。薄いからである。」(略)