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藩主系譜(一)

形原松平家歴代藩主の経歴を纏めてみた。

「寛政重修諸家譜」「徳川実記」「形原記」「松平家諸系図」等を参考にした。


初代 與副(ともすけ) 與嗣(ともつぐ)

名前
:彦太郎・太郎兵衛・太郎又兵衛尉
生年
父親:信光公の四男
母親:某氏の女
相続
叙任:右兵衛尉 佐渡守   
致仕
死亡:永正年中十二月二十一日(永正十六年とも)
葬地:形原の光忠寺
法名:玉峯院殿信譽雙元光忠大居士
 :
領地:三河国額田郡中山領で七百貫文
   文明十二年岩津より三河国宝飯郡形原で七百五十貫文
官職
功名・逸話
   形原の光忠寺は與副が開基する。
   一説に弟紀伊守光則(重)の建立で、法林山光忠寺と称す。
   佐渡守與副は信光公の四男(三男)なり。三河国宝飯郡形原に在せしにより、形原の松平とす。
   形原城は稲生城(粧城)(塩城)とも呼ばれ源三河守教頼、下司次郎師光により築かれた。
   家紋は「丸に三葉のむかい葵」「蔦葉」


二代 貞副(さだすけ)

名前
:兵衛太郎
生年
父親
母親:某氏の女
相続
叙任:兵衛大夫
致仕
死亡:享禄四年四月二十六日
葬地:形原の光忠寺
法名:信月院殿光誉順阿喜白大居士
號 :喜白
領地:三河国宝飯郡形原で七百五十貫文
官職
功名・逸話
   母は某氏、大永二年三月十三日卒、法名は萃屋栄春。追福の為円通寺を建てる。


三代 親忠(ちかただ)

名前
:弥太郎・親貞
生年
父親:貞副
母親:某氏の女
相続:永禄五年十二月(1562)
叙任:佐渡守
致仕
死亡:天文十年十月三日(十三日)(1541)
葬地:形原の光忠寺
法名:到運院殿峯誉西岸浄光大居士
號 
領地:三河国宝飯郡形原で七百五十貫文
官職
功名・逸話
   清康公に従、軍功を挙げる。(以後詳細は形原記に記されている)
   天文十年七月 (1541)三河へ帰り、茂呂木城へ移る。此は今川義元のお陰なり。
   天文十年八月二十日 (1541)吉良東条左衛門尉義照を攻撃。この時も二心無く闘う。


四代 家廣(いえひろ)

名前
:佐太郎・又七郎・右近
生年
父親:親忠の長男
母親:某氏の女
相続:永禄五年十二月(1562)
叙任:左近将監
   永禄五年十二月(1562)薩摩守
   佐渡守
室 :水野右衛門大夫忠政の女
致仕
死亡:元龜二年二月二十九日(二十二日)(1571)
葬地:形原の光忠寺
法名:元忠院殿仁誉孝呈道伯大居士
號 
領地:三河国宝飯郡形原で七百五十貫文
官職
功名・逸話
   家康、今川義元の質と成る。家廣も末男左近某を質とする。家廣質を捨て忠義をする。
   永禄六年三月家廣等の質を吉田城より出して舟に乗せ、形原の前の井尾濱に於て皆切り殺し、串刺しに
   する。左近時に十四歳。
   天文四年十二月 (1535)十三歳、父親忠とともに森山に行く。
   天文十一年 (1542)安祥城で砦を築き、岡崎方と闘う。
   天文十一年八月二日 (1542)参州小豆坂で今川義元、織田信秀と挑戦す。広忠公の援を賜う。
   家忠の母於牧は家康公の母於大(傳通院殿)の妹(姉)である。よって家忠と家康は従弟である。
   天文十八年三月六日 (1549)広忠公物故する。家康公はまだ八歳。今川義元の質となる。
   譜代の中には今川へ直参した者も多かったが、家広は形原城で家康公の成人を待っていた。
   弘治元年、家康公が岡崎城へ帰城する。お迎えに駿州に赴く。
   当時の序列は鵜殿康定、西郷定貞、家広である。
   元龜二年家康公、浜松城へ来た後は他姓を座上につけず。故に松平家広、松平伊忠を上座に定める。


五代 家忠(いえただ)

名前
:佐太郎・又七郎
生年:天文十七年、(十六年) (1547) 形原で
父親:家廣
母親:水野右衞門大夫忠政の女
相続
叙任:紀伊守
室 :酒井雅楽頭正親の女
致仕:寛永十二年二月(1635)
死亡:天正十年十月十六日(1582) 三十六歳
葬地:形原の光忠寺
法名:照岳院殿清譽月桂浄雲大居士
號 :露雪
領地:三河国宝飯郡形原で七百五十貫文
官職:永禄十一年(1568)宇津山砦在番
功名・逸話
   永禄七年(1564)家忠(16歳)、三河国吉田城の城主小原肥前守資良を攻めた時、了念寺口砦より攻める。
   永禄十二年(21歳)掛川城を圍む。氏眞と講和が成立、命を賭して氏眞を北条氏の許に送った。
   帰った後は遠江馬伏塚の要害を守る。
   元龜三年十月(1572)、武田信玄が上洛せんとして遠江に来る。
   二股城に援兵として赴いたがすでに堪えられず、和を請い開城していたので家忠も質を交換して帰った。
   元龜三年十二月二十二日(1572)、三方原の合戦には家康に従って参戦、苦戦した。
   天正三年五月(1575)長篠の役には酒井忠次の元で、松平康忠とともに先駆けし鳶巣山の要害を破る。
   その後、武田氏の屬城遠江国小山城を取り、同国小笠山に砦を構えてこれを守る。
   天正十年七月(1582)(本能寺の変)の時、伊賀越、5ヵ国領有。家康が甲斐国(甲州若神子の陣)に入った時
   に討ち入る。
   長男家信とともに酒井忠次の下に属した。
   家忠の母於牧は家康公の母於大(傳通院殿)の妹(姉)である。よって家忠と家康は従弟である。

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