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                                                   平成15年10月末日 改書


◎済海寺 武鑑等で済海寺は「藩主の位牌所」として載せられている。私には直接関係の無い松平さんの墓所である。しかし同じ家紋の墓所なのでお参りをしてきた。
庸倫、道庸が葬られている。その他幾つかの松平さんの墓所でもある。

古い墓所らしく、合葬の墓が二基並んでいた。
新しい塔婆が有った。「松平はな」さんの名で供養されていた。

    
      
済海寺                     庸倫と子孫の墓                      庸倫の墓

港区芝に有る。此処も昔日の面影は無い。
昔日、この寺の隣は松平の広大な下屋敷あった。古地図によると、この寺も現在の倍ぐらいの敷地は有ったようだ。

下屋敷のうち、今の第二京浜国道を挟んで北側(山側)が屋敷で、南側(海側)が蔵屋敷が有った。つまり今の国道のすぐ南側が海で有った。

当時の「済海寺」は地形から判断すると、山の上に有り、海を見下ろしていたようだ。
前にも書いたが、信庸公の時代には此の屋敷が上屋敷であった。屋敷の隣が「済海寺」であれば、信庸公の次男の下野守庸倫が(長男は信岑公)、また遠い従兄弟の道庸が入っていてもおかしくはない。

下野守庸倫の法名は「映得院殿晃誉観水既成」。寶歴11年2月卒。末裔に信寶さんがいる。
下野守庸倫は松平監物庸孝の祖で12代信直公の父親である(信岑公の養子)。

此で大発見? 私の五代前の貞幹さんは信直公の七男で有る。
つまり庸倫は私の六代前の御先祖さんであった。

こんな事ならもう少し真面目にお参りをすればよかった。  (信弘)


◎寛永寺 上野の「寛永寺」はあらゆる面で徳川家の寺で有る。古地図を観ると、当時の寛永寺は広大な敷地を持ち、その中にいくつもの寺院(36寺院)を抱えていた。
慶応4年の上野の戦(彰義隊の戦)でほとんどが焼け落ちた。   (信弘)

◎谷中霊園 寛永寺の管轄の天王寺の墓地を東京府の共同墓地として使ったのが始まり。
徳川慶喜公の墓所を初め、各界の有名人の墓が多い。

形原家に関係ある人物の墓は最後の亀岡藩主松平信正公の奥さんと継室さんと、三人の子供達の墓で有る。

    
     
谷中霊園の墓                   奥さんと継室さんの墓           子供三人の墓

資料も極端に少なく、探すのが大変であった。此の霊園には所謂「松平」さんを名乗る諸家の墓所は9箇所有った。

霊園事務所の話では、大阪在住の忠正さん(信正公の曽孫辺り?)が継いでいるらしいが、墓は荒れていた。

奥さんの法名は「華月院殿香誉和順貞淵大姉」で実家の家紋は「松櫛」。従五位西尾隠岐守忠受の娘。明治十二年二月に24歳で病死している。子供は一人で、名は脩。

継室さんの法名は「貞淳院殿植誉本成維徳大姉」で実家の家紋は「五三の桐」。対馬の正四位宗義和の娘。明治廿一年一月に35歳で病死している。子供は二人で、名は信満と信復。

同じ墓所に小さい墓石が三基並んでいる。それぞれ「大童子」と刻んであるから幼い子供だろう。明治10年12月16日、明治20年1月20日、1月31日、卒となっていた。   (信弘)

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