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松平郷時代 (親氏・康親・信光)
愛知県豊田市松平町のホームページ http://www.tukaerusite.com/navi.cgi?area=4442202
松平の里・観光協会  
http://www.matudaira-sato.com/index.html  

◎松平郷の環境そこは奥三河の深い山中の、田を造る平地もほとんど無い、小盆地である。従って生業を山に求めるしかない。
5万分の1の地図をみると、松平郷には沢連(そうれ)、林添(はやしぞれ)などの地名が見つかる。
ソウレとは焼き畑のことで、奥三河ではこの地名が多いようだ。

また鍛野(たんの)、鍛冶屋(かじや)の地名もある。
親氏が婿入りした太郎左衛門家では、「12人の使用人に12の具足を持たせて山道を開いて人望を集めた」という。
この12の具足とは「くわ、かま、すき、つるはし、まさかり、他」だそうだ。
松平家は当時、鉄製の道具類を管理し、山の人々を組織化して活動せせていたらしい。
                                      (信弘)

◎松平城跡 通例松平館跡、郷敷城跡、松平城山城跡の三館跡をさす。
居館としての松平館は松平町赤原の松平神社境内にあって、松平氏発祥の地と伝えられる。
現存する石垣や水濠は、七代尚栄が関ケ原戦後に築いたといわれ、面積は323.4平方メータ。
戦時用の一名郷敷城とよばれる松平城跡は松平町三斗蒔にあり、面積は732.6平方メータ。
松平館跡の南東500メータ、標高298メータの山頂に本丸跡がある。
応永(1394〜1428)の頃、松平氏初代親氏の築城といわれる。
三代信光の岩津へ進出によって、郷敷城は庶兄信広が支配し、松平太郎左衛門家の基礎をきずいた。
廃城は天文期(1532〜1555)とも文禄期(1592〜1596)ともいわれるが不明。  (豊田市史)

◎松平城跡 別名「郷敷城」とよばれ、標高220メータの山城で本丸は(45坪で二の丸、三の丸の遺構があり幅30メータ)の空壕が200メータ程残存しています。
室町中期ころ松平始祖親氏が築いた天下統一の礎となった城で、三代信光の岩津進出後は、親氏長男信広の居城でありましたが、廃城時期は不明であります。  (豊田市教育委員会)

   
        松平城址                      松平城址

◎初代親氏から二代泰親まで 「三河物語」「松平氏発祥譚」「朝野旧聞襃藁」により集大成されている。
その大要は、松平氏の始祖松平太郎左衛門親氏は源氏新田氏の末裔で、上野の国新田郡得川郷(群馬県新田郡尾島町)が郷里であったが、足利幕府に追われて徳阿弥と称して時宗の遊行僧となり、諸国を流浪して応永(1394〜1427)のころに三河の国に入った。
たまたま連歌の会で加茂郡松平郷(豊田市)の長者松平太郎左衛門信重に認められて同家の長女の婿になった。
還俗して松平太郎左衛門親氏と名乗った。
親氏は武勇に勝れ、隣村林添の藪田源吾を討って、次いで額田郡の中山七名(岡崎市)の地を征服し、松平の館南方の山頂に郷式城(松平城)を築いて本拠地とした。
子の泰親(一説に弟)が跡目を継ぎ、同じく松平太郎左衛門を称した。
この説、は現在では悉く否定されている。三河の山間部松平郷の一小豪族が勢力拡大の過程で造りだしたのが、松平氏の源氏新田末裔説、とみるのが現在の歴史学会の定説である。
親氏、泰親は確実な資料がなく不明確であるが、泰親の子(あるいは甥)信光・益親は「親元日記」「菅浦文書」に出てくるので、始祖たち二代も14世紀末ごろ松平郷を本拠地として、勢力を伸張していたことは事実であろう。
松平郷には松平氏発祥地としての松平館跡、親氏・泰親の菩提寺高月院、郷式城址、親氏縁の妙昌寺(豊田市王滝町)などが市指定文化財として現存している。  (諸資料より)

◎朝日新聞コラムより 昭和63年9月25日
月の名所は各地にある。豊田市の東部、昔でいう三河国松平村もその一つだ。松平の地名は後ろの山の松から出ている。
▼五、六百年前、村の庄屋の太郎左衛門という連歌好きな老人の家に、息子を連れた念仏の僧が招かれた。息子は松平の人に好かれて婿に入って松平のなにがしとなる。
▼彼の家系は代々豪傑を出し、その一人はとうとう岡崎の地へ進出した。入り婿から数えて何代目かの松平元康からの話はだれでも知っている。のちの徳川家康である。家康が偉くなったため旧姓の松平は高貴な感じの姓となり、松平の地もそれなりに有名となった。
▼松平から遠くない東に杉山のある杉平の里(愛知県南設楽郡作手村)がある。
松でも杉でも似たようなものだが、こっちは英雄が出なかったので無名である。日本の姓は大体が土地から出ている。松平よりさらに貴族的な藤原姓も元は英雄鎌足が大和飛鳥川のほとり、藤の多い原っばの家に生まれた偶然に発する。
▼ただし月の名所の点だけは松平が杉平に勝っていた。太郎左衛門は連歌好きの風流人だから、少しは土地の名物を自慢もしたくて諸国放浪の念仏僧を月夜の話し相手に招いたのである。そして閉るい月が僧の息子と庄屋の娘の血を騒がせた。遠い他国の青年と三河の里娘の縁組は結果がよかった。
▼三河の野山をぬらした月光の滴りが、家康に達することで歴史に作用したとするのは空想に偏するだろう。しかし月がほとんど唯一の夜の光源であった昔、眠るに惜しい明るい月夜が人の心を高ぶらせたこと、現代め比ではない。超現実的な「かぐや姫」の話すら生んでいる。予報は雨とつれないが、今宵名月。出ても、曇っても、陛下のご容体を案じて仰ぐ不安な月である。  (朝日新聞)

三代信光から七松平まで 三代信光は岩津城(岡崎城)、大給城、を攻略して、足場を固めた。
文明3年(1471)に安祥城(安城市)を攻めた。以後次々と勢力範囲を広げた。85歳で没しが、48名の子供が居た。
この子達は14松平、18松平と言われる庶家を分立して拡大を図った。 (諸資料より)

◎高月院 正式には本松山高月院といい、浄土宗総本山知恩院の末寺で、徳川氏の祖先・松平家の菩提寺である。
本堂の北西には葵の紋が刻まれた石扉が見えるが、そこは石垣に囲まれた墓所で、中央が初代・親氏、右に2代・康親、左に親忠夫人の墓石が並んでいる。
高月院は貞治6年(1367)、松平郷主・在原信重の庇護を受けて創建されたと伝えられている。
当初は寂靜寺と呼ばれていた。永和2年(1377)本堂、方丈、山門、庫裡などが造られ、高月院となった。
                                                            (諸資料より)

◎産湯の井戸 この井戸については多くの言い伝えがあるが、天文11年(1542)12月26日に、岡崎城で家康が生まれたとき、速馬でこの水を運んで産湯に用いたという記録がある。
松平館跡には七つの井戸が有ったが、この井戸は最も古く、ここに館を構えた当時造られたものである。井戸には石板の蓋が被さり、周囲は石畳で囲われ、石段を降りて水を汲むように出来ている。毎年4月の春祭りには、現在も「お水取り」の神事が行なわれる。        (豊田市役所広報)

   
    松平東照宮  松平館跡                     松平館跡

   
    松平館跡                  松平東照宮  松平館跡
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