関ヶ原以降が戦いだった・・・            

年  号 西  暦 主 な 出 来 事
慶長 5年 1600 6月16日、家康、大阪城より東下7月17日石田三成挙兵。7月19日、秀忠、会津攻めの為江戸城を発す。7月21日真田父子下野犬伏に到着。同日、豊臣氏奉行衆の密使来たる。昌幸・幸村は豊臣方へ信幸は徳川方と決す。25日、家康、小山にて軍議。8月24日、秀忠宇都宮を発し中山道を西上す。9月1日、家康江戸城を発し東海道を西上。9月2日、秀忠、3万8千をもって小諸城に入る。9月5日、上田合戦開始。9月6日、寄せ手徳川軍大敗。9月7日、秀忠小諸に退く。9月13日、秀忠西上の途につく。9月15日関ヶ原の戦い。戦後信幸加増、上田、沼田合わせて九万五千石。信幸、舅本多氏と共に昌幸・幸村の助命に奔走す。昌幸・幸村助命され12月13日高野山に向け上田を発す。細川に短期間閑居、次いで蓮華定院に住まいその後九土山村に居を構える。
慶長 6年 1601 7月24日、幸村長男、大助 出生。 母 正室 大谷氏
慶長 8年 1603 2月12日、家康、征夷大将軍となる。
慶長 9年 1604 幸村三女、阿梅 出生  母 正室 大谷氏
慶長10年 1605 4月16日、秀忠、征夷大将軍となる。
慶長16年 1611 6月4日、昌幸、九度山にて死去。行年74歳。
慶長17年 1612 月、幸村二男 大八 出生。 母 正室 大谷氏
8月、昌幸の侍臣ら一周忌をすませ上田に帰る。
慶長18年 1613 6月3日、昌幸夫人山之手殿、上田で死去
慶長19年 1614 10月1日、家康、豊臣氏追討の陣触を発す。(大阪冬の陣開始) 2日、秀頼、諸国に書を送り大阪城に招く。9日、幸村、九度山を発す。10日、大阪城に入城す。12月4日、東軍、真田丸を攻撃、大敗す。本多正純、幸村招降の使者として叔父真田信尹を送る。12月21日、東西の講和成立。
元和 元年 1615 4月4日、家康駿府を発す。同18日、家康二条城に入る。同21日、秀忠伏見城に入る。大阪夏の陣開始)5月5日、家康河内星田に、秀忠、須奈に着陣。同6日、道明寺の戦い。同日夜、幸村、阿梅を伊達軍の先鋒片倉小十郎重綱に託す。明けて7日戦死す。行年49才。8日大助自刃。行年15才。9日伊達政宗難波を発し、京伊達屋敷に到着。5月20日幸村夫人大谷氏五女あぐりと共に紀州伊那郡で捕らわる。24日家康のもとにおくられる。(その後釈放)。それより先、幸村六女・おかね、七女阿菖蒲、八女名前不詳、二男大八、西村孫之進及び我妻佐渡に守られて片倉氏に保護される。大八、片倉久米助と称し片倉家より食邑千石を分領す。
元和 6年 1620 阿梅、片倉小十郎重綱の室となる。17才
寛永元年 1624 この頃、伊達藩、高野山蓮華定院に「大八君八歳の時京都にて印地打ち観覧中石に当たり他界」との情報を流す。
寛永 9年 1632 幕府使番滝川三九郎、追放さる。罪状の一つに、幸村の五女あぐりを養い蒲生源左衛門の子に娶わせたことがあげられた。
寛永13年 1636 5月24日、伊達政宗没す。忠宗封を襲ぐ。
寛永17年 1640 大八、真田四朗兵衛守信を名乗り仙台藩士に列し、永代召出し二番座の格となす。江戸御番組馬上役となる。幕府、仙台藩に明石内記の召し捕りを命ず。3月13日召捕り。20日、病死。幕府、仙台藩に真田守信の家系調査を命ず。守信、藩に上願し片倉氏に改姓す。
正保 元年 1644 守信、御蔵米を知行に直し給さる。三十六貫文(三百六十石)
慶安 元年 1648 3月、阿梅の方、白石森合に月心院を建立。7月、片倉重長(重綱)月心院に知行五石を寄付す。
慶安 2年 1649 5月18日、幸村夫人大谷氏、京都で死去。
明暦 2年 1656 2月、辰信出生。片倉長七と称す。同月片倉重長、白石当信寺に知行五百一文を寄進。寺紋、六文銭
明暦 3年 1657 12月25日、守信、公義使(留守居役)を仰せつかるが即日免ぜらる。(幕府に対し未だ憚りありという)
万治 元年 1658 7月12日、伊達忠宗死去。9月3日、綱宗、襲封。
万治 2年 1659 3月8日、嗣君亀千代丸(伊達綱村)出生。25日、片倉重長死去、行年77才。6月上旬、守信、田村右京宗良の御目見時服拝領の御礼使として江戸へ上り、14日老中へ御書持参。
万治 3年 1660 7月9日、伊達一門家老連署にて綱宗の隠居願い提出。18日、綱宗、幕府より逼塞命ぜらる。25日、伊達兵部と田村右京に三万石分封す。29日亀千代丸(2才)襲封。
寛文 3年 1663 守信、武頭となる。
寛文 4年 1664 7月18日、片倉定廣室、幸村七女阿菖蒲死去。
寛文 7年 1667 4月22日、仙台目付を仙台城二の丸で饗応。伊東采女・古内源太郎の座順問題。片倉守信・渡辺七兵衛、奉行柴田外記・原田甲斐に対し先例違反につき問いただす。伊達騒動発端
寛文 8年 1668 伊東七十郎・采女・親族罪科に処せらる。
寛文 9年 1669 守信、病気により武頭を辞す。
寛文10年 1670 月晦日、守信死去。行年59才。当進寺に葬る。(墓石上部に一文銭を刻む)9月9日、辰信、家督相続。
寛文11年 1671 辰信、大番士となる。3月27日、原田甲斐、刃傷事件。
寛文12年 1672 辰信、江戸御番馬上役に転ず。
延宝 元年 1673 11月3日、伊達綱基(綱村)、真田信房を主客として饗応す。この時、信房公より辰信に対し懇ろの御意あり。御礼として御広間に参上す。
延宝 3年 1675 辰信、采地切添二貫九十五文加賜。
延宝 8年 1679 綱村公、片倉小十郎の川内屋敷に御成。辰信、親戚衆として御目見。
天和 元年 1681 5月24日、片倉景長死去。行年52才。景長の嫡子三之助政長(村長)16才。親戚衆辰信をもって相続を申し上ぐ。12月8日真田阿梅死去。行年78才。当信寺に葬る。
天和 2年 1682 2月26日、片倉政長家督となって初めて綱村公御成。辰信、親戚衆として拝謁。3月、辰信江戸番を辞す。5月、辰信嫡男、信成出生。
元禄 元年 1688 11月4日、日光山霊廟修復手伝いが仙台藩に下りる。12月7日、辰信、御宮方輪蔵方棟分奉行を命ぜらる。
元禄 3年 1690 6月23日、御宮上棟。御上棟規式。辰信、日光にて再び江戸御番組拝命。7月21日、武頭を命ぜらる。
元禄 4年 1691 12月8日、片倉村長死去。行年26才。嫡男三之助八歳。22日、綱村公御直筆の覚え書きをもって三之助に家督仰せ渡さる。片倉家中一統には、親戚衆片倉辰信が御直筆を読み聞かす。
元禄 6年 1693 3月28日、綱村公参勤の為白石城。辰信、親戚衆として城主三之助の介添えを行う。
元禄 7年 1694 5月9日、綱村公、帰国の途上白石城に御着。辰信、城主三之助の介添えを行う。9月、嫡男信成、扈従組見習。10月扈従組となる。
元禄 8年 1695 信成、奥扈従となる。
元禄 9年 1696 5月21日、辰信、目付使番を命ぜらる。8月11日、辰信、嗣君目付を命ぜらる。
元禄10年 1697 4月26日、辰信、江戸において公義使(留守居役)を命ぜらる。  7月、片倉家内紛起こる。
元禄11年 1698 11月、片倉家内紛詮議。
元禄12年 1699 1月19日、片倉家内紛裁決。辰信、公義使、馬上役辞職。実は片倉家の治世が収まるまで親戚衆として、介添えを命じられたものである。5月26日、片倉三之助景明、具足はじめの儀。辰信列席す。
元禄16年 1703 7月21日、辰信、再度公義使(留守居役)を命ぜらる。8月25日伊達綱村隠居、吉村家督相続。
宝永 元年 1704 5月19日、吉村公初入国の途中白石城に一泊。父辰信が江戸詰の為、信成が親戚衆として御目見。
宝永 3年 1706 9月、辰信、武頭名掛頭を命ぜられ、11月国元へ下る。
宝永 5年 1708 8月、辰信、兵具奉行兼任。
宝永 7年 1710 5月、辰信、近習となる。隠居した綱村公に付き麻布邸に勤める。10月、麻布扈従頭となる。
宝永 8年 1711 1月19日、辰信、辞職し、番頭格式を命ぜらる。
正徳 2年 1712 2月、片倉辰信に、既に将軍家を憚るに及ばざるの内命あり、4月本姓真田に復す。8月16日、真田信成、父辰信の番代を命ぜらる。10月、辰信、綱村公の奥職侍臣を命ぜらる。
正徳 4年 1714 3月28日、信成、江戸御番馬上役を命ぜらる。
正徳 5年 1715 3月、信成長男、信経出生。 母 大條氏。
正徳 6年 1716 6月、信成、武頭となる。
享保 2年 1717 12月、辰信、致仕し一道斉と号す。長男信成家督相続。
享保 3年 1718 12月28日、信成、目付使番を命ぜらる。
享保 4年 1719 3月2日、真田辰信、死去。行年64才。成覚寺に葬る。
享保 9年 1724 11月19日、信成、職を失すること有り、閉門を命ぜらる。
享保10年 1725 5月19日、信成、城番支配となる。
享保18年 1733 10月23日、信成、武頭を命ぜらる。
享保20年 1735 3月1日、信成、長松殿(伊達吉村公正室)奥老を命ぜらる。11月28日、嗣君吉村、将軍吉宗の養女利根姫を娶る。信経、来嫁の日、小姓組に接し奉膳の間のことに従う。
元文 元年 1736 3月1日、信経、江戸御番馬上役となる。
元文 2年 1737 嗣君吉村6月5日、江戸発。16日仙台城着。この時信成、長松殿の付人として仙台に従う。
元文 4年 1739 信経長男、信廣出生。 母 板垣氏。
寛保 3年 1743 この年、信成二男信周、吉村公の命により太田七九郎の名跡を襲い太田嘉七郎と称す。3月信成の実弟英信命を得て真田分家を立つ。4月8日、片倉村定隠居し、嗣子勇之助(村廉)に家督許さる。18日信経、扈従組となり、27日奥扈従に転ず。4月16日、片倉村定、江府へ使者をもって隠居許可御礼を申し上ぐ。5月21日、長松殿より村定に、真田信成の奉書をもって隠居御祝として御肴一種を賜う。7月25日、伊達吉村公隠居。宗村公襲封す。同月信経、吉村公に付従し袖ヶ崎邸に勤む。
元年 1744 1月23日、片倉村定死去。行年68才。2月16日、信成致仕し、閑流斎と号し家を信経に伝う。
4年 1747 1月10日、信経の実弟太田嘉七郎、江戸で死去。行年25才。8月13日、信成死去。行年66才。覚寺に葬る。10月、信経、袖ヶ崎奥表御小姓を辞職す。
宝暦 元年 1751 12月24日、吉村公死去。行年72才。
宝暦 2年 1752 12月1日、信経、武頭を命ぜらる。
宝暦 3年 1753 3月1日、信経、扈従副頭となる。
宝暦 6年 1756 4月25日、信経、近習・公用執事・祭祀奉行を兼務す。5月24日、宗村公死去。行年33才。7月9日、重村公襲封。
宝暦 8年 1758 10月、信経、公義使(留守居役)を命ぜらる。
宝暦13年 1763 10月13日、信経の母大條氏死去。行年69才。江戸増上寺塔頭良源院に葬る。
明和 2年 1765 1月26日、信経、免職閉門を命ぜられる。
明和 7年 1770 7月1日、信経、長男廣病身のため田村顕道の三男信親を養子とす。8月長男廣の家督を除く。9月28日、信経、武頭となる。
明和 8年 1771 3月23日、信経、内蔵介に改名を命ぜらる。25日信経、重村公の参府の駕に従う。6月廃嫡した廣死去。行年23才。12月信経、近衛内前復辟を賀す使者として京師に赴く。
明和 9年 1772 重村公、5月4日、帰国のため江戸発駕。11日白石城に一泊。信経、親戚衆として御目見。9月16日、17日東照宮祭、信経、東照宮神輿供奉を勤める。
安永 3年 1774 9月9日、信経、本丸城代となる。
安永 4年 1775 12月9日、信経、致仕し等夢斉と号す。家跡を嗣子信親に伝う。
安永 5年 1776 7月晦日、信親病を得死去。行年20歳。同日信経の妻板垣氏死去。行年71歳。ともに成覚寺に葬る。10月22日、條頼始の三男信珍を嗣子とすることが許可され、家督相続する。
安永 7年 1778 この年、信珍の女瀧子と婚儀。
安永 8年 1779 11月6日、分家英信死去。成覚寺に葬る。
天明 元年 1781 7月20日、信珍瀧子死去。行年19歳。成覚寺に葬る。
天明 2年 1782 この年、信珍、後妻として蜂屋可廉の三女を娶る。
天明 3年 1783 天明の大飢饉。
天明 6年 1786 5月、信珍の長男信凭出生。母、蜂屋氏
寛政 2年 1790 6月23日、伊達重村公病により致仕。12月9日、世子斉村襲封。
寛政 3年 1791 9月21日、信珍、後妻蜂屋氏死去。行年25歳。
寛政 4年 1792 5月16日、林 子平、「海国兵談」筆禍事件。翌年5月21日、死去。行年56歳。この林家と後に縁を結ぶことになる。
寛政 6年 1794 8月19日、信珍死去。行年33歳。家を幼児信凭9歳に伝う。
寛政 8年 1796 4月21日、前藩主重村公死去。行年55歳。7月27日、斉村公、仙台城で死去。行年22歳。秘して喪を発せず。8月12日、喪を発す。9月13日、重村公の弟堀田正敦に藩政補佐を依頼。29日、斉村公嫡男政千代(1歳)襲封。
寛政 9年 1797 4月28日、片倉小十郎村典、奉行職を命ぜらる。
寛政10年 1798 3月2日、信経死去。行年84歳。成覚寺に葬る。嗣子が次々死去する中、まさに一人で家を守りぬいた。
寛政12年 1800 7月分家真田信知の長男幸清出生。母、大和田氏。
文化 4年 1807 この年信凭、西山氏の女を娶る。
文化 6年 1809 8月信凭、病篤して嗣子なし。分家真田信知の長男幸清を嗣とすることを請願す。8月6日、信凭死去、行年24歳。成覚寺に葬る。12月、幸清10歳許され、宗家を継ぐ。藩公の命により、片倉小十郎村典後見となる。
文化 8年 1811 4月20日、信凭の妻、西山氏死去。行年20歳。成覚寺に葬る。
文化 9年 1812 2月7日、伊達周宗公病のため致仕。庶弟、斉宗、襲封。4月24日、周宗公死去。行年17歳。
文化12年 1815 10月27日、片倉村典、病につき奉行職御役御免。嫡子景貞の名代奉公を願い出、許される。
文化14年 1817 3月14日、片倉村典、隠居願いを親戚衆真田幸清をもって奉行衆に差し出す。4月11日、嫡子景貞家督相続。この頃幸清、林 珍平友通の長女チョウ(喜曽)を娶る。
2年 1819 5月24日、伊達斉宗死去。行年24歳。7月15日、世子斉義公、襲封。
5年 1822 3月12日、片倉村典公死去。行年65歳。
7年 1824 4月1日、幸清の長男喜平太(幸歓)、出生。母、林氏(喜曽) 12月幸清牒役となる。
10年 1827 11月27日、斉義公、死去。行年30歳。
11年 1828 1月28日、斉邦公、襲封。
天保 2年 1831 8月喜平太(幸歓)、初めて斉邦公に謁見す。9月喜平太歳男子を命ぜらる。職禄二円三人口。
天保 5年 1834 2月、片倉景徳、家督相続。8月21日喜平太、歳男子3年勤勉の功をもって二方金一人口を加賞され児扈従となる。
天保12年 1841 7月24日、斉邦公、死去。行年25歳。9月7日、伊達慶寿(慶邦)公、襲封。10日、喜平太斉邦公遺物時服金銀を賜う。
天保13年 1842 10月、喜平太、君家省略の改革により職禄を世襲に加増し免職となる。
弘化 2年 1845 2月9日、喜平太の長女蓮子出生。母、斎藤典膳の長女嘉子。
弘化 3年 1846 6月15日、喜平太、大扈従となる。職禄判金一枚を賜う。8月5日、剣術馬術助手和歌連衆を命ぜらる。
弘化 4年 1847 二女敏子出生。
嘉永元年 1848 1月11日、喜平太、実名を幸之から幸歓に改める。
嘉永 2年 1849 3月21日、喜平太、慶邦公に従い江戸到る。西洋学を志し、砲術・兵制を大槻磐渓、大塚同庵に学ぶ。
嘉永 3年 1850 8月18日、喜平太、詞堂並猿楽担当学問主長を命ぜらる。葦東山の撰集諱辰録続集の編成を命ぜらる。
嘉永 4年 1851 5月27日、喜平太の三女理子出生。
嘉永 5年 1852 4月、喜平太、諱辰録続集の稿成る。賞誉を賜う。
嘉永 6年 1853 2月25日、幸清病気有り、喜平太の名代を上願し、3月15日勅命あり、父幸清に代わり家職を執る。4月、慶邦公に従い9月9日、帰国。11月9日、同勤正坐を命ぜらる。
嘉永 7年 1854 1月、喜平太、砲術兵法蘭学の研究を命ぜらる。6月18日、幸清妻林氏喜曽死去。行年53歳。成覚寺に葬る。8月17日、喜平太の四女萬寿出生。
安政 2年 1855 この年幸清、刈田郡矢附村に真田塾を開く。4月4日喜平太、側扈従に転ず。9月喜平太、西洋兵制砲術を命ぜられ、江戸に到り幕臣下曽根金三郎信敦に学ぶ。
安政 3年 1856 この年喜平太、下曽根金三郎信敦から皆伝さる。6月1日、西洋砲術兵法の師範を命ぜられ且つ研究日数僅少にして成功せるを賞せられる。9月9日、喜平太、小納戸判形役に転ず。8月11日、喜平太、士隊長兼近習勤師範役たる元の如しと命ぜらる。
安政 4年 1857 9月19日、喜平太の長男昌棟出生。11月喜平太、西洋直伝習のため江戸に到る。
安政 5年 1858 5月8日喜平太、帰国。9月1日喜平太、士隊長を免職。近習勤師範役元の如し。
安政 6年 1859 2月16日喜平太、辞職章を奉る。これより先、旧制を廃し新制を開き兵制を変革し、士気挽回の術策二十二条を建立す。議論紛々固辟固循。建議行われず、辞表を呈す。18日喜平太、目付使番に転じ、坐列元の如く命ぜらる。
万延 元年 1860 喜平太、執政柴多民部を賄賂の横行、紙幣の私造のための物価高騰を以って弾劾す。江戸留主番一年詰に左遷。3月江戸に到る。慶邦公に仙台の実際、国体の疲弊を建言す。閏3月3日慶邦公江戸発駕。喜平太、随行を命ぜらる。同月23日柴多民部終身逼塞を命ぜらる。9月15日市令(町奉行)兼切支丹改め鉄砲乱造取締を命ぜらる。豪商一手株を廃し、日価の法を立て常平倉を設け隠売女を禁ず。これにて国体快復す。
文久 元年 1861 2月18日喜平太、藩校、養賢堂幹事を兼務。学政改正学風一変人材教育九条を建言。12月職を辞す。
文久 2年 1862 7月11日、使者遠藤文七郎の一行、仙台を発し京都に向かう。8月中旬京都藩邸着。近衛公の指示により遠藤起草の建白書提出。15日密勅を賜う。10月16日喜平太、再び目付使番を命ぜらる。同日遠藤文七郎の一行、慶邦公に復命し勅書を奉ずる。
文久 3年 1863 この年幸清、真田塾を閉鎖す。2月3日慶邦公、仙台を発し京都に向かう。喜平太、上洛随行を命ぜらる。14日江戸着。幕府、慶邦公に先立ち三日、道を東海道に執り上洛す。ゆえに道塞がり行く能わず。且つ近衛家より密使有り。幕府より先立ちて出京するに非ざれば勤皇の実効なきを申し来る。喜平太、中山道駅毎人馬糧食の事を謀り、幕府に先立つ3日上洛せしむ。3月18日帰国。7月15日喜平太、病により辞職。
元治 元年 1864 1月15日喜平太、脇番頭を命ぜらる。士風挽回ノ策七条を建言す。9月15日再び目付使番、列位元の如く命ぜられ、改革担当を命ぜらる。前建議一つも採用なし、廟議かなわず、上書し辞職す。
慶応 元年 1865 4月23日喜平太、仮市令(町奉行仮役)を命ぜられるも命を奉ぜざる七日、29日仮本丸城代(本丸城代仮役を命ぜられやむなく命を奉ず。27日仮副隊長脇番頭仮役に転ず。


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